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小川郷の偉人たち

2023 年 9 月 23 日

いわきの小川郷。やたらと近代に凄い人材を輩出していて(磐城慶隆、白井遠平、永井元蔵、田久彌七、國府田敬三郎、櫛田民蔵、草野義一、草野心平、松本政春…)一体、この地域はなんや?と思っていたが、他のエリアと違って近世、長く天領であったことの影響はやはり見逃せないのではないだろうか?

磐城平藩・内藤家を揺るがした元文三年一揆(1737)の主導者のひとりが、じつは柴原(小川町柴原)の吉田長治兵衛という。Wikipediaにも記載されている。

■吉田長治兵衛

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%B2%BB%E5%85%B5%E8%A1%9B

この一揆は2万人が参画したという大規模なもので、さすがにこれだけの大騒動となると藩主も御咎めを逃れることができない。結果として内藤家はいわきから遥に遠い宮崎県の延岡に国替えされた。

ちなみに、この「福島いわき市→宮崎県延岡市」というのは江戸時代の大名の国替えの距離としては最長記録になるという。いわきの人から「どうだ!最長記録だぞ!」と自慢げに語られたことがあるw

元文一揆以降、吉田長治兵衛の故郷である柴原周辺(上平、柴原、上小川、福岡)の郷村は、やはり幕府から特別視されたのであろう。延享4年(1747)に磐城平藩ではなくて幕府直轄の天領となった。そして幕末まで、小川郷はずっと天領として統治された。これは他のエリアにはない地域の特色、特徴といえる。

また小川郷に代官所があったというわけではなくて、じつは小名浜が同じく天領で、そちらに代官所があったので、そこの代官が小川郷を管轄していたらしい。この小名浜の代官との繋がりが見受けられるのが小川郷の常慶寺にある「天明飢饉の碑」。

天明の大飢饉に襲われたさいに小名浜の代官・蔭山外記が救民策を行い、その善政に感謝して建立されたものという。飢饉といった危機的な状況が起きれば小名浜から代官がやってきて、いろいろと検分するわけで、どこか小名浜の気風、気質が小川郷の人たちに伝わるだろうし、感化されていったことだろう。

しかし小名浜と小川郷はあまりに遠い。ちょっとした日常的な、些末な事件や事故などは、わざわざ小名浜の代官にいわずとも、小川郷内で解決するというか、庄屋たちに裁量を任されていたに違いないだろう。小名浜がいわき市内の中では天領気質というか「他藩とは違う」という雰囲気が感じられるが、小川郷などは、さらに幕府の代官も常駐していないので、より自治的な雰囲気があっただろうと推察する。

そして、それが小川郷民の地域独特の自治精神や、独立心の由来になったのではないだろうか。戊辰戦争で幕府が倒れて近代化が推し進められると小川郷からやたらと綺羅星の如く偉人たちが輩出される。そのマトリックスに、この小川郷の風土が当然、影響しているだろう。

#いわき時空散走


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