皇學館大学名誉教授、住吉大社の真弓常忠宮司から直々に御本を頂戴いたしました。
http://www.amazon.co.jp/dp/4886021875
http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/message.html
住吉の神はどこで誕生したのか。多様な祭りの意味するところは何か。住吉大社の宮司がその奥深い信仰の森にわけ入り、日本人の心の源流に触れる。住吉神の発祥、近世における住吉信仰、住吉大社の祭り、埴使の謎などで構成。
勉強させていただきます。
http://www.yushodo.co.jp/press/meotozenzai/index.html
読みました。「オダサクの幻の続編」ということですが、あの大阪人の心の名作『夫婦善哉』に、とってつけたような続編だったら凹むなぁ、と思って、本はずいぶん前に買ってはいたものの、なかなか読まなかったのですが、ついにとうとう読みました。
正編からちゃんと読んでみたら、じつは続編の別府行きは正編から複線が張られていて、最初から最後まで、オダサクの中では、ちゃんとプロットが練られていたことに気づかされました。驚きましたねぇ。正編で一端、筆をおいたわけですが、すでに別府行きの続編は最初から想定されていたんですな。優れた作家って、ここまで用意周到に物語を準備しておくんやなぁ、と感心しました。
続編も軽いタッチで終わってます。「午年同士で午が合う」なんて落語みたいなサゲです。しかし、正編のラストシーンの、蝶子と柳吉が夫婦善哉を食べて
「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。
・・・これほどのオカシミ、軽妙洒脱には至っていません。続編は、正直、ちょっと重い。時代の空気のようなもんでしょうか。それはそれで興味深いんですが、オダサクが続編を書き上げておきながら、あえて公開しなかった理由も、よくわかります。
面白かったのが、別府人は、大阪人に非常に親近性を持っているとか。その昔、別府に湯治で遊びにくる人の半分以上が大阪人だったそうで、大阪・天保山から船で出て、一晩寝ると別府につく。別府人からすると大阪は隣町のようなイメージなんだとか。これは別府オンパクを体験したオダサク倶楽部の井村先生から聞かされた話です。なるほどなぁ。
この距離感は、例えば夏目漱石の『坊つちやん』の「東京育ちの清」と「松山に赴任する坊つちやん」の距離感とはずいぶんと違います。訳ありの、大阪の男と女の、定番の不倫旅行先、駆け落ち場所・・・大阪と別府は、そういう都市関係にあった。そういう雰囲気の中に、続編はあります。舞台設定の妙ですな。これはこれで、非常に味わい深いものでした。
http://eventology.org/1/2008_12_25_archive.html
行ってきました。ぼくはイベント的発想やイベント的現象に懐疑的で、なんでもかんでもイベント化しつつある社会に危惧を感じます。イベント化とは端的にいえば一過性です。一過性はまた無責任と表裏一体です。
歴史や文化、文明は水平軸の存在です。連綿と続いて、連続して、持続発展していくサスティナブルなものであるのに、それを垂直型に唐突に割り込もうとするのがイベントです。一時的には、社会のある一面を極端に照射しますが、それが社会の土壌に根付くことは非常に難しい。イベントは常に一過性で終わる。だからでこそイベント(出来事)といいます。
例を出します。ぼくは民主主義を信じています。しかし民主主義を実現するための「選挙制度」には懐疑的です。選挙制度は何月何日に立候補者が公示されて、何日間か選挙演説を行って、投票日になると有権者が投票行為を行って、多数票を獲得したものが政治家という立場で民主政治を代行します。アメリカ大統領選挙のような長期間行われる選挙制度もありますが、基本的にはこれは一過性の現象でイベントといえます。
近代の議会制民主国家の多くは、選挙制度というイベントの結果で民主政治を実現しようとしてきました。しかし、それで果たして民主政治をどれだけ実現することができたのか?新聞の内閣支持率調査を鵜呑みにするわけではないですが、それでも支持率15パーセントの首相が存在するのはどこかシステム、制度として欠陥があるのでは?と思わざるをえません。
オバマ氏がアメリカ大統領に選ばれましたが(現在80パーセント近い支持率だそうですが)、大統領の任期期間は「4年間」で、この4年間が、じつは一過性です。また大統領選挙でも支持基盤向けに大げさなリップサービスや、明らかな利益誘導、大衆迎合のパフォーマンスが行われました。オバマ氏を攻撃するわけではないのですが「チェンジ!」は公約でもなんでもないです。なにもいっていないに等しい。これはただの選挙向けのパフォーマンスです。それに大衆が踊らされて雰囲気や勢いで大統領が決まる。一歩間違えれば恐ろしいことと思いませんか?
要するに「選挙制度」や「任期」というイベント的発想や手法が民主主義を歪めてしまっているんです。ぼくが基本的にノンポリであるのは、こうした政治システムに対する根底的な疑問があるからです。現在の政治はイベント的事象であって、ぼくらが生きる大地(社会、歴史、文化、文明、宗教、地域、家族、血縁、地縁)に根ざしたものではない、という思いがあるからです。ぼくらはぼくらのやり方で、民主主義社会を実現しないといけません。その方法論は選挙や任期といった政治システムの改良ではなくて、政治という範疇を凌駕する「まつりごと」だろうとぼくは思っているのですが、さて、では「まつりごと」とは一体なにか?…この話をすると滅茶苦茶長くなるので割愛します(笑)ただ、ぼくはいま真剣、必死になって「まつりごと」をやっていきたいと思ってます。まじめに。そして多少の遊び心をもって。
なんでもかんでもイベント化する現象は今後も続いていくようです。既存社会が閉塞的状況に陥っているので、それをイベント的手法で誤魔化そうとする人々があまりに多いからです。しかしイベント的手法で社会を変革することは不可能で、むしろ事態は悪化していく一方でしょう。自民党がダメだからと民主党に政権を任せても、おそらくあまり事態は変わらないです。イベント(選挙制度)に期待してはダメなんです。ぼくらのライフは、誠実に、一歩一歩、日々を積み重ねていくものだから。親から子に伝わるような、遺伝子のような、「まつりごと」を残さないと。
以上は、イベント学会に参加して、名だたるイベンター、イベント・プロデューサーの方々と話をして思ったことです。皆さんも同じような危機意識はお持ちのようでしたが。
http://www.kare-tenpuraudon.com/
メニューは「カレー天ぷらうどん」「カレーうどん」のみ。 絶品でした。
福田定一。学徒出陣で陸軍に徴兵されて満州へ。訓練だと意味もなく平野を走らされ「こないなもん何の役にも立てへんわ!アホちゃうか!」と大阪弁で大声で喚きながら走ってた。同僚の東北の学徒は無言で黙々と走りながら「大阪の人間は得体が知れない」と戦々恐々としていた。
これが後の司馬遼太郎。
「ロマンを発見した」とは「夫婦善哉」で有名な大阪が生んだ夭折の天才作家オダサク(織田作之助)の伝説的な遺言。先だって1月12日に楞厳寺(大阪市天王寺区)でオダサクを偲ぶ「善哉忌」が行われました。
※織田作之助
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BD%9C%E4%B9%8B%E5%8A%A9
「万葉以来、源氏でも西鶴でも近松でも秋成でも、文学は大阪のもんだ」 というのがオダサクの弁とか。
http://www.osaka-brand.jp/panel/books.pdf
オダサクの同級生の田尻玄龍ご住職から、オダサクの思い出話などをお聞きしたあとに献花をして、ご焼香を上げさせていただきました。寒かったですが、ええ青空でした。合掌。
「天天有」といえば、京都・一乗寺ラーメンとして日本全国のラーメン通には有名ですが大阪・住之江にもあります。チェーン店ではなくて、じつは京都の「天天有」の親戚なんだとか。だから「天天,有」と「,」が入ってます。
京都店
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006712096/
大阪店
http://gourmet.yahoo.co.jp/0002075968/
雑誌、テレビの常連で、フランチャイズ化して、コンビニでカップラーメンを販売しているのは京都の系列。大阪のほうは昔ながらの味を頑固に守り、地元の人に愛される名店です。たまに行きますが隠れた住之江名物。オススメです。
アメリカもイギリスもフランスもドイツも、地方の市議員はほぼボランティアだそうです。報酬なんてごくわずか。議員といえども他に仕事をもっているのが常識とか。また大抵、市議会は夜に開かれるそうで、サラリーマンでも参加が可能なシステムになっています。
要するにサラリーマンとか、主婦とか、酒屋のおっさんが、ボランティアとして市議会をやるわけです。名誉職のようなものですな。そして、自分の職業と関連するような議会には出られないようになってる。酒屋のおっさんは酒関連の条例を決める議会などには参加できない。つまり、自分たちの業種に都合がいいような、利権行為が、基本的にはできないようになってるわけです。
ボランティアでも議員をやろう!というぐらいの人たちですから、当然、都市、まちのことを真剣に考えてます。「普通にまちで生活してる、働いている一般市民」が議会に参加してこそ「市議会」だというわけですな。ぼくもこの考え方に基本的には賛成です。年間何千万円もの議員報酬をもらって、それだけで生活しているとなると、これは市民ではなくて、一種の政治屋ですから。市民不在の市議会。それでいいのだろうか?という疑問。
いま地方都市はお金がありません。どこも大赤字でデフォルト寸前。そのうち必要に駆られて、自然と、地方行政は変わっていくでしょう。議員のあり方、議会のあり方も変容せざるを得ない。その議論を経て、やがて、市民の、市民による、市民のための、市議会、市行政が、実現されんことを。
そうやって「ほんまもんの市議会」が成立した地方都市から、再生していくと思います。
あけましておめでとうございます。
年始から仕事仕事で、まったく正月という感じがしませんが・・・まぁ、時にはそういう正月もあっていいかな?と思います。 今年の抱負は色々と考えたのですが「犇犇と伝える」でいこうと思っています。牛年ですので牛に因んでみました(笑)
今年も何卒よろしくお願いいたします。
※大阪市住吉区「神ノ木地蔵」
年の瀬が迫ってきました。今年は変化の激しい年だったように感じています。世界的な金融大不況や大統領選挙、BIG3の凋落などは典型的な例でしょうが、数年前からこういう動きや流れになるような雰囲気は感じていました。大げさにいえば、だんだんと現代文明が転換点を迎えつつあるのかな…という気がしています。
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紀元前に始まった農耕文化は、人類が「貯蓄」「蓄財」に目覚めた始まりといわれています。農作物は、例えばお米なら1年間に1回しか収穫できません。これを収穫シーズンの秋に「収穫できた!」と嬉しさの余りに食べつくしていたら、人類というのは冬のあいだに飢えて死んでしまいます。定期的に、計画的に、消費することを調整しないといけない。貯蓄の大事さ。蓄財の大切さというのを農業生産物から人類は学ぶわけです。日本でいえば、ネズミに食われないように「ネズミ返し」のついた高床式倉庫の建設。あれは日本人が「貯蓄」することを覚えた現れです。いまでいえば「銀行」のようなもんです。
米とか麦とか「農産物」「モノ」「物財」に頼る文明が「古代文明」の創始です。米や麦を増やすことで食うことに困らなくなって、みんなが幸せになれる。それで農作物を増やすために、人類は耕地を広げて、治水を行って、組織が出来て、ボスが生まれて、政治が生まれて、ときには土地争いに発展して、戦争まで行われるようになりました。黄河、長江、インダス、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明は皆、こうした農業文化の創始、発達から生まれてます。
米や麦の生産、収穫量がコミュニティ全体の消費よりも過剰になると登場してくるのが「商人」です。余剰生産物を交換することで生業が成立する階級が生まれてくる。古代文明(農耕文化)が発展すると自然と人類には「交易の時代」が到来しました。古代ペルシャの「王の道」や「すべての道はローマに通ず」で有名なローマ帝国の「ローマ街道」などはその一例です。ユーラシア大陸を越えて、遠く極東の日本の港(大阪・住吉大社)にも通じる「シルクロード」も、この時代に整備されました。人々やモノが全世界を駆け巡って往来して、物質主義、欲望主義、人間主義が横溢した。
古代美術を眺めていると古代人の感性がよくわかります。ギリシャやローマの美術というのは、恐ろしいほど精巧で、人間を見事に冷徹に観察していることに気づきます。ミロのビーナスなどはまるで20世紀人が作ったかのように写実的です。カメラのようだといってもいいでしょう。これが例えば農業文化、古代文明以前の、上古の時代の美術となると、非常に抽象的で、なにを作ってるのかよくわからないものが多いです。たとえば日本の大地母神=土偶は宇宙人みたいなけったいなものになっています。ミロのビーナスも土偶も同じく「女神」なんですが。
こうした古代文明の写実美術というのは、しかし中世になると、まるで見られなくなります。中世は上古の時代のように「神」が復活した時代で、精神的な、感性を重んじる抽象美術の世界です。ビザンティン美術、ロマネスク美術、ゴシック美術というのがまさにそれで、この頃のキリストや十二使徒は「12頭身」に描かれていて、現代人が見ると奇妙な倒錯感を感じます。植物図鑑にも「マンドラゴラ」(マンドレイク)なんて奇妙な生物が記述されたりして、まるで科学的ではありません。神が蘇り、天使が舞い、悪魔や死神が跳梁跋扈した中世の幻想美術。
美術以外にも例えば科学の世界でも、古代のほうが正確かつ論理的で、中世社会は後退しています。農作物を生産することは、物事を観察する=「科学すること」が尊重されたわけで、天文学(稲をまく時期や収穫の時期など、天文の動きこそが農作物生産の要です)などが大いに発達しました。実際、古代ギリシャのプラトンやアリスタルコスは、はっきりと「地動説」を唱えていますが、中世社会では否定されました。結局、16世紀に「ルネサンス」(古代ギリシャ・ローマ文化、人間主義への復興運動)が始まって、コペルニクスの登場やガリレオが「それでも地球は動く!」と宗教裁判で証言するまで忘れ去られていました。
芸術にしろ、科学にしろ、その時代や文明というのを鏡のように如実に反映しますが、古代から中世へといたる芸術、科学を検討すると、古代文明は断絶しているという歴史的事実に気づかされます。人類文明は古代と中世のあいだで、一度、崩壊しているんです。なぜか?戦争ではありません。「自然環境破壊」が原因です。
ギリシャやローマ帝国時代に利用された自然エネルギーは薪炭や木材ですが、古代文明の人口が増大して、消費エネルギーが無尽蔵に膨らむと、木材の伐採が大いに進行しました。建築や造船用材の使用、焼畑農業によって緑は破壊されて、みるみる森林はなくなりました。古代人は自分たちの欲望のままに自然環境を開発しつくして、生態系のバランスを崩してしまったわけです。こうして農業生産物が取れなくなって、古代文明が疲労の局地にあったときに異民族の襲来によって、偉大なるエジプトも、ギリシャも、ローマも、あっさりとこの地上から消滅してしまいました。いま現在もエジプト、メソポタミア、インダス流域は砂漠化して、古代文明の環境破壊の凄まじさを物語ってます。オリンポスの神々が牧歌とともに愛を語り合った、美しきギリシャの山並みは、いま跡形もありません。
中世というのは、古代文明の失敗と内省から始まりました。人類は欲望のままに自然体系を破壊して、神々に反逆したことを激しく後悔しました。そこで「人類は罪深いものだ」という「原罪」の思想が生まれて、「宗教文明の時代」へと突入したわけです。古代人と同じように科学主義に染まっている近代人(もちろん我々、現代人も含みます)は、中世のことを「迷信に支配された魔女狩りの時代」「暗黒時代」などと呼んで忌み嫌いますが、古代文明を支配した科学主義、人間中心主義の思想を捨てて、中世という「祈りの文明」を選択したことは、ぼくは人類の素晴らしい叡智だと信じています。むしろ中世人からすれば古代人、近代人(そして現代人)こそが「神が不在の暗黒時代の住人」でしょう。
古代文明が木材に依存したのと同じく、現代文明も石炭、石油に依存して科学主義、欲望主義、人間主義で突き進んできましたが、いま明らかに飽和状態です。「歴史は繰り返す」といいますが現代文明は確実に転換点を迎えつつあります。「土偶」や「12頭身のキリスト」を拝むことは所詮「迷信」に過ぎませんが、ぼくはその「祈り」の背景にある、自然とともに日々を暮らそうとした人類の優しい知恵や姿勢を尊ぶべきだと思っています。「天網恢恢、疎にしてもらさず」といいますが、そういう敬虔なモラルハザードこそが、いまの人類社会に必要なのではないか、と感じています。
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えらく長ったらしい文章を書きましたが、年に一度の大晦日ぐらいは、こういうマジメで、難しいことを考えてもいいだろう、と思って書きました。今年1年、いろいろとくだらない雑文を書いてきたので、その反省です。お坊さんは人間の煩悩の数だけ除夜の鐘をついて懺悔しますが、ぼくは「ものかき」なんで文章で懺悔しないといけないんですわ(笑)なにはともあれ、今年1年のご愛読ほんとうにありがとうございました。来年もぜひともよろしくお願いします。よいお年を!
むつさとし拝