松尾芭蕉と、その弟子・各務支考についての評伝です。芭蕉については言わずもがなですが、弟子の支考となると、あまり人口に膾炙していません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%8B%99%E6%94%AF%E8%80%83
支考は芭蕉とは21歳差で、親子ほどの年の差があって、芭蕉の弟子として過ごしたのは、わずか4、5年足らずだそうですが、芭蕉の大坂での最後を看取ったり、また遺書を代筆したりと、短いながらも濃厚な年月を供にして、蕉門十哲(芭蕉の10人の弟子)にも名前が挙がっています。芭蕉の臨終の様相を小説化した芥川龍之介の名作「枯野抄」の中では
支考が枕もとへ進みよつた。が、この皮肉屋を以て知られた東花坊には周囲の感情に誘ひこまれて、徒(いたづら)に涙を落すやうな繊弱な神経はなかつたらしい。彼は何時もの通り浅黒い顔に、何時もの通り人を莫迦(ばか)にしたやうな容子を浮べて、更に又何時もの通り妙に横風に構へながら、無造作に師匠の唇へ水を塗つた。しかし彼と雖(いへど)もこの場合、勿論多少の感慨があつた事は争はれない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」――師匠は四五日前に、「かねては草を敷き、土を枕にして死ぬ自分と思つたが、かう云ふ美しい蒲団の上で、往生の素懐を遂げる事が出来るのは、何よりも悦ばしい」と繰返して自分たちに、礼を云はれた事がある。が、実は枯野のただ中も、この花屋の裏座敷も、大した相違がある訳ではない。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/72_14932.html
というように、非情冷徹な理論家(ある意味、夏目漱石の葬式に赴いた、芥川龍之介自身の投影と見ることもできます)として描かれていますが、「古池や蛙飛び込む水の音」を、蕉風開眼の句としてクローズアップしたり、芭蕉の忌日に合わせて、日本全国各地で盛大な句会を催して句碑を建てたりと、蕉風の伝播に多大な功績を残しました。卓越したイベント・プロデュース能力があった人物で、とくに芭蕉の33回忌のさいに編纂された追悼句集「三千化」では、12ヶ国、44ヶ所、1200余名もの俳人が応じたといわれています。また誰よりも早くに加賀千代女の才能を発見して、世に出る機会を作ったのも支考でした。
芭蕉に会う前は、雲水で、粋狂の人でもあり、正徳元年(1711)には、自分の「終焉記」を書いて「自分はすでに死んだ」と佯死(ようし)宣言を行い、しかも自分への追善句集「阿誰話(たそのわ)」をいけしゃあしゃあと上梓したりと、かなり世間を食ったようなことをしています。これもまた、自分と蕉門のブランドを確立するためのパフォーマンスで、その結果、芭蕉は「俳聖」とまで呼ばれて神格化していきますが、その一方で、支考は「芭蕉を売り歩く男」「俳魔」などと呼ばれて、貶められる一因にもなりました。
ただ、蕉門経営の辣腕家としての支考は食えない男なのですが、支考の俳句自体は、えらく若々しく、瑞々しい感性を感じて、このギャップが面白いんですわ。例を挙げると
菅笠を 着て鏡見る 茶摘哉
茶摘み娘が、菅笠をかぶって、鑑を見る。なんてことない田舎の日常光景の一齣なんですが、さりげない娘心を読み取って、どこかモダンなセンスを感じます。
出女の 口紅おしむ 西瓜哉
出女(でおんな)というのは私娼のことだそうですが、これも口紅の「赤」と、西瓜の「緑」という色の対比が鮮やかで、感心を覚えた句です。西瓜というのは文字通り、西洋の瓜で、16世紀頃に日本に渡来して、庶民の口に入るようになったのは江戸中期。支考の時代にはハイカラな食べ物でもありました。じつは芭蕉の死後、江戸を中心に活動したシティ派の宝井其角に対抗して、支考は主に地方を行脚して「田舎蕉門」を確立するのですが、こういう平易なわかりやすい言葉で、かつハイカラな句というのは、田舎の俳人たちには大いに受けただろうな、と思います。
しかし、支考の作品で、ぼくが一番、興味を覚えたのはこの句です。
しかられて 次の間に出る 寒さ哉
これは芭蕉の死の前日に作られた句だそうです。支考が夜通しで病床の芭蕉を看病して、ところが病人特有の勘気に触れたんでしょう。芭蕉に罵倒されて支考がしゅんとして隣座敷に出たわけで、そのとき感じた「寒さ」を歌ったものです。これは叱られて寒さを覚えたのではなくて、誰もいない隣座敷に移って、ふと芭蕉が死んでいなくなることへの予感を感じ、支考の我が道の将来への不安、未来への寒さを感じた心境句とぼくは捉えました。
後世に「俳魔」とまで呼ばれた俗っぽさはここにはなく、素直かつ純朴無垢な青年俳人・支考の姿が垣間見えます。多面的で、振幅のある人物で、それだけに色々と誤解も多いのでは?という気がしてます。毀誉褒貶激しいのですが、もうちょっと正当に評価されてもいいと思います。
http://www.osaka-kentei.com/index.html
http://www.osaka-kentei.com/text/index.html
大阪検定に限らず、京都検定でも奈良検定でも江戸検定でも、「ご当地検定」には色々と懸念に思うところがあります。何よりも僕が危惧を覚えるのが検定によって、まちを「公式化」「定型化」してしまうことです。
元来「まち」というのは、いろんな物語を包括しているものです。伝説や伝承、民衆信仰、異説や異論、ドラマ、怪談、妖怪譚、都市伝説、ミステリーを持っている。大阪なんかはその宝庫ですわ。日本でいっちゃん、わけわからんもんが多い都市です(笑)それが大阪のまちの面白さ、醍醐味なんですが、ご当地検定は資料主義ですので、そういう眉唾なものは基本的に排除されてしまいます。これは一歩間違えれば、まちの文化の封殺につながりかねない可能性を秘めています。
「大阪あそ歩」では「あなたのまちを語ってください」とガイドさんにはお願いしています。そうすると、都島は「妖怪(ぬえ)が眠るまち」になり、今里は「神武天皇が通ったまち」になり、寺田町は「西国巡礼のまち」になりました。http://www.osaka-asobo.jp/machiaruki/07_01.html
http://www.osaka-asobo.jp/machiaruki/08_01.html
http://www.osaka-asobo.jp/machiaruki/15_01.html
こんな奇妙奇天烈な物語は大阪検定には出てこないでしょう。なんの資料もないですから。まちの人が想像を逞しくして勝手にいってるだけ。しかし、この意味不明な、わけのわからん大阪のまちの物語を、そのまま許容して、共有して楽しもうやないか、というのが大阪あそ歩の精神です。異説も異論も曖昧模糊も有耶無耶も、そこには、まちの人の「想い」が込められているのだから否定できません。
学者・先生・専門家が監修する大阪検定と、市民が語る大阪あそ歩は180度ちがうベクトルにあります。俯瞰的、客観的に考えると、大阪のまちの公式化=大阪検定と、そのカウンターカルチャーとなる大阪あそ歩が同時期に始まったのは、まちへの視点を多面的、多角的にして中和剤になって良いのかな?という気もしてますが。要はバランスの問題です。大阪検定を受けた方は、是非とも大阪あそ歩にも参加してください(笑)
公式と非公式。正と反。モノフォニー(単旋律音楽)とポリフォニー(複旋律音楽)。大阪検定と大阪あそ歩は、もしかしたら、そういう位置づけにあるのかも知れません。
「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む」 一休宗純
今日は仏誕会でした。ぼくは抹香臭い人間で、こういう祭りがあると殊勝な気持ちになります。根が単純なんです。それで仏心に目覚めたというわけではないのですが最近つくづく思うのは慈悲の難しさ。人を許すこと・・・ではなくて自分の罪を認め、許しを乞うこと。慈悲深くなることではなくて慈悲を請うこと。
たとえばキリストは本当に「許した人」であるか? むしろ「許しを乞うた人」ではないのか?「十字架のキリスト」は罪人の刻印であり、全身全霊をかけて何もかもをなげうって神の慈悲にすがった姿ではないのか?だからでこそ人の心をこんなにも打つのではないか?・・・ん?仏誕会やというのに、いつのまにかキリストの話になってまいましたな。
まんまんちゃん、ああん。
大阪のまちを歩いていると、時折、興味深いものを見つけるんですが、最近、ぼくの中でヒットしたのが、大阪は寺田町にある源ヶ橋温泉。
「温泉」という名前がついていますが、じつは昔ながらの「銭湯」で、創業は昭和12年(1937)という老舗。この銭湯、何が凄いか?というと、黄土色の瓦の小屋根の上に、なんと「自由の女神」の彫刻が2体、左右対称で飾られていて、大屋根の上には「金のシャチホコ」まで飾られています。当時では破格の8万円という建築費をかけて、宮大工が3年がかりで作った和洋折衷の建物です。
「一体、なんで自由の女神を屋根に?」と思って、色々と調べてみると、銭湯は「入浴」するものだから「ニューヨーク」の象徴の自由の女神を装飾したのだとか。「オバマ大統領当選に浮かれ騒ぐ小浜市」に匹敵するような駄洒落センスに脱帽です。また男湯側には「南山寿」(なんざんじゅ)という石碑が立っていて、これは源ヶ橋温泉の創業者の誕生祝いに、当時の大阪市長(関一市長?)が贈ったものだそうです。大阪市長も源ヶ橋温泉の駄洒落センスを認めた(?)のかも知れません。
この自由の女神には、また面白いエピソードがあって、太平洋戦争の最中に「さすがに敵国の女神を飾るのはいかんで」と問題になったそうで、兵隊が女神像を外しに来たそうですが、あまりにも屋根の土台がしっかりしていて、何をしても外れなかったので「……しゃあない」と、そのままにして去ったそうです。ほんまかいな?と疑ってしまうようなエピソードですが、個人的に、こういう大阪人のアバウトな対応は嫌いではありません。ちなみに、この源ヶ橋温泉は、「昭和モダニズムの特徴を残す洋風意匠と市民文化的意義」を評価されて、銭湯建築としては我が国初の登録有形文化財にもなっています。
大阪のまち歩きの面白さは、こうした何気ない日常風景の中にあります。ガイドブックに載っている名所旧跡スポット巡りもいいですが、ときには無目的に歩いたりして、「大阪のまち」そのものを体験してみてください。ちょっとしたところに、意外な「おもろいもん」が転がってますから。
画像はジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』・・・NYの下町魂、肝っ玉母さんの歴史的名著です。
ジェイン・ジェイコブズが提唱する「魅力的な都市」の4つの条件。
http://wiredvision.jp/blog/kojima/200801/200801240100.html
1.街路の幅が狭く、曲がっていて、一つ一つのブロックが短いこと
いくつものルートが利用できる「路地」の必要性。
2.古い建物と新しい建物が混在すること
新しい建築物ばかりではなく、古い建築物も残して、多様な都市のイメージを尊重する。
3.各区域は、二つ以上の機能を果たすこと
単一の用途しか持たないのではなく、2つ以上の機能を持っている。工業地域や商業地域、生活居住地域といった単純なゾーニングへの批判。
4.人工密度ができるだけ高いこと
子供から高齢者まで。企業家、学生、芸術家など、多様な人々がコンパクトな都市に生活している。
すごいですな。ヒューマンスケールのまちとはどういうものか?どうすれば、そんなまちが作れるのか?をズバリと提言してます。ル・コルビュジエや黒川紀章の仕事を、すべて一撃で粉砕、ノックダウンするような、この偉大すぎる知性。参りました。心の底から。
もっともっと読まれるべきです。知られるべきです。
http://www.prestonsturges.com/main.html
1941年(映画公開年)のNYタイムズのベストテンでは、あの『市民ケーン』を押さえて堂々のベストワンに輝いた伝説の名画です。日本では長らく非公開で1994年に初公開。ぼくは当時16歳でした。はじめてプレストン・スタージェス作品みたときはほんとに感動しました。
当時はワイルダー、キャプラ、ホークス、ルビッチなどにはまっていて、なにかの文献でスタージェスの名前を見つけたんですな。ぜひ見たいと思ったのですがまったくビデオがなかった。古本屋を探し回ってスタージェス祭のパンフを見つけたときは、文字通り欣喜雀躍しました。これ、映画の脚本が掲載されていて、本当に素晴らしいパンフでした。
『レディ・イブ』は旧約聖書のアダムとイブがモチーフ。 蛇、リンゴといった小道具が効いてます。神は細部に宿る。洗練されてるのにドタバタ喜劇であるのがスタージェスの真骨頂。オススメです。
「或老人の説に近松氏は学力厚きにすぎて其名高けれと其作古風にして婦女童蒙の耳に入かたき所あり海音の作はあらたにして能田夫児輩にわかりやすしと語られたりし」
『浪速人傑談』(政田義彦著・安政2序「続燕石十種」所収)より
紀海音の師匠が契沖というのもこれまた面白いですな。
元禄期の大阪文人の綺羅星の如くの才能。
「大阪あそ歩」の公式サイトがオープンしました。
※「大阪あそ歩」公式サイト
http://www.osaka-asobo.jp/index.html
大手の旅行会社が手配するプロのガイドさんではなくて、現地に住んでいて、現地にゆかりのある「大阪人」を案内役にして、「大阪のまち」を一緒にブラブラと歩いて、現地の知られざる物語や雰囲気、ストーリーを体験して楽しもうというプロジェクトです。やってみたら、これがもう、おもろうて、おもろうて……USJや海遊館、大阪城や通天閣と、大阪には名だたる観光施設がありますが、いっちゃんおもろいのは「まち」そのものですわ。今年は「春」「秋」の期間に実施される予定で、春は4月19日(日)からスタートして5月31日(日)まで、大阪市内で「25のまち歩き」「5つのまち遊び」が実施されます。
※大阪あそ歩のまち歩き、まち遊びの予約申込はこちらで可能です。
http://www.osaka-asobo.jp/bosyu/index.html
そもそも大阪の最大の観光資源、魅力というのは「ひと」です。たとえば徳川政権時代の江戸は人口100万人のうち50万人が武士、面積では武家屋敷が7割を占めていたといわれています。対して江戸時代の大坂は人口30万人で、武士はわずか1500人~3000人ほどでした。なにごとも町民たちが話し合いで決定した自治都市で、実際に大坂は「浪華八百八橋」といわれるほど橋が多い都市でしたが、そのうち公儀橋(幕府が作った橋)はわずか12しかありませんでした。町民たちが私財を投じて橋や堀、道路といった公共物を作って、みんなでそれを共有、シェアしていたわけです。それが大坂人の成功の証明であり、誇りであり、生きざまであったわけです。
「お上」とか「上様」といった政治的権威や権力はあまり通用せずに、「王様は裸だ!」と言い切るような実質主義が大阪人の特質です。「武士は食わねど高楊枝」的な痩せ我慢はなく、自分の中に明確な価値判断基準をもっていて「美味しいもの」「楽しいもの」「面白いもの」「素晴らしいもの」を追求します。世界に誇る演芸文化や食文化を生んだのも、こうした大阪人のメンタリティが土壌にあります。
人間主義で、ヒューマニストで、暖かくて、面白い。「はんなり」「まったり」という大阪弁がありますが、これが大阪人の性質で、大阪観光の最大の魅力はここにあります。大阪に旅行したさいは、この大阪人のパーソナリティにふれてほしいのですが、今回の大阪あそ歩は、その絶好の機会になりうると思っています。ぜひ大阪あそ歩に参加して、大阪の「まち」や「ひと」の素晴らしさにふれてください。
日本のマーケットはコミュニケートしないことで利益を上げようとします。自分をさらけ出さずに、殻に閉じ籠って、匿名で、仲間内で、安住することが支持されがちです。島国根性というやつでしょうか。
例えば、コンビニは商品を手に持ってレジにおいてお金を置けば事足ります。会話なんて全く必要ありません。ネットショッピングならクリックひとつで何もかも購入できる。いまは家、マンションまで買えるとか。簡単便利なように思えますが、じつは、こういったアンコミュニケートなマーケットが、歪な社会状況(クレーマー、モンスターカスタマー、無縁社会、自殺大国)を産んでいます。
今後の日本の課題は、コミュニケートすることで利益を上げるマーケットを作らないといけません。交流やマッチング、人間と人間とが触れあって成立する市場を作る。その構築が時代の要請になってきます。
現代中国の覇権思想は、19世紀後半から20世紀前半にかけての、列強支配による心理的ストレスが起因のポストコロニアル現象そのものです。それを「中華思想だ!」と非難する人は中国を知りません。中華思想とは元来、文化や礼儀を知る君子を頂点として、それに従わないものを野蛮、夷狄、蕃俗だと非難するものです。また巨大な万里の長城を作ったように、異民族はこっちに来るな!・・・という平和主義、鎖国主義的な思想です。
例えば、日本はかつて中国に朝貢外交してましたが、朝貢すると中国は数倍以上の回賜を送って返礼しました。宗主国が搾取して儲ける近代の帝国主義、植民地主義とはまるで違います。中華思想は平和秩序を重んじる、戦争を回避する、高度な安全保障システムでした。ぼくは現代中国には、この文化的で平和的な中華思想の本然を思い出して、発揮して欲しいと切に願います。
歴史の悲劇はポストコロニアルの中国がチベットを植民地化したこと。虐待された子供が親になると、同じように子供を虐待してしまう。その悲劇に似てます。