九段下・竹本正雅屋敷から護持院ヶ原に「蕃書調所」が移った事の経緯について
2023 年 3 月 17 日
九段下・竹本正雅屋敷から護持院ヶ原に「蕃書調所」が移った事の経緯について何かわからないか?と思ったら東京外国語大学の論文を発見。ちゃんとまとめられていた。さすが。わかりやすい。
面白かったのはまず「蕃書」という名前。当初は「洋書」にしようという案もあったらしいが洋学など笑止千万という江戸幕府上層部の攘夷思想があり、夷狄蕃族の「蕃書」となったらしいw
さらに蕃書調所では軍事的な目的が強く、蕃書をみながら西洋式銃や火薬について調査したり、訓練したりということが行われていたという。それで火器を扱うので火災避けで水辺・川端でないと設置が許されなかった。
九段下・竹本正雅屋敷も護持院跡地も江戸城の外堀、堀川に隣接していて、場所にやはり意味があった。単に蕃書、洋書を改めていたわけではなくて、西洋式銃の調査、研究という軍事的な拠点でもあった。なるほど。納得。
ちなみに論文には洋学、西洋式銃の研究機関として水辺がよろしかろうというので石川島寄せ場に設置するという案もあったとか。洋書は貴重で高いし、国家機密なので、盗まれると困るという事情もあったらしい。島ならば安全。
もし、こんなところに「蕃書調書」「洋書調書」ができて発展していたら、石川島、佃島、月島にいろんな大学が出来て、今頃、学生たちが学割もんじゃを大量に食べまくってたかも知れない。古書店街も神田ではなくて月島古書店街に。んなわけない。
画像の3枚目は東京外国語大学のルーツである東京外国語学校の場所。隣に東京大学があり、その隣に学習院もあった。この3つとも護持院跡地、護持院ヶ原となる。
画像下に元蕃書調書というのがあり、こちらが竹本正雅屋敷。移転の距離感もよくわかる。
カテゴリー: 雑感