「いわき名物に馬方ようかんってのがあるよ」と、いわきのごきげんなフリーペーパー『Hi magazine』編集スタッフの高木さんことチャッピーさんに教えてもらって気になっていた。
大阪の図書館にいって調べてみると仙台の老舗和菓子屋『石橋屋』(残念ながら去年、閉店したとか)のご主人・石橋幸作(1900~1976)氏が書いた駄菓子に関するエッセイ(1965年発表)の中に「馬方ようかん」のことが記載されていた。記載されていたが、なんかチャッピーさんから聞いていたものと違う気がする…w こんなですか?馬方ようかんって?チャッピーさん?
あと石橋氏の解説が「もちろん美味いものではありませんが…」と軽くディスっていて…怒られるでw
来月のいわき取材の時には、ぜひとも食べてみたい。馬方ようかん。
住吉名物「閻魔地蔵」。住吉・粉浜村には、かつて六本道があり、六道の辻といわれた。いまは一本増えて、なんと七本道になっているw
人間は死んだら生前の行いを調べられて閻魔大王の裁きを受けて六つの世界に転生するという。地獄、餓鬼、畜生、人間、修羅、天であるが住吉・粉浜の六本道が、その六道への信仰と結びついて閻魔さまが安置された。京都の六波羅信仰と違って大阪はちゃんと「六本道」という具象があるのでわかりやすいw
面白いのが閻魔大王そのものではなくて閻魔地蔵であること。地獄に落ちたさいに救済してくれるのは地蔵菩薩で、じつは閻魔大王の化身というような話もあるが(蛇足だが八尾では閻魔さまと地蔵さまは恋人同士という信仰なんかもあるw)、その閻魔信仰と地蔵信仰が合体した。
いわば閻魔さま(刑罰)と地蔵さま(恩赦)が一緒くたになっているようなもので良い加減というかなんというか…。まあ、住吉・粉浜村の素朴な庶民信仰、民間信仰ですからな。そのへん非常にテキトーですw
さらに面白いのが、この閻魔地蔵さまはいったん前からお参りしたあと、閻魔地蔵さまの裏に回って二度参り、裏参り、念押し参りをするという構造になっていること。
じつは閻魔地蔵さまは住吉の海に漂流してきた…という挿話があり、粉浜の漁民たちが閻魔地蔵さまを発見したあと、これはありがたい神さん仏さんだから住吉さんに持って行こうと担いでいたら、この六本道に差し掛かり、そこでいきなり重くなって動かなくなったので安置された…ということになっている。
そして長い間、暗くて冷たい海の中にいたもんだから閻魔地蔵さまは、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり(中耳炎w)、だから表から一回だけお参りされても願いごと、祈りごとが届かない。裏に回ってもう一度、お参りしないといけない。
これ、要するにえべっさんの信仰です。えべっさんにも同じようなエピソードがあって、だから閻魔地蔵は、じつは閻魔大王+地蔵菩薩+戎神の三体の神仏が合体、習合してるんですな。
この閻魔地蔵さまをお参りすると死んだ際の閻魔さまの裁きでも温情が得られ、仮に地獄にいっても地蔵さまの恩赦があり、さらにえべっさんの現世利益(豊漁、豊作)にも授かれる。なんというか庶民の夢が全部入っております。いやあ、ありがたいですな。庶民信仰万歳!
南無閻魔地蔵
池田郷まち歩き。画像は猪名川。
猪名川(いながわ)はかつてはチョナガワといわれた説がある。チョナ(チョウナ、チョンナ)は古代の朝鮮語だそうで「手斧」の意味とか。
猪名川は神崎川と繋がり、やがて大阪湾に通じる。そのルートを遡上して大陸、朝鮮半島の渡来人たちがやってきた。彼らはチョナ=手斧を使うことに長けた特殊技能民で能勢や妙見の山々に入り、木材などを伐採していたのではないか?と思われる。
猪名川を遡ると摂津国多田庄に至る。いまも能勢電鉄に多田駅というのがあるが、ここが多田源氏の本拠地、発祥地でもある。清和源氏の本流となる源満仲(多田満仲)を祖とする軍事貴族である。
とくに満中の子の源頼信は河内源氏の祖となり、この系統からは八幡太郎義家、頼朝、義経の鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家が誕生している。日本史上最大の名門武家集団として長く全国に覇を唱え、君臨した。
以下は僕の適当、気儘、無責任な妄想であるが、じつはチョナ(手斧)の渡来人たちが能勢の土地に溶け込んで土着化して、やがて武器の扱いに長けた武装集団となり、それが多田満中の配下となって多田源氏の軍事集団を形成したのではないか?と思ったりしている。
猪名川は今現在でも大阪府と兵庫県と県境となっているが地政学的にも大変重要な川であった。また多田には銀山、銅山なんかもあり、ここを抑えないと摂津国は治められません。
ほんまに、いろいろオモロイんですわ。猪名川流域。猪名川文化圏。もっともっと注目されていい。
あ。以下は蛇足のまち話。昔、池田郷にはたくさん賭場があったとか。警察が賭場の現場に踏み込む。すると賭場の関係者や客はみんな一目散に猪名川に逃げて川向こう(西側)の川西市側に入った。すると川西は兵庫県なんで兵庫県警の管轄。大阪府警は手が出せない。猪名川の池田郷側から地団駄踏んで悔しがったとか。そうやって池田郷の賭場は大いに発展、繁盛したらしいw
新世界界隈は第5回内国勧業博覧会(1903)のあとに博覧会場跡地に作られた。開発したのは大阪土地建物株式会社で代表が土居通夫。その土居通夫の「通」をとって「通天閣」と名付けられ、名付けたのは藤澤南岳とされる。
明治日本は西欧列強諸国に認められるような近代国民国家を目指し、そのために万国博覧会(万博)の実現、開催を目論んだ。当時は万博をやり遂げることが一等国、一流国の仲間入りの証明であったから万博開催こそは近代日本政府の悲願であったといっていい。
しかしいきなり万博をやりたいといってもまだまだ国際的地位も低く、国力の脆弱な日本では開催できない。そこで万博のための予行演習、準備運動として日本国内だけで「内国勧業博覧会」を開催することにした。第1回(1877)、第2回(1881)、第3回(1890)は東京・上野、第4回(1895)は京都の岡崎、そして第5回(1903)を大阪・天王寺(新世界)で開催したが、この第5回の内国勧業博覧会は、それ以前の内国勧業博覧会と比べても別格の規模とスケールで展開された。
というのも開催前に日本政府が工業所有権の保護を認めるパリ条約に加盟したので、内国勧業博覧会といいながら海外国の参加も可能となり、14カ国18地域の参加があり、来場者数も530万人を超えた。これはブリュッセル万博(1897年、780万人)には及ばないが、バルセロナ万博(1888年、230万人)などは優に抜いている。日本初、アジア初の万博開催の夢、悲願を果たすのはそう遠くない…というレベルに達し、素晴らしい実績を残したといえる。
しかし日本は以後、内国勧業博覧会を開催することはなかった。というのも第5回内国勧業博覧会の翌年、日露戦争(1904、1905)が勃発し、日本はそこで勝利を収め(ギリギリの辛勝であったが)「帝政ロシアを撃退する」という劇的な事件によって西欧列強諸国から認められる一等国、一流国となってしまった。
歴史の皮肉というか悲劇というか、日本は、ある意味で「戦争」という手段で国際社会に華々しくデビューしてしまったわけです。そういう形で一流国と認められ、成功体験を得てしまった日本は、その成功モデルに固執してしまい、脱却できず、昭和に入ると戦争拡大路線に突き進み、破滅を迎えることとなってしまった。
歴史に「if」はないのですが、もしも日露戦争がなく第5回内国勧業博覧会のあとに日本初、アジア初の万博を開催することができていたら日本はもっと平和的に、文化的に、友好的に世界の国々に認められる一等国、一流国になっていたかもしれない。
個人的には、可能であれば、できることなら、そういう形で日本という国が認められてほしかった。通天閣をみるたびに、そんなことを考えたりします。
【福島県】一般社団法人Tecoさんからのご依頼で、今回のいわき滞在中に、いわきの中央台公民館にて人材育成セミナーを行いました。
まち歩き観光=コミュニティ・ツーリズムの方法論を用いることでコミュニティ(まち)のことを知り、語り、聞き、考える人が増えて、そこから自然発生的にコミュニティ作り(まちづくり)が始まりまっせ…といったようなお話。
一過性のうろんで無責任で身勝手な大衆=観光客を相手になにかをやるというのは大変です。なんせうろんで無責任で身勝手だからw そういう大衆(マス)の集客(観光客)を増やそうとするのがマスツーリズム(大衆観光)。数こそ正義、売上こそ正義であり、マスツーリズム=マスビジネスですな。
そういう観光客を集めるためには、わかりやすいキャッチなパッケージをしないといけない。大阪なら「YTT」(たこ焼き、吉本、タイガース)とか奈良なら「鹿と大仏」(せんとくん)とか。一種のコマーシャリズムに陥るわけです。大衆を扇動するための単純で単細胞で短絡的な観光戦略。
だから、まちなかにある伝わりにくい情報、文化、歴史、物語などは切り捨ざるを得ない。本当にまちにとって、地域にとって、コミュニティにとって大切なこと、大事なことというのは長くじっくりと誠実に伝えていかないといけないものなのに。
また、そうやって「わかりやすいパッケージ」で1回は大衆を呼ぶことに成功しても、なんせ大衆は移り気ですから。2度3度と果たして来るか?リピーターになってくれるか?といわれるとなかなか難しい。大体「去年、OSAKAいったから今年はTOKYOに行こう」とか「日本はいったから次が中国にいこう」となりがちです。残念ながら。
一過性の大衆を相手に何かビジネスをやるというのは、基本的には大変で、不毛であります。そういう観光客相手だけに地域を切り売りするを繰り返すと本当に地域は衰弱していくし、消耗しきってしまう。悲しいことに、いま、日本全国各地で、そういう短絡的で切り売り的な観光戦略で消耗、衰弱しているまち、都市、地方があちらこちらに見受けられます。
この手の不毛な観光振興、観光戦略へのアンチテーゼといいますか、そういう外需、大衆頼みの観光ではなくて、「内需の観光」「顔が見える相手(身内)と一緒に観光をやりませんか?」というのが、まち歩き観光であり、コミュニティ・ツーリズムです。
いわき時空散走は、いわきのサポーターが、いわきの参加者と一緒に、いわきのまちを自転車で巡って、いろんないわきの文化、歴史、物語を楽しむ。まさしく「地産地消の観光」です。
だから、いわき時空散走に参加する人たちは、一過性の関係に終わりません。ツアーに参加してサポーターさんと話をしたり、参加者と知り合いになると、そこからいろんな交流が芽生えます。
「あ。〇〇さんの知り合いですか?」「〇〇先輩とご親戚なんですね」といったような「友達の友達」「知り合いの知り合い」「遠い親戚だった」というような意外な関係性の発見、確認があったりして、そこから知人、友人としての、ちゃんとした人間関係が始まります。「地縁のもやい直し」です。
サポーターも参加者も同じいわきの人で、住んでいるのもいわき市内だから、ツアーが終わってからも、また別の何かの機会に会ったり、イベントで遭遇したり、企画を一緒にやったり…なんてことも起こったりします。仲間になっていくし、同志になっていく。
こういうのは、同じいわき市内の人と一緒にまちを巡るから生まれてくる派生効果です。仮にヨーロッパの観光客がいわきに来てくれても、そこから永続的で、恒久的で、日常的なおつきあいというのはなかなか難しいですから(絶対にナイというわけではないですが…)。
コミュニティ・ツーリズムは外需ではなくて内需喚起です。大衆ではなくて身内を相手にします。地産地消の観光だから、コミュニティが活性化していく。いわき時空散走を見てください。凄い勢いで、いわきのまちのプレイヤーたち、関係者が繋がっていくし、新しい地域活性化のムーブメントが発生していっている(田部君子フェスなんかはそのひとつの証左でしょう!)。
■田部君子フェス
https://jiku-sanso.jp/event/229/
間違った観光戦略で疲労、消耗していく地方が多い。それは観光の方向性、ベクトルが間違ってます。
「觀國之光利用賓于王」
國の光を觀る。
もって王に賓たるに利し。
國(コミュニティ)の光(長所、特徴)を觀よう。「觀」というのは「雚+見」と書く。そこを訪れて実見して、いろんな意見を語りあおう(雚=にぎやか。二羽の鳥が語り合っている)という意味です。そして、そういうことをする人こそが王(コミュニティを治める人)の賓客(ブレーン)になれる。まちづくりの優秀なプレイヤーになれる。
いわき時空散走、コミュニティ・ツーリズムはそのために行います。観光は、まちづくりのための必須のアクションです。
いわき時空散走フェス2024秋、はじまってます。平ツアー、赤井・平窪ツアーも超絶楽しかった。ほんまに素晴らしい。
これは僕の個人的な反省でもあるんですが、いままでのまち歩きやツアーはガイド(講師、先生、専門家、長老、えらいひとなど)が一方的に喋りすぎました。モノフォニー(単旋律、一声性)すぎた。
当然の話ですが、まち(コミュニティ)はガイドだけのものではないですから。みんなのものです。だから、まち歩きの参加者にも当然、まち(コミュニティ)を自由闊達に語る権利がある。
エライ先生がまちを語って、いろいろと教えてくれるもんだから、それにアッサリと上書きされてしまい、自分の口で「自分のまち」「等身大のまち」を語るという機会が奪われてしまう。とてももったいない。
参加者もまち(コミュニティ)の当事者なのだから、自分の経験やら雑談やら思い出話やら聞いた話やら噂話やらエビデンスなんかまったくない良い加減な都市伝説でも何でもいいから「わたしのまち」「わたしとまち」を語れるし、じつは語る行為によって、ようやく自分とまちとの関わり方、捉え方、関係性、認識が見えてくる。わかってくる。
その内容が歴史的事実と合っているとか間違っているとか、そういうことは一旦置いて、まず「まち語り」をするという経験によって、ようやく「まちびととしての当事者性」を回復すると僕は考えています。
まちづくりやまちおこしといった、何かまちで事を起こしたり、行動するに当たって、まず「自分こそがこのまちの当事者なんだ」という意識なくして、それらの活動は始まりません。起こせません。
だから、いわき時空散走では、参加者全員がそれぞれに、自分なりの「まち語り」をして、それを許容して、シェアするポリフォニック(多声性)なツアーにしたいと思ったわけです。なので「ガイドではなくてサポーターがいるコミュニティ・ツーリズム」のプロジェクトにしようと考えた。
いわき時空散走のサポーターは何度かいっていますが、ツアーの道案内はしますが、基本的にはツアー参加者の話を聞いたり、促したりするファシリテーターの役割です。「参加者(みなさん)自身がガイドですよ」と最初に宣言してツアーに参加してもらってます。おかげさまツアー参加者のみなさん、ようしゃべるようしゃべるw 大阪人以上にしゃべってますw
時空散走はヒストリー(歴史)だけではなくてライフ(人生)を語るツアーともいえます。思い思いに、自分たちのまちの思い出を語るのですが、そこには自ずと、その人のライフ(人生)が滲み出てくる。歴史の話はやはり少し遠いです。実感として、よくわからないところがどうしてもある。安藤信正公とか会ったこともないしw
しかし、ツアー参加者の「まち語り」は、リアルだから共感、共鳴、共振してしまう。自然とみんなが仲良くなっていく。ツアーが終われば、もう既に、そこに新しいコミュニティができあがっている。コミュニティ・ツーリズムの神髄、真価が時空散走にはあると僕は断言します。
また、いわきの人は、みんな自然と、それなりに、朧気ながらでも「わたしとまち」「わたしのまち」の「まち語り」ができるんですよ。それはやはり2011年に東日本大震災と福島原発事故があったからだろうと思います。
あの時、いわきの人(これは福島の人、東北の人全員にいえることですが)は、だれかれ問わず、等しく全員に「なぜこのまちはこうなってしまったのだろうか?」「これからわたしはこのまちでどう生きていこうか?」という問いを、眼前に、切実に、真剣に迫られた経験がありますから。
そういう経験があったいわきの人たちだから、どこの都市の人たちよりも「まち語り」ができるんだろうと僕は思ってます。それは凄いことなのです。ある意味、それこそが、いわきの可能性であるし、未来に繋がることだと思ってます。
参加者全員が「まち語り」をするいわき時空散走は、そういう意味でいえば、最もいわきらしい、いわきに適したコミュニティ・ツーリズムだろうと思ってます。いわきだから、これだけ盛り上がるんだろうとも。
時空散走フェス2024秋は、12月まで続きます。もうどのツアーも満員御礼ばっかりになってきましたが、あと1、2名ならなんとか…というコースもいくつかあります。ぜひともお早めにお申し込みください!
■いわき時空散走・イベント
https://jiku-sanso.jp/event/
※画像はリケンさんのTwitterより。いい写真やなぁ。さすがリケンさん。ありがとうございます!^^
【福島県】田部君子フェスティバルのトークイベント「田部君子をはじめて知ったとき」。いわき・小名浜出身で、いまは東京で活躍なさっている歌人の井上法子さんをお招きして、いろいろと君子の短歌についてお話しして頂きました。
君子の短歌の特徴のひとつとして場所や状況を特定するような固有名詞などは実はあまりなく、それよりも「含みのある言葉」が使われていて、それが読む人それぞれの多種多様多彩な解釈を産む余地となり、だから時間や空間(時空!)を飛び越えて君子の短歌に共感、共鳴、共振してしまうのでは?という井上さんの解説に納得でした。
含みがある言葉を使いながら、それでいて巧みに本歌取りをしていたり、言葉の音律で面白おかしく遊んでいたり、現実と虚構が交錯するような幻視的な言葉を組み合わせていたりと、君子の歌人としての天才性、その妙味や奥深さにも気づかされました。とんでもない歌人です。ほんまに。生まれた場所や時代が違っていたら、どれほどその才能が開花していただろうか…と思わずにはいられない。もしかしたら草野心平級の歌人になっていたかも知れない。そうなっていたら、いわきの文学世界ももっともっと広がっていたことでしょう。あまりに、あまりにも早逝が惜しまれる。
また個人的に、なるほど!と膝を打ったのが井上さんが「私がこの短歌を作りたかった」と君子の短歌を評したこと。これはなかなか凄い言葉で。君子との邂逅の衝撃や羨望や賞賛がありつつ、しかし井上さんの歌人としての在り方や矜持、美学のようなものも感じ取れて、いやあ、痺れましたw
いわき時空散走のリサーチで田部君子という先人を知れたのは嬉しいことでしたが、そのことがキッカケで井上法子さんという現代のいわきの歌人(井上さんはそういわれることに戸惑いがあるかもしれないですが…)と出会えたことも二重の喜びでした。また何か時空散走と短歌ワークショップのコラボなど企画したいなあと思っています。井上さん、よろしくお願いしますw
トークイベントの会場には、井上さんの高校時代の恩師や、田部君子を最初に発掘してくれた勿来関文学歴史館のみなさん、時空散走メンバーも大勢きてくれて、いろんな出会いがあったようで良い場になったように思います。本当にありがとうございました!( ´ ▽ ` )
※画像はトークイベント後の打ち上げで訪れた「漁夫」。秋刀魚と鰹の刺身。常磐もの、美味すぎる…。参りました。「漁夫」も大阪に欲しいw
大阪市立図書館さんから返却催促メールがきて明日からいわきなんで慌てて深夜1時にチャリで図書館にいって本を返却する。いや、ちゃんと返却してなかったワイが悪いんやけど。すすすすいません!
図書館がないと僕の仕事は成立しない。郷土資料の類には常にお世話になっている。貴重書も多い。マニアックなことを調べていたりするので僕が読みたい本、資料の中には1年に1回借りられるかどうか?というような本もあるだろう。ひょっとしたら10年に1回みたいな珍しい機会だったりするかもしれない。
図書館の本当の価値、凄さというのは「100年に1回しか借りられなかった」というような本が何冊あるか?だと僕は思っている。100年に1回だけの需要。100年に一度現れた、その本を読みたい!という奇特(?)な人がいて、その人のお役に立つこと。それこそが図書館の図書館たる由縁です。公共財(コモンズ)としての図書館の存在意義です。
村上◯樹の新作みたいに読みたいという人がいっぱいいて予約が殺到する本なんてのがいっぱいあることが図書館の価値ではないということです。「貸出率」みたいなことで図書館の本をセレクトするとベストセラーしか置かない無味乾燥な図書館になる。
昔、どっかのTSU◯AYA図書館がまさしくそれをやって、もはや図書館にしか置かれていないという貴重な郷土雑誌のバックナンバーを「あんまり貸し出されないから」と廃棄処分にして大問題となった。おいおい。レンタルビデオやないんやから。そういう「貸出率の低さ」みたいな数字で本の価値を測られると、とんでもない文化的損失を犯しかねない。
人類が多少なりとも他の生物よりも文明的な存在だとするならば、それはつまり文字、記録、資料、本を残しているからなのですよ。100年に一度しか貸し出されない本や資料を保存するというのはタイパ、コスパ重視の新自由主義者からしたら馬鹿らしい非効率的な行為なのかもしれないが、文字、記録、資料、本を簡単に破棄する行為は人類史への冒涜であり、歴史的愚挙であります。
焚書坑儒で秦が滅亡したように、反ドイツ主義の焚書によってナチスが崩壊したように、「本を焼く者は、やがて人も焼くようになる」というハイネの警句は達見です。
ちょっと話は飛びますが、奈良県知事(維新系)の民俗博物館の資料廃棄の検討も僕は非常に危惧しています。我々は焚書的愚行に常に抗わないといけない。それは我々自身を滅ぼすことに繋がりかねない。
【いわき時空散走】関係者、サポーター、スタッフのみなさまのおかげで、ついに公式サイトができました!本当にありがとうございます!
5つのエリアのマップも無料で公開されています。「いつでも、どこでも、だれでも自由に使っていい」というコモンズ・デザインです。マップを使って自転車で巡るもよし。まち歩きに使うもよし。学校の探求の授業で使うもよし。会社の研修に使うもよし。まちづくり、まちおこしのツールに使うもよしです。
8エリア、9ツアーの募集も開始され、予約がどんどん埋まっています。おそらく全ツアー満員御礼になりそうです。お早めにお申込みください~!^^
詳細は以下公式サイトよりm(_ _)m
■いわき時空散走
https://jiku-sanso.jp/
■四ツ倉駅:大野・玉山
忍夜恋曲者!滝夜叉姫ゆかりの地を求めて~玉山鉄道跡からいわき最大の前方後円墳・玉山古墳へ~
https://jiku-sanso.jp/area/19/
■植田駅:植田・佐糠・金山
勿来発電所の集合煙突を仰ぎ見ながら~植田宿、佐糠薬師堂を経て安寿と厨子王伝説の金山をゆく~
https://jiku-sanso.jp/area/47/
■小川郷駅:小川郷
何事かを為せ!小川郷に生まれたる者たち~ライス・キング、櫛田民蔵・ふき夫妻、草野心平ゆかりの地をゆく~
https://jiku-sanso.jp/area/49/
■赤井駅:赤井・平窪
夏井川から霊峰・閼伽井嶽薬師を望む~赤井凱旋門から鬼馬童子、からし坊主、龍燈伝説の地へ~
https://jiku-sanso.jp/area/45/
■いわき駅:城山・平
天下の名城・磐城平城から城下町・平を巡る~磐高、磐女の青春の舞台から歌人・田部君子ゆかりの地まで~
https://jiku-sanso.jp/area/32/
えびのは江戸時代、薩摩藩領であった。調べると薩摩藩の年貢率はなんと「八公ニ民」であったという。
一般的な藩の年貢率は「五公五民」で、天領(幕府領)などは「四公六民」であったから、それらと比べると薩摩藩の年貢率はベラボーに高い。辛い。苦しい。厳しい。薩摩藩の農民は当然、貧しく大変で「生活はなく生存しかなかった」などといわれるほど酷い有様であったらしい。
なぜこれだけ薩摩藩の年貢率が高かったのか?というと薩摩藩は武士が多かったからで江戸時代、各藩の武士の人口比率は全国平均では約7%ぐらいだが、薩摩藩では約30%と全国平均の4倍以上も武士が多かったらしい。
薩摩藩はやたらと武士偏重の戦闘国家(戦闘藩?)でこういう武闘派集団が官僚的、事務的、平和的(?)な幕府を倒して明治維新を迎える。わかりやすい話ですなぁ。
えびのは、やたらとタノカンサァ(田の神さま)が多い。えびの市内だけで150体以上ある。しかしこれは別にえびのだけに多いのではなくて薩摩藩領全域に多い。タノカンサァは薩摩藩内の農民たちに特に篤く信仰されたように思われる。
タノカンサァは、また神さまなのに祟らないという神さまだという。蔑ろにしたり、汚したり、蹴ったり、踏んだり、転がしたり、こどもの遊び道具にしたり、割れたり、欠けたり、盗んだり、小便をかけたりしても、決して祟らない。
恐ろしく厳しい薩摩藩の武士と、どこまでも優しく田んぼを見守ってくれるタノカンサァ。この両者は、ある意味で対称的な、シンメトリカルな存在ではないか?という気がする。
庶民の、しいたげられた農民たちの知恵であり、したたかさ、しなやかさなのかもしれない。タノカンサァは今日もトボけた顔をして、そこにいる。