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江戸時代の大坂は、まず間違いなく、日本最大の学問都市で、文教都市でした

2011 年 11 月 2 日 Comments off

緒方洪庵が経営した適塾は医学塾でしたが、洪庵は当時珍しい蘭学医者でもあったので語学塾としての傾向も強くありました。語学や言葉を学ぶことは西洋思想そのものに触れることに他なりません。そこから日本陸軍の父ともいわれる大村益次郎、外交官として活躍した大鳥圭介、衛生学の泰斗長与専斎、思想家の福沢諭吉、官僚の花房義質、赤十字を作った佐野常民、手塚治虫の祖父で医師の手塚良庵など、綺羅星の如くの人材が輩出されました。

緒方洪庵と並ぶ幕末の啓蒙家・教育家として名前が上げられることも多い吉田松陰の松下村塾の運営はわずか3年の短さでしたが、適塾は26年間も続きました。また松下村塾はほとんどが長州藩出身者でしたが、適塾は北海道から九州まで、広く門下生が集まっていました。その数は3000人を越えるといいますから、単純に計算すれば、年間100名以上の門人を受け入れて育成したことになります。数もさることながら、活躍した分野、地域の多彩なことも特筆すべきことで、まさに百花繚乱。圧巻です。

適塾のみならず、適塾以前から大坂は私塾の集積地でした。懐徳堂、絲漢堂、先事館、思々斎塾、洗心洞、真空館、青山社など。これはすべてが町民、町衆が資金を出し合った民間塾で独立独歩で運営していた。日本全国に「藩校」というのはありましたが、この手の「私塾」の集積は大坂が随一でした。

藩校と私塾では学問の分野や方向性、ベクトルが違います。藩校で勉強するのは儒学(その多くは朱子学。稀に陽明学)であって、しかし大坂の私塾は儒学もあれば蘭学、医学、漢学、天文学、和算など、ごった煮のグチャグチャでした。各自が各自のやり方で、自由闊達に、やりたい放題やっていた。有名な懐徳堂なんかは世間から「鵺学」と揶揄されたほどで、鵺というのは妖怪で、顔は猿、胴体は狸、手足は虎で尾は蛇。要するに「キメラ」(合成獣)なんですが、懐徳堂が蘭学、医学、漢学、天文学、和算などゴッタ煮で、意味わからん学問をやっていたので「あそこは鵺学や」と呼ばれたんですな。藩校ではこんなことは先ずありえません。しかしそのおかげで鵺学の懐徳堂から、哲学の根源理論を看破した加上論の富永仲基や、宇宙モデルを説いた唯物論者の山片蟠桃(旧ソ連の科学アカデミーからマルクスの先駆者として高く評価されました)といった学者が登場してくるわけです。既存の学問体系の枠組を越えた大天才たち。

江戸時代の大坂は、まず間違いなく、日本最大の学問都市で、文教都市でした。この知の系譜はもっと深く省みる必要があると思っています。


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都市マラソン

2011 年 10 月 30 日 Comments off

車椅子のランナーでも、点滴しながら看護婦と一緒に走るランナーでも参加OK。時間制限はなく、例え3日間かかったとしても、最後のランナーがゴールするまで市民ボランティアスタッフが待ち続ける。交通規制が解除されても、車が自然と遅れているランナーをよけて、クラクションで頑張れ!と激励する。あの素晴らしきニューヨークシティマラソンの精神に倣うならば、ぼくは都市マラソンもなかなかいいものだと思っています。どうせやるなら、そこまで、徹底して、都市の器量、都市の品格を見せつける都市マラソンを開催して欲しい。大手の広告代理店などが入っての、単なる金儲けのイベントなら、ぼくは否です。

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人類の過去2000年間の経済成長率というのは、平均すると「年率実質0.2パーセント」

2011 年 10 月 17 日 Comments off

人類の過去2000年間の経済成長率というのは、平均すると「年率実質0.2パーセント」とか。とくに西暦1世紀から17世紀ごろまで(産業革命以前)は、ほとんど横ばい状態。

産業革命以前に生まれ、仮に50年の生涯とすると、生まれてから死ぬまでで、ようやく10パーセントほどの経済成長ということになります。これでは、ほとんど自分の暮らしの向上に対して無関心で、なんの変化も感じなかったでしょう。 それほど、ゆっくりと、じっくりと、人類は歩んできた。

要するに現代日本の年率1パーセントの経済成長でも人類の歴史の中では異常な事態だということです。中国のような年率10パーセントの経済成長などは、もはや天変地異、青天の霹靂のレベルです。過去の人類の営みを大きく逸脱している。そんな猛スピードで経済成長する社会は、それ相応のリスクが発生しています。例えばエネルギーの枯渇であったり、自然環境の破壊であったり、コミュニティの崩壊であったり、なにかしらの人類社会を脅かす弊害、危機が巻き起こっている。

いまのぼくらに必要なのは、市場規模を抑制する智恵と勇気です。極論をいえば、ぼくは全世界の市場の成長率は「年率0.2パーセント」でいいと思ってます。それが人類の長年のスタンダードなんですから。なにを急いでいるのか。焦っているのか。

ゆるやかに、たおやかに、しかし、健康的に。歩みは遅くても、健全な人類社会の成長度合いがあるはず。それを尊重したいと思ってます。


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「心中」(心中立)

2011 年 10 月 17 日 Comments off

「心中」(心中立)というのは、江戸時代(とくに元禄時代)の大阪が生んだ究極の都市文化(都市遊戯)です。江戸には心中はありませんでした。なぜ浪華の男女は心中して、江戸の男女は心中しなかったのか?

理由その1。遊女は遊郭に雇われている不自由な身分ですが、じつは江戸時代の「士」「農」「工」「商」の身分制度の中では、大阪の町民たちも「最下級の人間扱い」でした。つまり遊女と町民とは境遇が似ているんです。最下級の社会的存在の遊女と町民が、柵だらけの「憂世」から逃げ出すには、死ぬしかなかった。対して江戸は町民ではなく武士社会ですので、遊女と武士は遊郭で出会っても、決して心中の対象にはなりません。あまりにもお互いの身分制度が違いすぎるわけです。武士には遊女に対する憐憫や哀れみはあっても運命をともにするような共感、共鳴はありませんでした。(伊達藩主は高尾太夫を身請けしましたが、指一本ふれさせないと逆上して惨殺しました。これなんかは武士の遊女に対するスタンスを如実に表しています)

理由その2。元禄時代に入ると、大阪は商品経済、貨幣経済が急速に発展し、人間存在の価値すら「資本化」する考え方が浸透していきました。この世は金次第という「浮世」です。つまり遊女は「一晩いくら」の存在ですが、町民だって「給料なんぼ」という存在です。そして、遊女も町民もちょっと計算してみれば、自分の「生涯賃金」が判明し、自分という存在の「商品価値」がわかってしまうわけです。お金さえあれば遊郭から身請けできる。しかしそんなお金はどこにもありません。一生、馬車馬のように働いても自分の愛する女性を決して身請けできない。そういう冷酷・残酷な現実に直面します。そうなると「真実の恋愛」「自由意思」「人間らしい生き方」を手に入れるためには、もはや自分という全存在価値のすべて・・・つまり「死」でしか支払う(償う)術がなかったわけです。

こういう、どうしようも逃れようのない、ガチガチに固定化された身分制度と、それに反比例するような卓越した商業主義の発達(当時の大阪は日本国中の富の70パーセント以上を占めていました。また大阪は堂島米市場を設置して、これは世界最初の先物取引市場でした。大阪商人は物流経済のみならず、金融証券経済まで見事に扱っていたわけです)から、大阪に心中が流行ったわけです。「封建的な社会制度」(憂世、士農工商)と「近代的な経済観念」(浮世、元禄バブル、天下の台所)という、当時の大阪が置かれたアンバランスな社会的要因が深く作用した。江戸・元禄だからでこそ生まれた、非常に稀有な時代の徒花、大阪文化の結晶。それが心中です。

また江戸時代の大阪は30万都市ですが、そのうち武士はわずか約1500名、つまり99パーセントは町民でした。対して江戸は100万都市ですが、半分以上が武士だったといいます。この人口構造は大阪と江戸という都市文化の性格を決定しました。そして武士という優越な社会的身分を保持して、商業経済の概念にも疎かった江戸には、ついに心中文化は生まれませんでした。それを如実に表しているのが、元禄15年12月14日の江戸に起こった『忠臣蔵』と、そのほぼ4ヶ月後の元禄16年4月7日の大阪で起こった『曽根崎心中』です。江戸は「主君のために死ぬ」という美学を賛美しましたが、大阪は「男と女の色恋沙汰の果ての自殺」という人間ドラマに涙しました。これは江戸には「武士」(封建人)はいたが、「人間」(近代人)がいなかったということです。大阪には「武士」(封建人)はいなかったが、すでに「人間」(近代人)が生まれつつあった。

井原西鶴の『好色一代男』や近松門左衛門の『心中天の網島』といった至高の芸術作品の数々は、元禄大阪が抱え込んだ社会矛盾の中から産まれてきた、大阪人の魂の苦悩の告発であり、封建社会に抹殺された大阪の男と女に対するレクイエム(鎮魂歌)です。江戸の封建社会(建前社会)に対して「金とはなにか?人間とはなにか?男と女とはなにか?愛とはなにか?」という人間の本音を問いかけるものであり、そこには血を吐くような「大阪の反逆」(ヒューマニズム)が通奏低音のように流れています。それがゆえに、いまも激しく、ぼくの心を打ちます。


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福田定一

2011 年 10 月 16 日 Comments off

福田定一。

学徒出陣で陸軍に徴兵されて満州へ。訓練だと意味もなく平野を走らされ「こないなもん何の役にも立てへんわ!アホちゃうか!」と大阪弁で大声で喚きながら走ってた。同僚の東北の学徒は無言で黙々と走りながら「大阪の人間は得体が知れない」と戦々恐々としていた。

これが後の司馬遼太郎。


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『原色 日本島図鑑』

2011 年 9 月 8 日 Comments off



古本屋で発見。ひとめぼれ。即買い。『原色 日本島図鑑』。日本の有人島433を完全収録とか。また勢いでマニアックな本を買ってしまいました(笑)

大阪はいまは陸地化してますが、かつては「島」だらけでした。地名にその名残があります。柴島、都島、堂島、福島、加島、御幣島、出来島、姫島、酉島、歌島、四貫島、恩加島、岡島、江之子島、池島、桜島・・・。淀川と大和川が注ぎ込む大阪湾は、土砂が堆積して、ポコポコと島が生まれていった。これを俗に「難波八十島」といいます。

記紀神話の中でイザナギとイザナミが「国産み」をする伝説がありますが、ぼくは、これは難波津、難波八十島の光景から連想されたと確信しています。イザナギとイザナミの国産みの舞台は淡路島なんですが、淡路島から東の大阪湾を眺めていると、時が経つにつれて、自然に、次々に砂洲、島ができていった。古代人にとって、じつに神秘的で、不思議な光景だったんでしょう。「そうか。こうやって国土は生まれていくのか・・・」と古代人たちは思い、それが国産み伝説につながっていった。

ちなみに天皇家の幻の秘祭で「八十島祭」というものも、かつてありました。これは天皇が代替りをすると必ず催行されたものですが、勅使が都(奈良、京都)から難波津、難波八十島にやってきて、そこで新天皇の衣を振る・・・という神事です。

難波津、難波八十島の地とは、国土を次々と生み出す、神秘的な「国産み」の聖地です。その聖なる土地で衣を振ることで、国土造成の神々の魂を授かり、それを新天皇が纏うことで、初めて、正式に、日本の国土の王として迎え入れられたわけです。古代より行われていましたが、鎌倉政権の勃興で天皇家、貴族が没落すると、資金がないという理由で途絶えてしまいました。

大阪、難波津は、こういう神話、伝説の宝庫です。また瀬戸内の島文化圏の最東端にあるのが難波八十島で、大阪人とは、じつは「島の民」の後裔といえます。


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難波八十島

2011 年 9 月 7 日 Comments off

大阪はいまは陸地化してますが、かつては「島」だらけでした。地名にその名残があります。柴島、都島、堂島、福島、加島、御幣島、出来島、姫島、酉島、歌島、四貫島、恩加島、岡島、池島、桜島・・・。淀川と大和川が注ぎ込む大阪湾は、土砂が堆積して、ポコポコと島が生まれていった。これを俗に「難波八十島」といいます。

記紀神話の中でイザナギとイザナミが「国産み」をする伝説がありますが、これは難波津、難波八十島の光景そのものと確信しています。イザナギとイザナミの国産みの舞台は淡路島なんですが、淡路島から東の大阪湾を眺めていると、時が経つにつれて、次々に砂洲、島ができていった。古代人によって、じつに神秘的で、不思議な光景だったんでしょう。「そうか。こうやって国土は生まれいくのか・・・」と古代人たちは思い、それが国産み伝説につながっていった。

瀬戸内の島文化圏の最東端。それが難波八十島。大阪人とは「島の民」の後裔といってもいい。

ちなみに天皇家の幻の秘祭で「八十島祭」というものが、かつてありました。これは天皇が代替りをすると必ず催行されたものですが、勅使が都(奈良、京都)から難波津、難波八十島にやってきて、新天皇の衣を振る・・・という神事でした。

難波津、難波八十島の地とは、国土を次々と生み出す、神秘的な「国産み」の聖地です。その聖なる土地で衣を振ることで、国土造成の神々の魂を授かり、それを新天皇が纏うことで、初めて、正式に、日本の国土の王として迎え入れられたわけですな。古代より行われていましたが、鎌倉政権の勃興で天皇家、貴族たちが没落すると、資金がないという理由で途絶えてしまいました。

大阪、難波津は、そういう神話、伝説の土地柄です。


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詩的な、余りに詩的な!

2011 年 9 月 7 日 Comments off



※画像は花巻市の「羅須地人協会」です。

「詩は歴史性に対して垂直に立つ」とは稲垣足穂の名言ですが、それを見事に具現化した天才詩人が、ぼくは宮沢賢治だと思ってます。

また賢治は上昇する角度が半端ないです。鳥や飛行機のそれではない。ペンシルロケットのように、どこまでも、まっすぐに、垂直に、飛翔していく。

「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」
(宮沢賢治『農民芸術概論』)

詩的な、余りに詩的な!


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大背美流れ

2011 年 9 月 5 日 Comments off

「捕鯨のまち」として世界的に有名な太地町ですが「大背美流れ」の話はあまり知られてません。

明治11年(1879)はものすごい不漁の年で、このままでは年が越せない・・・と焦った鯨方が「背美の子連れは夢にも見るな」という古くからの伝承を無視して子連れの鯨を狙いました。すると鯨は凄まじい勢いで大暴れを始め、鯨方は真冬の朝4時から翌朝10時まで、なんと30時間にも及ぶ激闘を繰り広げ、ようやくしとめることができました。ところが精根尽き果てた鯨方は鯨を曳きながら帰港することができない。それどころかどんどんと船が沖に流されてしまう。生き残るためには仕方ないと泣く泣く鯨を切り離し、しかし、それでも漕ぎ出すことができず、船はすべて漂流。

結果として出港7日目に奇跡的に伊豆に流れ着いた8名を含め、生存者はわずか13名。餓死12名、行方不明89名を出すという未曾有の大惨事になりました。当時の太地鯨方は総勢184名で、突如100名以上の鯨方を失った太地は「死の村」と化し、海に向かって母や妻たちが狂ったように幾日も泣き叫んで走り回ったといいます。これが俗にいう「大背美流れ」で、このとき太地の古式捕鯨の伝統は潰えました。

いまの太地の鯨方は大背美流れの犠牲者の子孫たちです。一度、「死の村」と化し、そこから血の滲むような努力をして近代捕鯨のまちとして蘇った。こういう背景を知らないと、太地町の人たちの捕鯨にかける想いは理解できません。


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大阪は古代都市

2011 年 8 月 24 日 Comments off

大阪文化財研究所のNさんの話。
http://www.occpa.or.jp/

現在、日本全国の研究機関で保管されている埋蔵文化財の出土品は約630万箱(出土品量を60cm×40cm×15cmの箱で換算するとか)やそうですが、考古学も進化し続けてまして、いまや年間、約30万箱づつ増加しているとか。

面白いのが日本最大の出土遺物量が多いのが実は大阪で約87万箱。次が福岡で約49万箱。その次が千葉で33万箱。京都27万箱、兵庫23万箱・・・と続くそうです。大阪の出土品の量は、紛れもなく、この土地の古さと歴史と文化の厚みを物語ってます。出雲とか伊勢とか奈良とか出土品は意外にも少ないとか。

大阪は古代都市。しかし、そういうイメージで大阪を捉える人がほとんどいない。残念なことです。


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