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神田。小川町。五十稲荷神社。

2023 年 3 月 17 日

神田。小川町。五十稲荷神社。

神保町界隈は江戸時代は武家屋敷ですが、その影響でか、どうもお稲荷さんなども少ない。

武家屋敷というのは町名もなかったという。町会がないということで、大体、地域の地蔵や稲荷というのは町会が維持管理するものだから、武家屋敷では結果として、そういったものは勧請されにくいだろうと思う。個人的に、屋敷神として勧請することはあるだろうが、町のものとはならない。

武家屋敷が町会を作らなかったというのも、結局、彼らは幕府とか藩に所属していて、それらは表面的には社交するが、腹の底では敵対しているからコミュニティなんてのも形成できなかったのだろうと思われる。幕府や藩の情報が他に渡ると大変ですからな。どこかで一線を引いた人間関係となる。

そういった武家屋敷の神保町(神保というのが、そもそも旗本の名前という)から東に向かうと小川町界隈に至る。こちらは江戸時代から町人エリアだったそうで、途端にまちのあちらこちらにお稲荷さんがいはります。

大阪はあちらこちらにお地蔵さんがありますが、江戸はあちらこちらにお稲荷さんがいる。東京の人は普通の感覚のようですが、大阪人からしたら不思議な現象で。よくわからない。

なぜこんなに稲荷神が多いのか?ですが、いろいろと諸説あるそうですが、田沼意次が篤く稲荷神を信仰したからという話があるそうな。

田沼家は紀州藩士で、しかし吉宗の将軍就任によって道が開けた。田沼意次はたかだか600石の旗本からどんどんと出世して老中にまでなる。

老中は本来ならば石高2万5000石以上の譜代大名から選ばれる。老中筆頭は幕政の全てを管轄するから、今でいうと総理大臣みたいなもの。江戸時代、初めて一旗本から老中まで成り上がったものは田沼意次以外にいなかった。

江戸庶民はその田沼意次の立身出世ぶりをみて、それに肖りたいと稲荷神を祀るようになったという。稲荷神というと農耕神というイメージがまずありますが、江戸の稲荷神の場合は、どうも農耕神というよりも開運、立身出世の神として祀られたというのが正解ではないかと思われる。だからまちなかにある。

田沼意次の政治は毀誉褒貶激しいが、江戸のまちの稲荷信仰の元祖かも?という説は、個人的にはいろいろと興味深いし、面白い。


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