後悔力
1995年の阪神淡路大震災をきっかけにボランティアやNPO法ができたりして新しい社会運動の流れも起こった。当時の大学生が熱心であったように思うが僕(当時17歳、フリーター)はどこか一線を引いて斜に構えていた。少し上の世代の行動を見ていたが、僕自身は行動しなかった。
そういう態度を後悔したのが東日本大震災の時。じつは阪神淡路大震災の時に「もし原発周辺で地震が起こったら」と反対運動する大学生などもいたのだ。しかし僕は全くピンと来ずに、彼らの言説をスルーした。その懸念が実際に現実に起こってしまった。
地震と原発の組み合わせの恐怖は、ちょっと想像すればわかったことなのに、自分の迂闊さ、胡乱さに「しまった!」と反省した。
実際に阪神淡路大震災で、勘のいい人たちというか、気づいた人たち、目覚めた人たちがいて、その行動を目の当たりにしていた分、自分の問題への無関心さに自責の念を抱いたりした。
1995年の時にわかっていたらよかったが、2011年にようやくハタと気づかされたわけで。しかし大阪、神戸、関西に住んでいる人は結構、僕のような人も多いのではないか?と思う。東日本大震災で、阪神淡路大震災をフラッシュバックした方。
もちろん僕一人が何か行動しても世の中の流れなどは何も変わらなかったと思うが、しかし、それでも、何かアクションを、行動を、するべきだったのでは?と考えさせられた。
「なにもやらずにダメになる」と「なにかやってもダメになる」は結果として同じダメでも、しかし、「なにかやる」ことは、次の、違うなにかに繋がると信じている。自分の能力を錬磨し、仲間や同志ができて、新しい世界への可能性を広げると信じたいw
ちなみに、1995年の反省と後悔で、2011年には、とりあえず、もう、やぶれかぶれでも、自分に、なにかできることをやらんといかん!やろう!というので僕が行動したのが大阪七墓巡りやらまわしよみ新聞やらの一連のコモンズ・デザインとなる。遅ればせながらの、僕なりの震災復興プロジェクトの数々。
まぁ、しかし、阪神淡路大震災と東日本大震災のあいだの「無為の17年」というのが大事な気はする。結構、世の中の事柄は、後悔から始まることは多い。後悔力、大事!