土生郷のまち歩きのあと、土生神社の社務所でまち歩きの参加者や氏子のみなさんと懇親会。交流会。
土生郷の歴史は古い。条里制の跡もあれば土生神社も式内社である。熊野街道も通る。地元には豪族の土生氏が長く統治者として君臨していたらしい。
いまは「岸和田市土生」であるが、かつては「土生郷岸和田」といわれた。岸和田よりも土生の方が山手で、古くから発達していて、だから岸和田よりも土生の方が名が通っていた。
山手にあるから当然のことながら田畑の水利権も土生郷が牛耳っていた。山の土生郷から海の岸和田に水を流す。それで岸和田に田畠が作られて人が住めるようになった。いまも岸和田の農業関係者は水の利用料を土生の水利関係者に納めているとか。
栄光の土生郷であるが、それが没落するキッカケになったのが岸和田藩が出来て岡部公がやってきたこと。岡部公は、かなりの重税を強いたらしく、それに反発して地元側が強訴した。その強訴の主唱者のひとりが土生氏だった。結果として土生の一族は反逆者として逮捕され、処刑される。
土生郷のために!と立ち上がった義民であり、処罰されたが、地元では悲劇の英雄である。岡部公の目があるから大っぴらに墓などは作れなかった。そこで供養の塚は作ったが、それを「歯神さま」として伝承して密かに村の中で祀っていたらしい。
歯神さまだから歯に効く。歯に悩む村人が歯神さまにお参りして痛い歯には歯神さまの石を当てて「治りますように」と願掛けした。霊験あらたかであったのか、一時期は老人の集会所も出来たという。
僕がとくに面白いと思ったのが「岡部公に歯向かった」から「歯神さま」になった?という親父ギャグみたいな由縁であろうか。いや、非業の死を遂げた土生氏の残念無念の歯噛みを思って、単なる虫歯の痛みぐらい我慢しろ!ということなのかも知れない。虫歯の痛み、超つらいがw
ちなみに没落した土生氏の頭領だが、子孫の方がいて、それは岸和田から和歌山方面に落魄れていったらしい。土生郷ではその御恩を忘れずに和歌山の土生氏の方に長くお米などを贈ったりもしたそうだ。いまは交流がないという。残念なことです。後裔の方に会えたりしたら面白い言い伝えのひとつやふたつ、聞けるかも知れないが…。
岡部公の土生郷に対してのイヤガラセ(?)はこれだけに留まらない。土生郷の村人の墓をじつは強制的に移転させた。土生郷内に泉光寺という臨済宗の寺院があるが、この寺院の檀家が岡部公だった。泉光寺には歴代藩主の墓があり、毎月、岡部公が月参りをする。そのさいに土生郷を通行するが、その途上に土生郷の墓地があり、邪魔であるということで下松の方に移したという。
土生郷の墓であるから、もちろん長く豪族をしていた土生一族の墓もあったに違いない。しかし、もはや土生氏の時代ではなくて岡部公の時代であるというのを土生郷の住民に判らせないといけない。墓の移転は、明らかに岡部公の権力を見せつけるためのデモンストレーションではないだろうか。
基本的に岸和田では岡部公は名君として褒め称えられて顕彰されている。しかし物事はそんなに単純ではない。温度差、地域差は当然ある。土生郷から眺めてみると岸和田、岡部公の物語もこういう風に語られるのか…と興味深かった。
昔は大家族だったから親・兄弟・親戚一同の中に「いろんな人」がいた。「エリート」や「出世頭」もいれば「どうしようもない奴」や「大変な人間」もいたりした。一つ屋根の下で暮らしてるから、そういう人間になる「事情」も見ていて、察していて、よくわかっていた。そういう複雑な家庭に育った人たちが世の中に出て社会を作るから、社会にも、ある種のキャパシティがあり、寛容さが担保された。
いまは少子化、核家族化で「身内」に「いろんな人」が必然的に少ない。ある意味、平穏・平安な家庭で暮らして世の中に出るから、そこで初めて「いろんな人」に出会って衝撃を受け、拒絶反応が出てシャットダウンしたりする。理解が及ばない。自分の中にはいない「他者」と遭遇してクラッシュしてしまう。そういう人たちが増えていくと必然的に社会そのものから寛容性が失われていく。
平穏・平安な家庭に生まれ育ったことは、とてもいいことです。それがダメなことだとは全く思わない。ただ、だからでこそ「いろんな人」「他者」に触れる(触れてしまう)機会をどのように担保するか?が非常に重要になってくる。そして、それは結局のところ、自分の環境、世界観からの「越境」ということになる。
越境のための道具がアートだったり、観光だったり、逍遥だったり、巡礼だったり、遊びだったりする。そういう道具をたくさん持っている人は、やっぱり、人間に幅がありますわ。おもろい。そして、やさしい。
堺市役所。21階にて。さいとうたかを展。いつまでやってるんやろう?ずっとやってますが。
さいとうたかをの自伝などによるとゴルゴ13ことデューク東郷のモデルのひとりは堺の福泉町立中学校の恩師・東郷麿智夫という。近所でも評判の悪ガキだったさいとうたかをは、ある日、学校のテストを白紙で提出した。東郷先生はそれを一瞥して「これは君の責任で提出するのだからちゃんと自分の名前を書きなさい」と諭したという。
無回答の白紙を咎めるのではなくて記名することで覚悟を求めた。「人間社会の約束事」「世の礼儀」を初めて教えてくれたのが東郷先生であったと、のちにさいとうたかをは述懐している。
さいとうたかをの故郷の福泉の近くには信太山があった。ここは戦前は帝國陸軍の演習場であったが戦後は米軍が接収した(現在は自衛隊の駐屯地となっている)。信太山は米兵だらけとなり、その中の誰かが10セントブックスを山の中に捨てた。
10セントブックスは前線で戦う米兵のストレス解消、憂さ晴らしを目的としたもので単純明快なストーリーでアクション、バイオレンス、エログロが詰め込まれている。要するに頭を空っぽにしても読めるような低俗低級安価なペーパーブックであった。それを拾ったのが若き頃のさいとうたかをだった。
さいとうたかをは絵が描きたくて、しかし戦後間もない頃で家は貧しく、腹も減るし、紙もないので、もし米兵に見つかったら殺されるかも知れないという命懸けの思いをしながら信太山に密かに忍び込んだ。そして食べるものや紙を探したりしているうちに偶然、10セントブックスを拾い、その世界観に衝撃を受け、魅了された。
その後、さいとうたかをは、こども向けの漫画ではなくて青年、大人をターゲットにした「劇画」の作家としてデビューし、ついにはギネスも認める世界最長の漫画『ゴルゴ13』の作家として大成功を収める。その劇画の萌芽が、じつは信太山の名もなき米兵が捨てた一冊のペーパーブックだったというのは歴史の皮肉というべきか悪戯というべきか滑稽というべきか…。
アメリカの漫画文化の代表はディズニーだが、その薫陶を受けたのが手塚治虫。手塚治虫は祖父は司法官、父は住友のエリート社員で毎年、正月になると家族で朝日会館(朝日新聞の文化施設)でディズニー・アニメを観て高級レストラン「アラスカ」で洋食を食べていた…というような洗練されたブルジョワジーであった。さいとうたかをとは、大違いの出生である。
手塚治虫は戦後、日本の漫画文化の第一人者となるが、その手塚漫画に「あんなのはこどもの遊びですよ」とアンチを唱えたのが、さいとうたかをらの劇画集団であった。結果、手塚は虫プロの失敗・倒産などもあり、「終わった漫画家」扱いをされて辛酸を舐める。しかし青年漫画に活動の舞台を移し、「ブラックジャック」「火の鳥」「ブッダ」といった「劇画」で奇跡の復活を果たす。
手塚作品の初期の「アトム」「リボンの騎士」と、後期の「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などを見比べると、全くタッチが変わっていることに気づく。必死になって劇画の手法を学び、取り入れて自身の表現を進化させた。この辺が手塚の凄いところで、さすが「マンガの神様」ですな。
ディズニーと10セントブックスというアメリカ文化のハイカルチャーとローカルチャ―が手塚治虫の漫画とさいとうたかをの劇画の源流にある。ふたりとも大阪人であるが、手塚はキタの人(豊中、池田、宝塚)で、さいとうたかをはミナミの人(堺、和泉)で、大阪の郊外都市文化圏のコントラストがまた面白く、興味深い。
堺・シマノ自転車博物館。博物館では散走の取り組みに詳しい神保さんにご案内頂き、いろいろとお教えいただきました。
散走の話よりも自転車の歴史、文化の話が主でしたが要するに散走という概念もポッと出てきた言葉ではないということでしょう。200年に渡る自転車の開発、発展、紆余曲折や試行錯誤、可能性の追求があり、その流れの中に散走という自転車文化の提唱があり、位置付けられている。博物館を巡って、よくわかりましたなあ。
いろいろと話をお聞きして、また、こちらもいわき時空散走の取り組みをご紹介させて頂きましたが、神保さんからは「面白い!」と太鼓判を押されたので、よかったなあと思いますw
堺といわきと。散走ネットワークで繋がりを模索したいし、新しいプロジェクトも起こせるのではないか?と思ってます。またオモロイことはじまったらいいますんでw お楽しみに!
堺。シマノ自転車博物館へ!
去年、ノレル?さんからご依頼を受けて、いわきで自転車によるコミュニティ・ツーリズムのプロジェクトを始めました。プロデューサーとしてプロジェクトにネーミングをつけましたが、それが「いわき時空散走」。
FAROのみなさんが「いわき平時空マップ」という取り組みをやっていて、さらに「散走」という言葉があるとノレル?のみなさんに教えられて、それを融合させたわけですが、この「散走」という言葉の出処が実は堺が誇る自転車メーカーのシマノさん。そこで散走について本家本元のシマノさんからお教え頂きたいということでノレル?の権丈さんと一緒に表敬訪問しました。
昔、大仙にあった自転車博物館はこどもの頃からよく通っていたのですが、リニューアルされたこちらのミュージアムは僕は初訪問。充実の展示で圧巻でした。自転車の未来は可能性に満ち溢れてますな。勉強になりました。