■靖国へは行けない
中内功氏の学生たちへの手紙。2001.8.15特別版とか。
■靖国へは行けない
今年も八月十五日がやってきた。
一九四五年の敗戦の日から五十七回目のこの日を迎えた。
時を重ねるに従い、何の日か知らない人がどんどん増えてくる。
どの国とどの国が、何のために、どこで、どう闘ったのか。戦争の名称は、太平洋戦争か、大東亜戦争か。なぜ二つの呼び名があるのか。最後はどうなったのか、終戦か、敗戦か。こんなことすら知られていない。それを、誰も、何とも思わない。
『新しい歴史教科書(扶桑社)』がベストセラーになり、近隣アジア諸国を巻き込む混乱に発展しても、若い世代は余り関心を示さない。いったい誰の責任か。受験教育の弊害か、知りたいと思わない若者の責任か、それとも教えない大人の責任か。
私は私の仕事をし続ける。戦争の問題は、私にとって死ぬまで続く射程の長い問題である。健忘症に陥りやすい大人たちと、何も知らない若者に対して、戦争へ至る道、戦争の悲惨さ、戦争の傷跡を露出させ続けることが、比島派遣第十四方面軍(司令官・山下奉文大将)直轄・独立重砲兵第四大隊の軍曹として戦争を体験した者の義務と考えている。
私は、敗戦の日、いつものように大岡昇平氏が書いた『野火』を本棚から取り出す。たった百八十三ページの小説に、あの戦争が凝縮されている。本を開くと、悲惨だったフィリピン山中での飢餓戦線が一瞬にして蘇る。
山下奉文大将の下、リンガエン湾に上陸する敵兵に突撃するはずだった。死を覚悟した。まさにその瞬間、突撃中止。山間部にもぐり込み、敵兵を一兵でも減らすゲリラ戦に作戦が変わった。敵陣地を急襲した時、手榴弾を浴び、上腕部と大腿部を負傷。生死の境をさまよった。その後は敗走につぐ敗走…。
日本本土防衛の最前線ともいうべきフィリピンには六十三万人が投入され四十八万人が戦死した。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の一言で、勇敢な人ほど死んでいった。私は卑怯未練で生きて帰ってきた。鹿児島の加治木港に復員して以来、今なお後ろめたさを背負って生きている。
「靖国で逢おう」を合言葉に死んでいった戦友に合わせる顔がない。明治維新以降、戦争などの国事に殉じた者、二百五十余万の霊を合祀する、この神社の側を車で通ることはある。しかし、亡き戦友に申しわけなくて、今も靖国神社には行けない。
靖国に行って、戦死した人のために鎮魂の祈りを捧げることは、人として当然のことかもしれない。しかし、それをできない人間も、したくない人間も、この世には存在していることを忘れないで欲しい。靖国へ行く自由もあれば、行かない自由もある。それで、いいではないか。何かをきっかけに、国民全員が靖国に突進していくような集団駆け足的行動は慎まなければならない。
私の大腿部には今も手榴弾の小さな破片が入っている。食べるものがなく靴底の皮に水を含ませて噛み続けたせいで総入歯である。しかし、こんな肉体的な傷より、心の奥底に深くこびりついているのは、既存の権力や秩序に対する深い疑念である。
職業軍人以外、誰も戦争に行きたくて行ったわけではない。「行きたくない」と言えない空気が、この国を覆った。自由にものが言えない重苦しい雰囲気。これこそ、いつか来た非人間的な道を再び歩む引き金になりかねない。
私は靖国へは行けない。一生、行けない。既存の権力や秩序に対する深い疑念の火を燃やし続けながら、亡き戦友と共に、この邦の行く末をじっと見守ってゆく。