【東京都】千代田区。神保町。PARAにて。5日間のリサーチであちらこちらからフリーペーパーやらチラシやらパンフレットやらを入手してきたので、それらを回し読んで、気になる情報、記事を切ったり貼ったりして『まわしよみ神保町』創刊号を発行!w
まわしよみ神保町を作るつもりなど、まるでなかったんですが、なんとなくまわしよみ新聞の手法でまち編集してみました。やってみるとまちリサーチの振り返りにめちゃくちゃいい。まわしよみ新聞、万能ですなw
PARA4階に貼ってます。観たい人はPARAにぜひw
一所懸命の戦国時代。自分の一所=領地を増やそうとして隣の領地に攻めたり攻められたりというのを繰り返していたのが戦国時代。勝った方が負けた方の領地を手に入れていくという非常にわかりやすい陣取りゲーム。
それに対して秀吉が北条征伐、小田原攻めで手に入れた関東を家康が治める…というのが江戸入府。自分で戦って、相手を打ち負かして手に入れた領地ならば話はわかりやすいが、北条を倒したのはあくまでも秀吉。家康ではない。
長く住み慣れた東海150万石から秀吉の鶴の一声でいきなり関東250万石へ。戦国史上初にして最大、それ以降もこれほどの規模の領地替え(お引越し)というのは日本史上にないでしょう。これはなかなか特異で特殊な事情です。こうやって作られた大都市というのは他にあまりない。
また家康は北条とは長く小競り合いを続けていたから、北条の領民からすると元々、敵であった家康が秀吉の命令で偉そうにやってきて関東の領地を経営するなんていうのは「なんだてめこのやろばろちくしょ」という一触即発で、なんかあれば即揉め事を起こしてやろうという不穏な空気も多分にあったろうと思う。
家康からすると、領地替えの秀吉の鶴の一声はとんでもない青天の霹靂の嫌がらせであるが、もしこれで関東の民と揉め事を起こしたりすれば、突然これまた秀吉の鶴の一声で「経営者失格」の烙印を押されて「関東剥奪」という最悪の事態だってあり得る。絶対に失敗できない崖っぷちの領地経営、都市設計、まちづくりだった。
家康が本拠地として武士政権の古都である鎌倉や北条の本拠地の小田原ではなくて、あまり人のいない江戸を選んだのも当然といえば当然で、先住民が多ければ多いほど揉め事、トラブルの発生率が高くなる。なるべく人が少ない、新興の土地を選択しておく方が領地経営として安パイという判断をしたと思われる。
江戸に入った家康がまずやったことのひとつは、岸井さんの話によると、あちらこちらで鷹狩をしたとか。要は「ご挨拶回り」で、江戸の民にご挨拶して、交流して、信頼を勝ち得ないと何も出来ないと懐柔策を行ったということだろう。
また神田山を切り崩して江戸湾(日比谷)を改修して、江戸漁民のための土地を造成したり、大坂の佃・大和田(佃島はそこから生まれた。大和田の漁民の方が多かったと大和田の人は今もいう。佃島やない!大和田島や!というわけですw)の漁民を連れてきて上方最新の漁法を伝授したりもしている。家康の涙ぐましい努力というか、もう至れり尽くせりという感じである。
これはしかしそれもそのはずで、前門の虎・後門の狼ではないが、前門に北条の民がいて、後門に秀吉の鶴の一声があるから、家康としては非常にストレスフルで緊張感のある江戸の都市計画、まちづくりであったろう。
江戸が螺旋状の「の」とか「@」みたいな防御最優先の城構造=都市構造になるのは当然で、これは明らかに対秀吉。対豊臣政権。いつ、どんな失態をでっち上げられ、秀吉の鶴の一声で北条攻め再現の徳川攻め、小田原攻めの再現の江戸攻めがあるかわからないので、リスクマネージメント、危機管理として江戸城の24時間年中無休の戦闘体制状態は解除できない。
秀吉の大坂は、その都市構造、まちづくりをみるとわかるが、基本、船場、島之内、上町も碁盤目状に整備していて、さすが天下人の都市。「攻められる」ということをそれほど意識していない。少なくとも家康の江戸ほどの緊張感はない。
僕なんかは江戸、東京を歩くたびに、道が曲がりくねってるたびに、家康の恐怖心、猜疑心のようなものを感じる。その用意周到さと巧緻さにも驚く。大阪のまっすぐな筋や通りを歩いていると天下人・秀吉の明朗快活さと、その愚昧さに気づくw
これはそのまま住民の、東京人、大阪人の基本性質のようなものになっている気もする。環境こそが人間を作るから。都市の構造は、そこに住む都市民のパーソナリティにも知らず知らず影響を及ぼしていることだろう。
また神保町は神田山(湯島聖堂、神田明神)、将門塚に挟まれていて、これは家康の江戸統治システムのアメとムチなのでは?という直観が今回のリサーチで働いたのだが、これはもうちょっと考察が欲しい。九段(靖国神社)と神田の高低差、ギャップも気になっているが全くリサーチできなかった。
都市のリサーチ、逍遥に終わりはない。謎は増えていくばかり…。
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■PARA:陸奥賢・岸井大輔と5日でどこまでリサーチできるかな
https://paratheater.com/4881b04a31154cc7839591d20e814eb4
■PARA:共有をつくるには?
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■PARA
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小川町。三崎町。興武所跡。
黒船来航以降、幕府は国防に目覚め、その訓練場として開設されたという。明治維新後も陸軍練兵場として使われていたそうですが、その講武所跡地に出来たのが日本大学。
松下村塾門下の長州藩士・山田顕義が創設した日本法律学校が日本大学のはじまりとなる。山田顕義は皇典講究所も設立していて、これは国学院大学に繋がるとか。欧米を視察し、憲法草案なども作り、長州系であるし、長生きすれば総理大臣などもあり得たかもしれませんが、残念ながら生野銀山訪問中に卒中で倒れて横死した。享年49歳。
日本大学の大阪校が近畿大学となる。ご縁があって、ここ最近、近大で講師したりしてますが、僕は山田顕義の仕事(大学設立)の恩恵を受けているということですなw
神田。小川町。五十稲荷神社。
神保町界隈は江戸時代は武家屋敷ですが、その影響でか、どうもお稲荷さんなども少ない。
武家屋敷というのは町名もなかったという。町会がないということで、大体、地域の地蔵や稲荷というのは町会が維持管理するものだから、武家屋敷では結果として、そういったものは勧請されにくいだろうと思う。個人的に、屋敷神として勧請することはあるだろうが、町のものとはならない。
武家屋敷が町会を作らなかったというのも、結局、彼らは幕府とか藩に所属していて、それらは表面的には社交するが、腹の底では敵対しているからコミュニティなんてのも形成できなかったのだろうと思われる。幕府や藩の情報が他に渡ると大変ですからな。どこかで一線を引いた人間関係となる。
そういった武家屋敷の神保町(神保というのが、そもそも旗本の名前という)から東に向かうと小川町界隈に至る。こちらは江戸時代から町人エリアだったそうで、途端にまちのあちらこちらにお稲荷さんがいはります。
大阪はあちらこちらにお地蔵さんがありますが、江戸はあちらこちらにお稲荷さんがいる。東京の人は普通の感覚のようですが、大阪人からしたら不思議な現象で。よくわからない。
なぜこんなに稲荷神が多いのか?ですが、いろいろと諸説あるそうですが、田沼意次が篤く稲荷神を信仰したからという話があるそうな。
田沼家は紀州藩士で、しかし吉宗の将軍就任によって道が開けた。田沼意次はたかだか600石の旗本からどんどんと出世して老中にまでなる。
老中は本来ならば石高2万5000石以上の譜代大名から選ばれる。老中筆頭は幕政の全てを管轄するから、今でいうと総理大臣みたいなもの。江戸時代、初めて一旗本から老中まで成り上がったものは田沼意次以外にいなかった。
江戸庶民はその田沼意次の立身出世ぶりをみて、それに肖りたいと稲荷神を祀るようになったという。稲荷神というと農耕神というイメージがまずありますが、江戸の稲荷神の場合は、どうも農耕神というよりも開運、立身出世の神として祀られたというのが正解ではないかと思われる。だからまちなかにある。
田沼意次の政治は毀誉褒貶激しいが、江戸のまちの稲荷信仰の元祖かも?という説は、個人的にはいろいろと興味深いし、面白い。
神田。小川町。太田姫稲荷神社。大阪人にはまるでピンとこないが、東京人が愛してやまないのが太田道灌。東京界隈歩いてると、ほんまに、あちらこちらに太田道灌の銅像があります。銅像があると思ってみたら太田道灌で、どいつもこいつも、どこもかしこも太田道灌だらけ。それは言い過ぎか。
いや、しかし、ほんまに太田道灌にまつわる伝承、伝説は多く、太田道灌の姫さまの伝説がこちらの太田姫稲荷神社。姫さまが天然痘、疱瘡に倒れて、父親の太田道灌が京の一口稲荷にお参りしたら見事、完治したので当地に勧請したという。
一口は「いもあらい」と呼んで京都でも有名な難読地名のひとつ。天然痘、疱瘡は全身がイボだらけになるわけですが、イボを霊水で洗って治すので「いぼあらい」が訛って「いもあらい」になったとか、天然痘、疱瘡の身を浄める霊水、霊泉の取水口がひとつで「一口」と書いたとか、いろいろと語源の諸説がありますが、よくわからない。
天然痘、疱瘡、流行病というのが恐れられたというのはよくわかります。その疫病退散、厄病封じの神さまということでしょう。元はお茶の水あたりに元宮がありましたが、国鉄の総武線が拡張するというので昭和の頭に現在地に遷座したとか。無茶苦茶しまんなあ。国鉄は。
太田姫は天然痘、疱瘡が治ってから、どうなったのか?詳しい記述はなかったですが、調べたら、なんか出てきそうですな。
美しいお姫さまが天然痘、疱瘡によって醜い顔になって男に騙されて…なんてのは、まあ、鶴屋南北あたりが好きそうなお話でw 太田姫。気になる。
神保町。日本語学校の東亜高等予備学校ができた影響で神田、神保町は華僑が多く住んだ。若き頃の周恩来が来日して学んだのも神保町の東亜高等予備学校。美学校、PARAの隣にある愛全公園がその跡地です。
周恩来や、あと孫文なんかも訪れたというのが神保町の中華料理店「漢陽楼」。初代の方は中国から日本にやってきてロシア系の銀行の掃除夫をやっていたとか。ところが日露戦争の影響でロシア系の銀行が解散。失職してしまう。
これからどうして生活すればいいのかと途方に暮れていたら仲間うちから「お前が作る飯はうまいから料理屋でもやったらどうだ?」と勧められ、それで開業したら大成功したという。
戦後は普通の「まちの中華屋」という感じだったらしいですが、ある時、テレビ局がきて「周恩来の日本の滞在記、日記に漢陽楼という店がでてくるんですが、それはここの店ですか?」と取材がきて、店の人も誰もそんなことは知らずでビックリ仰天。調べてみると、まさしく間違いなく漢陽楼だった。以後、メディアにも数多く取り上げられて、神保町を代表する名店、老舗として、ますます繁栄したという。
周恩来が愛したという肉団子スープがありまして、注文してみたら、これがほんまに美味。唸りましたな…。周恩来!
九段下・竹本正雅屋敷から護持院ヶ原に「蕃書調所」が移った事の経緯について何かわからないか?と思ったら東京外国語大学の論文を発見。ちゃんとまとめられていた。さすが。わかりやすい。
面白かったのはまず「蕃書」という名前。当初は「洋書」にしようという案もあったらしいが洋学など笑止千万という江戸幕府上層部の攘夷思想があり、夷狄蕃族の「蕃書」となったらしいw
さらに蕃書調所では軍事的な目的が強く、蕃書をみながら西洋式銃や火薬について調査したり、訓練したりということが行われていたという。それで火器を扱うので火災避けで水辺・川端でないと設置が許されなかった。
九段下・竹本正雅屋敷も護持院跡地も江戸城の外堀、堀川に隣接していて、場所にやはり意味があった。単に蕃書、洋書を改めていたわけではなくて、西洋式銃の調査、研究という軍事的な拠点でもあった。なるほど。納得。
ちなみに論文には洋学、西洋式銃の研究機関として水辺がよろしかろうというので石川島寄せ場に設置するという案もあったとか。洋書は貴重で高いし、国家機密なので、盗まれると困るという事情もあったらしい。島ならば安全。
もし、こんなところに「蕃書調書」「洋書調書」ができて発展していたら、石川島、佃島、月島にいろんな大学が出来て、今頃、学生たちが学割もんじゃを大量に食べまくってたかも知れない。古書店街も神田ではなくて月島古書店街に。んなわけない。
画像の3枚目は東京外国語大学のルーツである東京外国語学校の場所。隣に東京大学があり、その隣に学習院もあった。この3つとも護持院跡地、護持院ヶ原となる。
画像下に元蕃書調書というのがあり、こちらが竹本正雅屋敷。移転の距離感もよくわかる。