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齋藤孝氏の『新しい学力』

2017 年 4 月 2 日

齋藤孝氏の『新しい学力』。

俗にいう「詰め込み教育」が日本人は得意で。これ、日本人だけやのうて、東アジア全体で学習効果が高い。「農耕」とか「科挙」が主流の国、民族の特徴なんですな。農耕は、繰り返しの作業になる。手順を覚えないといけない。まず「型」(エトス)を習得することが最重要。科挙はもちろん記録、記憶重視の詰込み型教育の典型w 要は官僚になるための教育ですからな。前例踏襲主義の前例を知らんといかん。

この手の「詰め込み教育はあかん」という世の中の風潮やけども、そうでもないんやないか?というのが本書のひとつの提言。とくに「ゆとり教育」に関して、手厳しいですな。「ゆとり教育」を導入して「個性教育」とかいってたが、個性豊かな子がほんまに出てきたかどうか?「入社面接でもハンを押したような返答で、無個性・没個性な大学生ばかり」という声なんかを紹介して糾弾してはります。

日本の教育者の例として吉田松陰や福澤諭吉を取り上げてますが、彼らの門弟が激動の明治維新を乗り切った。その教育はまず「詰め込み教育」ありきだった(正確には、まず詰め込み教育。それからアクティブ・ラーニング的な学習をしていた)。そういう意味でも「詰め込み教育」の良さはちゃんと評価して、見直すべきやないか?と。

「詰め込み教育」「ゆとり教育」批判の流れで「これからはアクティブ・ラーニング(主体的教育)や!」というのが文部科学省の方針。詰め込み型教育が「農耕型教育」なら、こちらは「狩猟型教育」といえる。グローバリゼーションで混迷として「答え」なんかない時代。いろんな状況下、ストレスフルな環境下の中で、瞬時に判断して、生き残っていかないといけない。自分で物事をクリエイトしてサバイバルのような知恵、知識が必要となってくる。

ルソーの『エミール』の思想=国民教育(主体的で賢い国民主権者の涵養こそが、近代国民国家の要諦となる)の重要性とか、デューイの「学校は小社会であるべき」という「自由教育論」は、アクティブ・ラーニングの源流で、重要なのはわかるが、いきなりそれをやれ!は日本人の気質にもあわないと思われる。

そもそもアクティブ・ラーニングで国家(文部科学省)が育てようとしているのは「常に新しいことを生み出すクリエイティブかつ金儲けもできる優秀なビジネスマン」みたいな存在で・・・端的にいうと「スティーブ・ジョブズ」みたいな大天才。「ではアップルがみんなジョブズみたいならどうなる?」といえば、たぶん崩壊するw 「ほんまにアップルはみんなジョブズみたいな人間なのか?」というとそうやない。ジョブズの命令に従って、組織の中で、あくせく、マジメに、ちまちま仕事している人材もようさんいる。そもそもジョブズがアクティブ・ラーニング教育をうけていたか?というとそうでもない。(本書では小学校中退のエジソンも取り上げてますが、そもそも学校教育ではエジソンとかジョブズみたいな大天才が産まれるとは到底、思えませんな)

アクティブ・ラーニングのような主体的な教育は必要ではあるが、それが万能の教育か?というと、当然、そうやないわけで。これからの時代の、真の「新しい学力」とは「詰め込み型教育(伝統的教育)+アクティブ・ラーニング(新教育・自由教育)」の合わせ技がええんやないか?それでないといけない・・・というのが本書の主旨。いちいち頷くことばかりでしたw

古典ですが「守・破・離」なんでしょうな。まず「エトス」(型)を覚えさせる。「守の教育」。師匠や先生や講師の通りに、やる、真似る。次に、それを破る。「破の教育」。このときにアクティブ・ラーニング・・・「主体性」「当事者性」「能動性」という方法が重視される。こうやって「守」と「破」を経て、ようやく創造者としての「離」が可能となる。また新しい「守」との出会いを求めて離れていく・・・。

「まわしよみ新聞」は、今年からアクティブ・ラーニングの教材というか、ツールとして三省堂さんの高校国語の教科書『明解 国語総合』に採用されてます。

http://tb.sanseido.co.jp/kokugo/Info/magazines/h-kokugo/pdf/pr_16_sum/2016_sp03.pdf

教科書では、まわしよみ新聞は、芥川龍之介『羅生門』の次。鷲田清一先生のエッセイの前というとんでもないところに挟まれていてww 想定外すぎて、嬉しいことですが^^; しかし、そもそも「アクティブ・ラーニングとはなにか?」という教育学者側の価値づけが知りたかったので、本書は良い理解になりました。オススメですm(_ _)m


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