陸奥利宗(僕の曽祖父)の妻ヲカの父は薩摩藩士の小山田休次郎。その休次郎の養父・真蔵は馬場道與流砲術の師範だった。
馬場道與なる人物は武田信玄に仕えていた馬場信房(長篠合戦で戦死)の孫だそうで、おそらくは武田家(馬場家)滅亡後、武芸者として諸国を渡り歩いた…といった人物ではないだろうか。名門武家が没落した後によくあるパターンですな。もしかしたらニセモノで、自称・馬場信房孫という可能性もあるw
その「馬場道與流砲術」の実態が長年、謎であったが、いろいろと調べたら『武教綱領要歸鈔』という著書があり、それが馬場道與が書いたものということがわかった。
では、この『武教綱領要歸鈔』はどこでみれるのか?と調べてみたら、なんと岩手県一関市の芦東山記念館に収蔵されているという。国立国会図書館にもない。
また岩手県いったときに訪れてみるか…。
僕の曾祖父は陸奥利宗といい、宇和島藩士なんですが、利宗の妻・小山田ヲカの父は小山田休次郎という薩摩藩士です。「七卿落ち」の五卿を守るために太宰府・延寿王院に配属された…という文献が残ってます。
小山田休次郎の養父・小山田真蔵は、薩摩藩の馬場道與流砲術(武田信玄に仕えた馬場信房孫が創始者の和流砲術)の達人で鉄砲指南役であったとか。休次郎もおそらくその砲術を修練したであろうし、もしかしたら戊辰戦争にも参加していたかもしれないし、白河で戦っていたかもしれない…というようなことを白河市歴史民俗資料館の学芸員さんに話をしていたら、こんな資料がありますよ、とお教え頂いたのが『薩藩出軍戦状』。
戊辰戦争での薩摩藩士の戦闘がすべて記録されているとか。凄い資料ですな。調べてみるか…。もし休次郎が白河で戦ったりしてたらビビるなあ。
※画像2枚目が小山田休次郎の戸籍謄本。天保10年(1839)生まれですから戊辰戦争(1868〜1869)時は30歳前後。働き盛りではあります。
大阪まち歩き大学。かつての高麗橋本吉兆。旧店舗。
堺が生んだ数寄屋建築の天才・平田雅哉の仕事。残念ながら建物は老朽化で潰され、現在は6階建ビルに建て替えされました。外観からは想像できませんが、しかし、中は旧店舗の設えを移築して再現、復元しているそうです。
https://koraibashi-kitcho.com/
旧店舗は戦前の建築で、元は茶道具商の児島嘉助邸。藤田伝三郎、住友吉左衞門、小林一三などが訪れた。本吉兆の湯木貞一も顧客で、戦後に建物を買収し、料亭となった。
児島嘉助は当時の建築法を無視(抗議の意味合いがあったとか)して、純木造町家を建てようとしたそうですが、児島に罷免された大工が逆恨みで行政に密告して一部がRC造になった…というエピソードを聞いたことがあるんですが、ほんまかどうかw
高麗橋本吉兆は一見様お断りのお店。僕は一度だけ紹介されて料亭遊びをしたことがあります。2009年。◯万円でした。自腹です。勉強、後学のため。そのあと何日間かカップラーメンと吉牛で過ごしました。
料理ももちろん凄かったですが、平田雅哉建築がこれまた素晴らしかった。老朽化で致し方ないとはいえ、この外観が無くなってしまったのは、やはり、惜しい。まちの景観、まちの風格として、惜しい。
滋賀県。大津市。天台真盛宗総本山。西教寺。
高麗の僧・慧慈、恵聴のために聖徳太子が開基して良源、恵信僧都源信が復興して紀貫之子孫の真盛上人が中興の祖に。天台宗ですが「不断念佛」(本堂ではほんまに朝から夕まで延々と念仏を唱え続けてます。500年続いているとか)「戒称二門」の教えを説く。
比叡山焼き討ちで災禍を被るが、明智光秀が深く帰依し、妻・煕子の菩提を弔った。この賢妻がもう少し長命であれば本能寺の変もなかったかも知れない。
さらに天正年間に京都・六勝寺を合併して六勝寺流の戒灌頂を継承している稀有の寺院とか。歴史の厚みが凄い。いろいろ入り混じってて頭がこんがらがってくるw
大津、恐るべし…。
今里新地で行われた「愛國をどり」(愛国おどり)。櫓はいまの新今里公園に組まれた。
明治時代にできた松島、大正時代にできた飛田、昭和時代にできた今里。時代が時代ですから、どこよりも時局に阿っていたのが新興の今里であったともいえます。帝國陸軍の慰問の性格が強い。
この今里に遊び(?)に来ていた名も知れぬオッサンが食べたのが屋台の会津屋のラヂヲ焼。「なんや今里は牛肉かいな?明石はタコ入れとるで」とアドバイスして生まれたのが大阪名物のたこ焼き。
なぜ明石の男がわざわざ今里なんてとこにきていたのか?当時、今里が有名な新地であったから、その影響ではないか?そうすると、たこ焼きは遊郭文化(屋台)から発生した食べ物ということになります。
大阪には「いつから大坂ではなくて大阪が使われるようになったのか?」という、どうでもいい人にはどうでもいい問題がありw
江戸時代は「大坂」で、明治時代から「大阪」になったというのが通説ではあるが、調べてみると江戸時代から「大阪」は使われだしている。
わかりやすいのが住吉大社にある大阪庭構中の燈籠が「大坂」ではなくて「大阪」を使っている。これが天明6年(1786)のもの。大阪を使った石造物では最古級のものだと思われる。
これは巷間よくいわれることだが、大坂の「土」(つちへん)は「土に返る」という意味があり、大阪の「⻖」(こざとへん)は「土を盛る」といった意味がある。元禄期の大坂の繁栄は淀屋闕所や宝永大地震(東南海大地震)で停滞し、紀州・徳川吉宗の江戸入城もあって、上方文化が江戸に移っていく。そうした影響で天明期の大坂は確かに没落していた。「大阪」という文字を使いだすのも、そういう「かつての栄光再び」の願掛けが込められている。
歴史的には天明以後に化政文化(1804~1830)時代がやってくるが、これも江戸が中心。かつての元禄文化(1688~1704)は大坂・上方が舞台であったが、大坂の化政文化期は残念ながら元禄文化期ほどの輝きはない(細かく見ていくと素晴らしい芸術や学問分野での進歩、業績はあるのだが…)。
結果、18世紀以降、大坂は長期的に下降気味で、幕末からどんどんと時代が進むに連れて「大阪」の文字使用も増えていく。そして明治以降、「大阪」が決定的になる。
「大坂→大阪」になったように「大阪没落」というのは、ここ数年の話ではなくて。長い長い歴史的なスパン、流れがある。だから、その歯止めは、なかなか難しい。一朝一夕ではないということです。