古本屋で発見。ひとめぼれ。即買い。『原色 日本島図鑑』。日本の有人島433を完全収録とか。また勢いでマニアックな本を買ってしまいました(笑)
大阪はいまは陸地化してますが、かつては「島」だらけでした。地名にその名残があります。柴島、都島、堂島、福島、加島、御幣島、出来島、姫島、酉島、歌島、四貫島、恩加島、岡島、江之子島、池島、桜島・・・。淀川と大和川が注ぎ込む大阪湾は、土砂が堆積して、ポコポコと島が生まれていった。これを俗に「難波八十島」といいます。
記紀神話の中でイザナギとイザナミが「国産み」をする伝説がありますが、ぼくは、これは難波津、難波八十島の光景から連想されたと確信しています。イザナギとイザナミの国産みの舞台は淡路島なんですが、淡路島から東の大阪湾を眺めていると、時が経つにつれて、自然に、次々に砂洲、島ができていった。古代人にとって、じつに神秘的で、不思議な光景だったんでしょう。「そうか。こうやって国土は生まれていくのか・・・」と古代人たちは思い、それが国産み伝説につながっていった。
ちなみに天皇家の幻の秘祭で「八十島祭」というものも、かつてありました。これは天皇が代替りをすると必ず催行されたものですが、勅使が都(奈良、京都)から難波津、難波八十島にやってきて、そこで新天皇の衣を振る・・・という神事です。
難波津、難波八十島の地とは、国土を次々と生み出す、神秘的な「国産み」の聖地です。その聖なる土地で衣を振ることで、国土造成の神々の魂を授かり、それを新天皇が纏うことで、初めて、正式に、日本の国土の王として迎え入れられたわけです。古代より行われていましたが、鎌倉政権の勃興で天皇家、貴族が没落すると、資金がないという理由で途絶えてしまいました。
大阪、難波津は、こういう神話、伝説の宝庫です。また瀬戸内の島文化圏の最東端にあるのが難波八十島で、大阪人とは、じつは「島の民」の後裔といえます。
大阪はいまは陸地化してますが、かつては「島」だらけでした。地名にその名残があります。柴島、都島、堂島、福島、加島、御幣島、出来島、姫島、酉島、歌島、四貫島、恩加島、岡島、池島、桜島・・・。淀川と大和川が注ぎ込む大阪湾は、土砂が堆積して、ポコポコと島が生まれていった。これを俗に「難波八十島」といいます。
記紀神話の中でイザナギとイザナミが「国産み」をする伝説がありますが、これは難波津、難波八十島の光景そのものと確信しています。イザナギとイザナミの国産みの舞台は淡路島なんですが、淡路島から東の大阪湾を眺めていると、時が経つにつれて、次々に砂洲、島ができていった。古代人によって、じつに神秘的で、不思議な光景だったんでしょう。「そうか。こうやって国土は生まれいくのか・・・」と古代人たちは思い、それが国産み伝説につながっていった。
瀬戸内の島文化圏の最東端。それが難波八十島。大阪人とは「島の民」の後裔といってもいい。
ちなみに天皇家の幻の秘祭で「八十島祭」というものが、かつてありました。これは天皇が代替りをすると必ず催行されたものですが、勅使が都(奈良、京都)から難波津、難波八十島にやってきて、新天皇の衣を振る・・・という神事でした。
難波津、難波八十島の地とは、国土を次々と生み出す、神秘的な「国産み」の聖地です。その聖なる土地で衣を振ることで、国土造成の神々の魂を授かり、それを新天皇が纏うことで、初めて、正式に、日本の国土の王として迎え入れられたわけですな。古代より行われていましたが、鎌倉政権の勃興で天皇家、貴族たちが没落すると、資金がないという理由で途絶えてしまいました。
大阪、難波津は、そういう神話、伝説の土地柄です。
※画像は花巻市の「羅須地人協会」です。
「詩は歴史性に対して垂直に立つ」とは稲垣足穂の名言ですが、それを見事に具現化した天才詩人が、ぼくは宮沢賢治だと思ってます。
また賢治は上昇する角度が半端ないです。鳥や飛行機のそれではない。ペンシルロケットのように、どこまでも、まっすぐに、垂直に、飛翔していく。
「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」
(宮沢賢治『農民芸術概論』)
詩的な、余りに詩的な!
「捕鯨のまち」として世界的に有名な太地町ですが「大背美流れ」の話はあまり知られてません。
明治11年(1879)はものすごい不漁の年で、このままでは年が越せない・・・と焦った鯨方が「背美の子連れは夢にも見るな」という古くからの伝承を無視して子連れの鯨を狙いました。すると鯨は凄まじい勢いで大暴れを始め、鯨方は真冬の朝4時から翌朝10時まで、なんと30時間にも及ぶ激闘を繰り広げ、ようやくしとめることができました。ところが精根尽き果てた鯨方は鯨を曳きながら帰港することができない。それどころかどんどんと船が沖に流されてしまう。生き残るためには仕方ないと泣く泣く鯨を切り離し、しかし、それでも漕ぎ出すことができず、船はすべて漂流。
結果として出港7日目に奇跡的に伊豆に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名。餓死12名、行方不明89名を出すという未曾有の大惨事になりました。当時の太地鯨方は総勢184名で、突如100名以上の鯨方を失った太地は「死の村」と化し、海に向かって母や妻たちが狂ったように幾日も泣き叫んで走り回ったといいます。これが俗にいう「大背美流れ」で、このとき太地の古式捕鯨の伝統は潰えました。
いまの太地の鯨方は大背美流れの犠牲者の子孫たちです。一度、「死の村」と化し、そこから血の滲むような努力をして近代捕鯨のまちとして蘇った。こういう背景を知らないと、太地町の人たちの捕鯨にかける想いは理解できません。