上海の彩り~上海開港(1842)から上海万博(2010)まで~
1842年。南京条約によって静かな、地味な漁村だった上海が欧米列強諸国に解放されました。中国からは最上級の茶や絹、陶磁器が輸出され、列強からはこれまた極上の阿片が齎され、黄浦江の外灘には壮大流麗な外資系の西洋建物が並んでいきます。
英国人の金融家、ユダヤ人の銀行家、アメリカ人の宣教師、ロシア人のサーカス団員、フランス人の俳優、オランダ人の保険屋、ドイツ人の音楽家、日本人の軍人・・・社交界の名士から大富豪、政治思想犯、犯罪者、亡命者まで。エキゾチックを通り越して、世界の狂乱をそのままダイレクトに輸血したようなカオスの混血都市が誕生したわけです。1930年代には「東洋のパリ」と呼ばれ、2500年に渡る儒教国家・中国の道徳はかつてないほどに退廃します。代わりにダンスホール、社交倶楽部、阿片窟、売春宿が乱立して「魔都上海」の夜の享悦楽は世界中の凡ゆる男を欲情させました。
清末期の混乱も上海の疾風怒濤の急拡大に拍車を掛けました。太平天国や数々の地方反乱から逃れようと大量の避難民が上海に集まり、彼らは苦力(クーリー)として、彼女らは娼婦として、上海経済の最下層の労働者となりました。また弾圧された改革派の闘士たちも上海の漆黒の闇を隠れ蓑としました。孫文も、蒋介石も、毛沢東も、みな上海で決起し、上海の財閥(上海閥)と結託し、やがて中国全土を支配していきます。
しかし1949年に中華人民共和国が成立すると、中国共産党の指導者たちは、名だたる革命家を排出した上海閥の力を恐れたのか、その力を削ごうとします。悪名高い文化大革命では「西欧かぶれ」の上海は最も解りやすい標的となり、呉の英傑である孫権が3世紀に建立した名刹・龍華寺でさえ、徹底的に破壊され、廃寺に追いやられました。中国にとって外国資本によって開発された上海は「屈辱の都市」であり、上海憎しの怨嗟は、なんら外資に関係ない古代の名刹にまで及んだわけです。およそ半世紀近くに渡って共産党指導部は上海閥を弾圧し、その富を強引に吸い上げて、内陸部の首都・北京(北京閥)に供給し続けました。
その流れに変化が訪れるのは天安門事件と、その後、共産党指導部が緩やかながらも改革解放路線に転じたことに拠ります。上海は屈辱の都市から一転して改革開放路線の象徴となり、共産党指導部の承認によって2010年、ついに「上海万博」が成立しました。それが上海閥の勝利であるのか、それとも北京閥の余裕であるのか、その判断は僕にはつきかねますが、ただひとつ言えることは上海万博は、上海という都市の170年の歴史の中で、初めて陽光が当てられた歴史的転換であったこと。
中国に、アジアに、上海あり。その高らかな表明。世界の都市文化に、鮮やかな彩りが添えられました。