あびこを巡る。あびこ観音さんはいまは節分厄除大祭の真っ最中。人の多さに驚いた。しかし今年は屋台が出ていない。去年、なにかしらの不祥事があったらしく警察の指導が入ったのか、屋台が見送られたらしい。残念。
こどもたちは屋台や縁日が楽しみで祭礼にくる。楽しみ自体は俗なものです。しかし、その最中に大人たちの厳粛たる神事、祭事の光景を垣間見る。敬虔さを横目に感じる。その漫然と触れていた、漠然と見聞きしていた宗教的経験が自然と身体に蓄積され、やがて自分が大人になったさいに信仰が、敬虔が、篤信が涵養され、継承されていく。
言葉やないんです。場に来ることで、そこに身を置く事で、伝わるものがある。屋台、縁日は次世代を神事、祭事へと導く大変、重要な役割があるんですわ。なくなってほしくないなあ…。
ぼくは1978年2月生まれ(1977年世代。戦後最低の大卒就職率63.7パーセント。なんと3人に1人が正社員就職できなかった…)で、まさしく就職氷河期真っ盛りのロスジェネレーション世代。まあ、ぼく自身は中卒の学歴社会アンチテーゼのドロップアウト組なんで、大卒の就職率とかあんま関係ないんですが。
しかし周りの知人、友人たちはほんまに大変そうやった。折角、大学までいったのに働き口がない。正社員になれない。派遣労働者やフリーターになる。ブラック企業に勤めて消耗してしまい、鬱とか失踪とかで社会復帰できなくなる。いまだにひきこもりが一番多い世代が我々世代らしいですから。中には自死、自殺とか悲劇的な最期を遂げてしまった人も少なくありません。僕の知り合いにも何人かいます。まさに死屍累々の世代です。
国や企業や社会から見捨てられ、棄民された世代で、過酷な生存競争に晒された世代なんですが、その中でも勝ち抜いた人間ってのは少数いて、これがしかし「余裕のない勝ち組」というか、自分が勝ち組になれたのは自分自身の血も滲むような努力の結果であり、周りの無様な敗者と比較して、自分の才能や実力に自惚れてゴリゴリの自己責任論者であったりする。
負け組、落ちぶれた奴、ドロップアウトしたような人間は弱い人間でダメな人間で社会不適合者で、そんなのは救済する価値も存在意義も省みる必要などもない…と、棄民された世代であるがゆえに、誰よりも棄民が当然と考えるような弱肉強食的な思想の持ち主が多い気もしています。
イジメられたものが、それで人をイジメなくなるか?というとそうではなく、自分より弱いものを見つけると、より徹底してイジメたりする。哀しいかな。暴力が暴力を産み、憎しみが憎しみを増幅させる。なかなかこうした「イジメの再生産」「暴力の再生産」「憎しみの再生産」の構造から人間は抜け出すことが出来ない。それと同じように棄民された者が、最もよく棄民する人間になってしまう訳です。
同世代で勝ち組、成功者となった人がテレビやSNSで、その手の自己責任論、弱肉強食論を強弁しているのを見るたびに、「この世代、ほんまに世知辛いなあ…」と自己憐憫に陥ったりしてます。そして、この手の世代の勝ち組が政治的権力なんかを持つと、ほんまにろくでもないな…という恐ろしさも感じてます。
いま氷河期世代、棄民世代は50代前後なんですが、あと10年ぐらいすれば、日本の政治の世界(この世界は60代、70代でようやくトップに君臨する遅れた老人社会ですから)では、おそらく主流になって行くと思われます。社会的弱者に対して最も苛酷、峻烈、冷厳で情け容赦ない棄民政治をやるんではないか?と僕なんかは今から非常に危惧しております。
杞憂に終わればええんですが…。
堺の実家に帰ると、なぜか「SAKAI賞・未来賞」の受賞記念プレートが飾られていた。平成19年ということは西暦でいうと2007年。僕は29歳でした。
当時はテレビ業界を辞めてフリーでライターをやったり、イベンターをやったり、アートNPO法人を作ったり…とあちらこちらに顔を出してフラフラしていたが、まち歩きという方法論、手法の面白さ、可能性に気づき、自分なりに試行錯誤をしていた時代だった。
自分の考えるまち歩きプロジェクトをなんとか世の中に出したい、カタチにしたいと考えていたが、なんせこちらは最終学歴中卒で、学歴もなければ、金もなければ、実績もなければ、コネもない。しかし毎日新聞社さんがスポンサーで堺商工会議所がビジネスコンペをやることを偶然、知り、これや!と堺のまち歩きプロジェクトの企画書を書いて提出した。
企画書は無事に一次審査を通り、最終審査で審査員の前でプレゼンをすることになったが「こりゃ一発かましとかなあかん」と、千利休のコスプレ(和装に利休帽を被る)をして、さらに他の企画者はみんなプロジェクターでパワポでプレゼンするから、こっちはアナログでいったれ!と紙芝居を使ってまち歩きプロジェクトの企画を伝えたら審査員から面白がられて奇跡の受賞に繋がった。
そもそも当初は「未来賞」というのはなくて、しかし僕のプレゼンが評判が良かったらしく特別枠として「未来賞」というよくわからない賞(失礼!)が急遽作られて受賞することが出来た。当時の審査員、誰一人として覚えていないが(申し訳ございません)、ありがたいことです。
また毎日新聞さんがスポンサーだったから受賞式の様子などが毎日新聞に掲載され、これがたまたま堺市観光部のS部長の目に止まり、連絡がきて、そこから堺市観光部とのおつきあいが始まった。S部長は国交省から堺市に出向していたキャリア官僚で、さすがに素晴らしい先見の明の持ち主で、いろんな業界関係者を紹介されて、いまもご恩を感じている。
さらには、その関係者の中に大阪市役所の観光関係者がいて、僕の受賞した企画書を読んだ方から会いたいとコンタクトがあり、じつは大阪市もまち歩きプロジェクトを始動するつもりであるというので、そこのプロデューサーに就任することになり、これが大阪あそ歩となった。あそ歩は関係者各位のご協力もあり、ありがたいことに大成功して、2012年にコミュニティ・ツーリズムのプロジェクトとしては日本初となる観光庁長官表彰を受賞した。翌年の2013年に僕はあそ歩をやめるが、まあ、まち歩き自体は、ずっと僕は野良で、アウトサイダーで続けている。
それなりに長くなってきた僕のまち歩き人生(?)であるが、振り返ってみると最も大きい影響と効果を与えてくれた受賞が、この「SAKAI賞・未来賞」だったように思います。記念プレート、大事にせなあきませんな。ホコリかぶってるけど。なんでか僕の部屋やのうて弟の部屋に飾られてたけど(オカンが設置した)。
このあいだFBにノートPCが動作不安定でやばいと書いたらいきなりFBの広告がノートPCだらけに。
勝手に僕の記事や検索履歴からトラッキングで僕の個人情報を抜き取ってアルゴリズムで広告が変わる。狙い撃ちにされる。俗にいう「ターゲティング広告」「追跡型広告」「パーソナライズド広告」であるが、資本主義とは兎角、度し難い。
アマ●ンで本を買うと「この本(商品)を買った人はこんな本(商品)を買っています」というコピーがでてくるが、あなたはこういうジャンルのものが好きで興味関心があって嗜好性があって、だから同ジャンルのものを買いなさいもっと買いなさいと煽ってくるわけだが、これ、ケーキが好きやからといってケーキばっか与えていたら栄養バランス悪くて死ぬみたいなもんで、ある種、非常に無責任なマーケティングといわざるを得ない。
人間は結局、「他者」と出会わないと世界観を広げられない存在ですから。自分が好きなもの、興味関心あるもの、嗜好性にあうものだけでは、全く成長がないのですよ。自分の世界観を広げられない。自分を超えない。社会性を獲得できない。フィルターバブル、エコーチェンバーでしかない。
ネット・マーケティングの殻を破り、いかに「他者」と出会う空間、場所、時間、機会を作りうるか?閉鎖的で偏狭的なネット社会に抗う知の実践のひとつはこれでしょう。
よくわからないもの、意味不明なもの、言語化できないもの、アッチョンブリケなものとの邂逅。人生にセレンディップな体験を。
「いわき名物に馬方ようかんってのがあるよ」と、いわきのごきげんなフリーペーパー『Hi magazine』編集スタッフの高木さんことチャッピーさんに教えてもらって気になっていた。
大阪の図書館にいって調べてみると仙台の老舗和菓子屋『石橋屋』(残念ながら去年、閉店したとか)のご主人・石橋幸作(1900~1976)氏が書いた駄菓子に関するエッセイ(1965年発表)の中に「馬方ようかん」のことが記載されていた。記載されていたが、なんかチャッピーさんから聞いていたものと違う気がする…w こんなですか?馬方ようかんって?チャッピーさん?
あと石橋氏の解説が「もちろん美味いものではありませんが…」と軽くディスっていて…怒られるでw
来月のいわき取材の時には、ぜひとも食べてみたい。馬方ようかん。
住吉名物「閻魔地蔵」。住吉・粉浜村には、かつて六本道があり、六道の辻といわれた。いまは一本増えて、なんと七本道になっているw
人間は死んだら生前の行いを調べられて閻魔大王の裁きを受けて六つの世界に転生するという。地獄、餓鬼、畜生、人間、修羅、天であるが住吉・粉浜の六本道が、その六道への信仰と結びついて閻魔さまが安置された。京都の六波羅信仰と違って大阪はちゃんと「六本道」という具象があるのでわかりやすいw
面白いのが閻魔大王そのものではなくて閻魔地蔵であること。地獄に落ちたさいに救済してくれるのは地蔵菩薩で、じつは閻魔大王の化身というような話もあるが(蛇足だが八尾では閻魔さまと地蔵さまは恋人同士という信仰なんかもあるw)、その閻魔信仰と地蔵信仰が合体した。
いわば閻魔さま(刑罰)と地蔵さま(恩赦)が一緒くたになっているようなもので良い加減というかなんというか…。まあ、住吉・粉浜村の素朴な庶民信仰、民間信仰ですからな。そのへん非常にテキトーですw
さらに面白いのが、この閻魔地蔵さまはいったん前からお参りしたあと、閻魔地蔵さまの裏に回って二度参り、裏参り、念押し参りをするという構造になっていること。
じつは閻魔地蔵さまは住吉の海に漂流してきた…という挿話があり、粉浜の漁民たちが閻魔地蔵さまを発見したあと、これはありがたい神さん仏さんだから住吉さんに持って行こうと担いでいたら、この六本道に差し掛かり、そこでいきなり重くなって動かなくなったので安置された…ということになっている。
そして長い間、暗くて冷たい海の中にいたもんだから閻魔地蔵さまは、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり(中耳炎w)、だから表から一回だけお参りされても願いごと、祈りごとが届かない。裏に回ってもう一度、お参りしないといけない。
これ、要するにえべっさんの信仰です。えべっさんにも同じようなエピソードがあって、だから閻魔地蔵は、じつは閻魔大王+地蔵菩薩+戎神の三体の神仏が合体、習合してるんですな。
この閻魔地蔵さまをお参りすると死んだ際の閻魔さまの裁きでも温情が得られ、仮に地獄にいっても地蔵さまの恩赦があり、さらにえべっさんの現世利益(豊漁、豊作)にも授かれる。なんというか庶民の夢が全部入っております。いやあ、ありがたいですな。庶民信仰万歳!
南無閻魔地蔵
池田郷まち歩き。画像は猪名川。
猪名川(いながわ)はかつてはチョナガワといわれた説がある。チョナ(チョウナ、チョンナ)は古代の朝鮮語だそうで「手斧」の意味とか。
猪名川は神崎川と繋がり、やがて大阪湾に通じる。そのルートを遡上して大陸、朝鮮半島の渡来人たちがやってきた。彼らはチョナ=手斧を使うことに長けた特殊技能民で能勢や妙見の山々に入り、木材などを伐採していたのではないか?と思われる。
猪名川を遡ると摂津国多田庄に至る。いまも能勢電鉄に多田駅というのがあるが、ここが多田源氏の本拠地、発祥地でもある。清和源氏の本流となる源満仲(多田満仲)を祖とする軍事貴族である。
とくに満中の子の源頼信は河内源氏の祖となり、この系統からは八幡太郎義家、頼朝、義経の鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家が誕生している。日本史上最大の名門武家集団として長く全国に覇を唱え、君臨した。
以下は僕の適当、気儘、無責任な妄想であるが、じつはチョナ(手斧)の渡来人たちが能勢の土地に溶け込んで土着化して、やがて武器の扱いに長けた武装集団となり、それが多田満中の配下となって多田源氏の軍事集団を形成したのではないか?と思ったりしている。
猪名川は今現在でも大阪府と兵庫県と県境となっているが地政学的にも大変重要な川であった。また多田には銀山、銅山なんかもあり、ここを抑えないと摂津国は治められません。
ほんまに、いろいろオモロイんですわ。猪名川流域。猪名川文化圏。もっともっと注目されていい。
あ。以下は蛇足のまち話。昔、池田郷にはたくさん賭場があったとか。警察が賭場の現場に踏み込む。すると賭場の関係者や客はみんな一目散に猪名川に逃げて川向こう(西側)の川西市側に入った。すると川西は兵庫県なんで兵庫県警の管轄。大阪府警は手が出せない。猪名川の池田郷側から地団駄踏んで悔しがったとか。そうやって池田郷の賭場は大いに発展、繁盛したらしいw
新世界界隈は第5回内国勧業博覧会(1903)のあとに博覧会場跡地に作られた。開発したのは大阪土地建物株式会社で代表が土居通夫。その土居通夫の「通」をとって「通天閣」と名付けられ、名付けたのは藤澤南岳とされる。
明治日本は西欧列強諸国に認められるような近代国民国家を目指し、そのために万国博覧会(万博)の実現、開催を目論んだ。当時は万博をやり遂げることが一等国、一流国の仲間入りの証明であったから万博開催こそは近代日本政府の悲願であったといっていい。
しかしいきなり万博をやりたいといってもまだまだ国際的地位も低く、国力の脆弱な日本では開催できない。そこで万博のための予行演習、準備運動として日本国内だけで「内国勧業博覧会」を開催することにした。第1回(1877)、第2回(1881)、第3回(1890)は東京・上野、第4回(1895)は京都の岡崎、そして第5回(1903)を大阪・天王寺(新世界)で開催したが、この第5回の内国勧業博覧会は、それ以前の内国勧業博覧会と比べても別格の規模とスケールで展開された。
というのも開催前に日本政府が工業所有権の保護を認めるパリ条約に加盟したので、内国勧業博覧会といいながら海外国の参加も可能となり、14カ国18地域の参加があり、来場者数も530万人を超えた。これはブリュッセル万博(1897年、780万人)には及ばないが、バルセロナ万博(1888年、230万人)などは優に抜いている。日本初、アジア初の万博開催の夢、悲願を果たすのはそう遠くない…というレベルに達し、素晴らしい実績を残したといえる。
しかし日本は以後、内国勧業博覧会を開催することはなかった。というのも第5回内国勧業博覧会の翌年、日露戦争(1904、1905)が勃発し、日本はそこで勝利を収め(ギリギリの辛勝であったが)「帝政ロシアを撃退する」という劇的な事件によって西欧列強諸国から認められる一等国、一流国となってしまった。
歴史の皮肉というか悲劇というか、日本は、ある意味で「戦争」という手段で国際社会に華々しくデビューしてしまったわけです。そういう形で一流国と認められ、成功体験を得てしまった日本は、その成功モデルに固執してしまい、脱却できず、昭和に入ると戦争拡大路線に突き進み、破滅を迎えることとなってしまった。
歴史に「if」はないのですが、もしも日露戦争がなく第5回内国勧業博覧会のあとに日本初、アジア初の万博を開催することができていたら日本はもっと平和的に、文化的に、友好的に世界の国々に認められる一等国、一流国になっていたかもしれない。
個人的には、可能であれば、できることなら、そういう形で日本という国が認められてほしかった。通天閣をみるたびに、そんなことを考えたりします。
【福島県】一般社団法人Tecoさんからのご依頼で、今回のいわき滞在中に、いわきの中央台公民館にて人材育成セミナーを行いました。
まち歩き観光=コミュニティ・ツーリズムの方法論を用いることでコミュニティ(まち)のことを知り、語り、聞き、考える人が増えて、そこから自然発生的にコミュニティ作り(まちづくり)が始まりまっせ…といったようなお話。
一過性のうろんで無責任で身勝手な大衆=観光客を相手になにかをやるというのは大変です。なんせうろんで無責任で身勝手だからw そういう大衆(マス)の集客(観光客)を増やそうとするのがマスツーリズム(大衆観光)。数こそ正義、売上こそ正義であり、マスツーリズム=マスビジネスですな。
そういう観光客を集めるためには、わかりやすいキャッチなパッケージをしないといけない。大阪なら「YTT」(たこ焼き、吉本、タイガース)とか奈良なら「鹿と大仏」(せんとくん)とか。一種のコマーシャリズムに陥るわけです。大衆を扇動するための単純で単細胞で短絡的な観光戦略。
だから、まちなかにある伝わりにくい情報、文化、歴史、物語などは切り捨ざるを得ない。本当にまちにとって、地域にとって、コミュニティにとって大切なこと、大事なことというのは長くじっくりと誠実に伝えていかないといけないものなのに。
また、そうやって「わかりやすいパッケージ」で1回は大衆を呼ぶことに成功しても、なんせ大衆は移り気ですから。2度3度と果たして来るか?リピーターになってくれるか?といわれるとなかなか難しい。大体「去年、OSAKAいったから今年はTOKYOに行こう」とか「日本はいったから次が中国にいこう」となりがちです。残念ながら。
一過性の大衆を相手に何かビジネスをやるというのは、基本的には大変で、不毛であります。そういう観光客相手だけに地域を切り売りするを繰り返すと本当に地域は衰弱していくし、消耗しきってしまう。悲しいことに、いま、日本全国各地で、そういう短絡的で切り売り的な観光戦略で消耗、衰弱しているまち、都市、地方があちらこちらに見受けられます。
この手の不毛な観光振興、観光戦略へのアンチテーゼといいますか、そういう外需、大衆頼みの観光ではなくて、「内需の観光」「顔が見える相手(身内)と一緒に観光をやりませんか?」というのが、まち歩き観光であり、コミュニティ・ツーリズムです。
いわき時空散走は、いわきのサポーターが、いわきの参加者と一緒に、いわきのまちを自転車で巡って、いろんないわきの文化、歴史、物語を楽しむ。まさしく「地産地消の観光」です。
だから、いわき時空散走に参加する人たちは、一過性の関係に終わりません。ツアーに参加してサポーターさんと話をしたり、参加者と知り合いになると、そこからいろんな交流が芽生えます。
「あ。〇〇さんの知り合いですか?」「〇〇先輩とご親戚なんですね」といったような「友達の友達」「知り合いの知り合い」「遠い親戚だった」というような意外な関係性の発見、確認があったりして、そこから知人、友人としての、ちゃんとした人間関係が始まります。「地縁のもやい直し」です。
サポーターも参加者も同じいわきの人で、住んでいるのもいわき市内だから、ツアーが終わってからも、また別の何かの機会に会ったり、イベントで遭遇したり、企画を一緒にやったり…なんてことも起こったりします。仲間になっていくし、同志になっていく。
こういうのは、同じいわき市内の人と一緒にまちを巡るから生まれてくる派生効果です。仮にヨーロッパの観光客がいわきに来てくれても、そこから永続的で、恒久的で、日常的なおつきあいというのはなかなか難しいですから(絶対にナイというわけではないですが…)。
コミュニティ・ツーリズムは外需ではなくて内需喚起です。大衆ではなくて身内を相手にします。地産地消の観光だから、コミュニティが活性化していく。いわき時空散走を見てください。凄い勢いで、いわきのまちのプレイヤーたち、関係者が繋がっていくし、新しい地域活性化のムーブメントが発生していっている(田部君子フェスなんかはそのひとつの証左でしょう!)。
■田部君子フェス
https://jiku-sanso.jp/event/229/
間違った観光戦略で疲労、消耗していく地方が多い。それは観光の方向性、ベクトルが間違ってます。
「觀國之光利用賓于王」
國の光を觀る。
もって王に賓たるに利し。
國(コミュニティ)の光(長所、特徴)を觀よう。「觀」というのは「雚+見」と書く。そこを訪れて実見して、いろんな意見を語りあおう(雚=にぎやか。二羽の鳥が語り合っている)という意味です。そして、そういうことをする人こそが王(コミュニティを治める人)の賓客(ブレーン)になれる。まちづくりの優秀なプレイヤーになれる。
いわき時空散走、コミュニティ・ツーリズムはそのために行います。観光は、まちづくりのための必須のアクションです。
いわき時空散走フェス2024秋、はじまってます。平ツアー、赤井・平窪ツアーも超絶楽しかった。ほんまに素晴らしい。
これは僕の個人的な反省でもあるんですが、いままでのまち歩きやツアーはガイド(講師、先生、専門家、長老、えらいひとなど)が一方的に喋りすぎました。モノフォニー(単旋律、一声性)すぎた。
当然の話ですが、まち(コミュニティ)はガイドだけのものではないですから。みんなのものです。だから、まち歩きの参加者にも当然、まち(コミュニティ)を自由闊達に語る権利がある。
エライ先生がまちを語って、いろいろと教えてくれるもんだから、それにアッサリと上書きされてしまい、自分の口で「自分のまち」「等身大のまち」を語るという機会が奪われてしまう。とてももったいない。
参加者もまち(コミュニティ)の当事者なのだから、自分の経験やら雑談やら思い出話やら聞いた話やら噂話やらエビデンスなんかまったくない良い加減な都市伝説でも何でもいいから「わたしのまち」「わたしとまち」を語れるし、じつは語る行為によって、ようやく自分とまちとの関わり方、捉え方、関係性、認識が見えてくる。わかってくる。
その内容が歴史的事実と合っているとか間違っているとか、そういうことは一旦置いて、まず「まち語り」をするという経験によって、ようやく「まちびととしての当事者性」を回復すると僕は考えています。
まちづくりやまちおこしといった、何かまちで事を起こしたり、行動するに当たって、まず「自分こそがこのまちの当事者なんだ」という意識なくして、それらの活動は始まりません。起こせません。
だから、いわき時空散走では、参加者全員がそれぞれに、自分なりの「まち語り」をして、それを許容して、シェアするポリフォニック(多声性)なツアーにしたいと思ったわけです。なので「ガイドではなくてサポーターがいるコミュニティ・ツーリズム」のプロジェクトにしようと考えた。
いわき時空散走のサポーターは何度かいっていますが、ツアーの道案内はしますが、基本的にはツアー参加者の話を聞いたり、促したりするファシリテーターの役割です。「参加者(みなさん)自身がガイドですよ」と最初に宣言してツアーに参加してもらってます。おかげさまツアー参加者のみなさん、ようしゃべるようしゃべるw 大阪人以上にしゃべってますw
時空散走はヒストリー(歴史)だけではなくてライフ(人生)を語るツアーともいえます。思い思いに、自分たちのまちの思い出を語るのですが、そこには自ずと、その人のライフ(人生)が滲み出てくる。歴史の話はやはり少し遠いです。実感として、よくわからないところがどうしてもある。安藤信正公とか会ったこともないしw
しかし、ツアー参加者の「まち語り」は、リアルだから共感、共鳴、共振してしまう。自然とみんなが仲良くなっていく。ツアーが終われば、もう既に、そこに新しいコミュニティができあがっている。コミュニティ・ツーリズムの神髄、真価が時空散走にはあると僕は断言します。
また、いわきの人は、みんな自然と、それなりに、朧気ながらでも「わたしとまち」「わたしのまち」の「まち語り」ができるんですよ。それはやはり2011年に東日本大震災と福島原発事故があったからだろうと思います。
あの時、いわきの人(これは福島の人、東北の人全員にいえることですが)は、だれかれ問わず、等しく全員に「なぜこのまちはこうなってしまったのだろうか?」「これからわたしはこのまちでどう生きていこうか?」という問いを、眼前に、切実に、真剣に迫られた経験がありますから。
そういう経験があったいわきの人たちだから、どこの都市の人たちよりも「まち語り」ができるんだろうと僕は思ってます。それは凄いことなのです。ある意味、それこそが、いわきの可能性であるし、未来に繋がることだと思ってます。
参加者全員が「まち語り」をするいわき時空散走は、そういう意味でいえば、最もいわきらしい、いわきに適したコミュニティ・ツーリズムだろうと思ってます。いわきだから、これだけ盛り上がるんだろうとも。
時空散走フェス2024秋は、12月まで続きます。もうどのツアーも満員御礼ばっかりになってきましたが、あと1、2名ならなんとか…というコースもいくつかあります。ぜひともお早めにお申し込みください!
■いわき時空散走・イベント
https://jiku-sanso.jp/event/
※画像はリケンさんのTwitterより。いい写真やなぁ。さすがリケンさん。ありがとうございます!^^