畠山政長墓。マニアックww
畠山政長墓。マニアックww
応仁の乱は「足利将軍家の御家騒動」+「管領・畠山家の御家騒動」+「管領・斯波家の御家騒動」+「管領・細川家VS四職・山名家」が絡んで、もうなにがなにやらww
京は野辺の夕雲雀
上がるを見ても落つる涙は
畠山政長墓。マニアックww
応仁の乱は「足利将軍家の御家騒動」+「管領・畠山家の御家騒動」+「管領・斯波家の御家騒動」+「管領・細川家VS四職・山名家」が絡んで、もうなにがなにやらww
京は野辺の夕雲雀
上がるを見ても落つる涙は
先だっての「お寺ミーティング 宿坊は寺院を救えるか?〜お寺と観光ビジネス」の堀内さんのブログ記事です。当日も大量の資料でプレゼンしてはりましたが、さらなる資料を駆使して、記事をまとめてはります。誠実な人です。ありがとうございますm(_ _)m
しかし、当日は、ほんまに、堀内さんが可哀想なぐらい、秋田住職がイケズしてはりましたなw ズケズケつっこむ。つーかぼくは「コメンテーター」で秋田住職は「ファシリテーター」のはずやったんですが、ぼくは住職が考えをまとめる時間を作るための場繋ぎのトークぐらいしか許されずで、住職はまったくファシリテートしてません。7割、住職しゃべってたと思います。ほぼ秋田光彦住職独演会でしたww
ぼくから和空下寺町さんに、ささやかに提言したのはひとつ。下寺町の宿坊なんやから、下寺町らしさ…下寺町の場のチカラ、下寺町の人のチカラを活かした観光コンテンツ形成がいいのでは?というものでした。
下寺町は「上町台地」と「ミナミ(千日前、宗右衛門町、道頓堀)」という聖俗、清濁の世界の混交にあって「ふたつの異界」への入口に成り得る場所で。この特殊性を活かさない手はない。例えば、夜は宗右衛門町でお坊さんと一緒に人生を酒の肴にしながら飲んで(坊主バーでんなw)、しかし、翌朝、ちゃんと朝のお勤めを共にする…そういうメニューが下寺町なら可能です。高野山や比叡山ではそういうことはできませんから。なんせ徒歩圏内に盛り場がないw
いろんな意味で挑戦的な和空下寺町ですが、徹底してやってほしいですな。期待しております。ぼくも微力ながら応援したいと思っておりますm(_ _)m
土居 伸彰さんの『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』読了。深い。あと注釈の量に驚きましたww
ユーリ・ノルシュテインの伝説的アニメーション『話の話』は、極私的かつ幽玄的な映像詩で、ノルシュテインの内的世界観が圧縮されて盛り込まれている。一応、なにが描かれているか?は、ある程度は理解できるけど、その意味するところは全く理解できない。ぼくはチェコアニメのシュヴァンクマイエルにはまった17歳ぐらいのときに観ましたが、正直、チンプンカンプンでしたな。『霧につつまれたハリネズミ』もなんやようわからんと思いながらボーッと観てたw
共感できないメタファーの数々。謎めいた原形質性のオンパレード。これは、でも、だからでこそ、深い思索のアニメーション体験となり、他者性や自分の世界観の創造的発見に繋がるんでしょう。
個人作家のアニメーションや抽象的アニメーション。いままでもこうしたアニメーションの系譜は連綿とあったそうですが、これから、ますます、こうした分野の作品群は増えていくという気がします。映画制作やと自然と携わる関係者が多くなる。資金もかかる。アニメーションは極論をいえば1人でも作れる(このあいだ長野・善光寺門前映像祭で池 亜佐美さんと一緒に仕事をして刮目しました)。映画よりもアニメーションの方が、その作家性が際立つという点で、より豊かで面白い作品がでてくる可能性があります。
ノルシュテインの『話の話』は、そうしたパーソナルなアニメーションの奔りであり、レジェンドだった。久しぶりに観たなりましたなw
あと個人的には本書の「幽霊たちの視線を感じる」の章が、ぼくが提唱する「死生観光」(死者と生者が出逢う観光。あやしいw)と通じる部分があって、特に興味深いところでした。アニメというか映画は、死者のものやと、ぼくは前々から思ってまして。それは「時間を止める。時間を封じ込める」からなんですが。まあ、これは話の脱線w
本、かなり重厚ですが、オススメです。ご興味ある方は、ぜひともご一読を!m(_ _)m
土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』
https://www.amazon.co.jp/dp/4845916282/
【北海道】まちスポ恵み野さんで「まわしよみ新聞展」開催です!
新聞は読者(他者)に読まれて、初めて新聞足り得ますから。まわしよみ新聞もまわしよみ新聞を作って終わりやのうて、どこでもいいから掲示して、広く世間の人に読まれて欲しいと思ってます。
「まわしよみ新聞展」のような企画は、もっといろんなところで実施して欲しいです^ ^