ジャニー喜多川は1931年生まれだが、1933年、2歳の頃には家族と共に大阪に移住し、終戦まで育っている。太平洋戦争中は一時、和歌山に疎開したが、育ちとしては大阪人といってもいいだろう。
父の喜多川諦道(たいどう)は大分出身の高野山真言宗の僧侶だが、若き頃に渡米して布教活動に専念している。帰国後、大阪に住んだが大阪では夫婦ぜんざい屋やおかき屋をやっていたという。戦後は一時期、プロ野球チーム「ゴールドスター」(千葉ロッテマリーンズの前身)のマネージャーを務めたりもした。ジャニー喜多川は父の経歴のこともあり、少年野球チーム「ジャニーズ」を結成している。
高野山真言宗が海外布教に意欲的だった時代にエリート僧として米国で活躍したのが喜多川諦道であった。米国時代に結成した「ボーイスカウト第379隊」は当時、人種差別を許さない平等主義のボーイスカウトとしてアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトにも表敬されたという。
戦後、喜多川一家が住んでいたのが大阪市南区新川町二丁目。現在でいえば難波中三丁目で、なんばパークスと大阪体育館のあいだ。夫婦ぜんざい屋は九郎右衛門町にあった。現在でいえば西道頓堀界隈となる。
喜多川諦道は晩年まで大阪でぜんざい屋を営んでいたという。
東京七墓巡り復活プロジェクト2023。二日目。
最後は江戸川区瑞江の大雲寺・五世坂東彦五郎墓所へ。ここは役者寺といわれるほど歌舞伎役者の墓が多い。こちらでは住職にお会いできて、いろいろと寺院移転の顛末についてお話を聞くことができました。
関東大震災のさいは檀信徒のみなさんが大八車で家財道具を持って大雲寺(当時は墨田区業平にあった。スカイツリーの南側)に逃げてきたそうですが古老は大八車での移動を辞めさせ、荷物は手に持てるだけの量にしろと助言したとか。また荷物を背負うのも辞めさせた。もし火の粉が飛んできて荷物が燃え移っても後背にあるので様子が見えない。気がついたら背中が火だるまになるということらしい。
さらに「隅田川には絶対に行くな。亀戸の方角に逃げろ」とアドバイスしたそうで大雲寺の檀信徒のみなさんは亀戸の浄心寺に避難。そこから荒川を越えて葛飾の方に逃げて助かったとか。
この古老のアドバイスを聞いてわかるのは関東大震災以前にも江戸時代から何度も何度も江戸(東京)は地震や火災があり、その経験の蓄積で、ちゃんと避難ルートを把握していた人がいたということ。「隅田川には絶対に行くな」というのは達見で、ここが関東大震災最大の被害場所(炎の竜巻の現場)ですから大勢の檀信徒の命を守ることに繋がったと思われます。
また関東大震災の犠牲者は一端、某所に集められて土葬にし、その後、順次、掘り起こして火葬で荼毘に付されたとか。あまりにも犠牲者の数が多く御遺骨も凄まじい量となり、それらは浅草近辺の寺院に分配され、供養されたそうです。大雲寺にも御遺骨がきて、それは御本尊の阿弥陀如来さまの中に収められたとか。お骨仏ということですな。
また墨田区業平から江戸川区瑞江に移ってきたのは震災復興の都市計画の影響だそうで瑞江の浄土宗寺院の敷地を買い取ったとか。いまは業平にはほとんど檀信徒さんはいないという。みんな震災や東京大空襲などで住まいが移転していったようです。これは大雲寺に限らず、東京の寺院あるあるのようですが。
大変貴重なお話をお聞きできて東京七墓巡り二日目のハイライトでした。ありがとうございました。南無阿弥陀仏
東京七墓巡り復活プロジェクトは饗庭篁村の讀賣新聞附録『七墓巡り』の明治22年(1889)の記事から企画された。
幸田露伴によれば饗庭篁村と須藤南翠の2人こそは明治初期を代表する「二文星」「当時の小説壇の二巨星」であったという。「明治文学の二巨星」といえば森鷗外、夏目漱石の名が浮かぶし、通人は前世代である紅露時代(尾崎紅葉、幸田露伴)の名などを挙げるかも知れないが、それよりももうひと世代前の巨匠が饗庭篁村、須藤南翠ということになるらしい。
なかなか巷間からは忘れ去られた存在であるが篁村・南翠は俗に「根岸党」と呼ばれ、そして篁村はその根岸党のリーダーとして君臨し、岡倉天心や陸羯南(正岡子規の師匠)などと親交があったという。
また、これまたあまり知られていないが岡倉天心らが創刊した『國華』は現在でも刊行され、世界でも最も古い近代美術雑誌の一つであるが、これの名付け親が篁村だったりする。篁村は近代日本・明治日本の文学、美術、芸術の黎明期に活躍、貢献した作家であり、非常に重要な仕事を担った人物であるといえる。
また前述した幸田露伴(1867年生まれ)も根岸党のメンバーではあるが、篁村(1855年生まれ)よりも12歳ほど年下で、根岸党の中では若手の有望株といった存在であったらしい。
年齢としては12歳ほどの違いに過ぎないのだが、この12年の差は頗る大きい。なんせ江戸幕府が倒れ、明治新政府が起こった御一新(1867)のターニングポイントの時代であり、要するに0歳の露伴は「江戸」を知らないが、12歳の篁村は「江戸」を肌感覚として知っている。「江戸」が倒れ、崩壊し、「東京」が誕生した、その瞬間を篁村は体験している。多感な10代の若者に与えた影響は凄まじかろう。
篁村の七墓巡りは、その「江戸」の偉大なる文人墨客たちを巡る墓参りコースとなっている。根岸党の連中が上野・寛永寺の清水堂(ここは戊辰戦争・上野戦争でも唯一焼失を免れた寛永寺の塔頭寺院であった。まさしく生き残った江戸の象徴的建造物であったといえる)に集まり、七墓巡りを企画し、選ばれたのが山東京伝、四世鶴屋南北、坂東彦三郎、平賀源内、新井白石、葛飾北斎、十返舎一九、安藤(歌川)広重などであったが、これは東京七墓巡りというよりは、その目的や精神としては紛れもなく「江戸七墓巡り」であろう。
篁村や根岸党の高踏的な江戸趣味、江戸芸術への憧憬、失われつつあった江戸文化への挽歌、鎮魂、レクイエムのような意味合い、意味付けが非常に色濃い。今回、10年ぶりに、久しぶりに東京七墓巡りをやってみて、その思いを改めて強くした。
そもそも「七墓巡り」が企画され、讀賣新聞附録として記事が出た明治22年(1889)は大日本帝国憲法発布の年であったりする。戊辰戦争、御一新から明治革命は続くが、その最後の総仕上げが大日本帝国憲法の発布であった。近代日本がついに完成し、東京という近代都市が始動を始めていく、その瞬間に、ひっそりと篁村・根岸党の連中は「七墓巡り」で江戸の先人たちを回顧し、礼拝し、見送った。
「七墓巡り」の記事を発表した後、篁村は東京朝日新聞に移り、「竹の屋主人」のペンネームで劇評家、演劇評論家として活躍する。東京専門学校(早稲田)で近松門左衛門を講義したりもしたらしい。そして大正11年(1922)に67歳で亡くなった。その翌年に東京を襲ったのが関東大震災(1923)である。
関東大震災と、その後の「帝都復興」によって東京という近代都市は劇的な変化を遂げていく。篁村・根岸党が巡った「七墓」の寺院なども震災被害に遭い、東京郊外に移っていった。篁村・根岸党の江戸を憧憬した「江戸七墓巡り」もこの瞬間に瓦解し、地上から消滅したといえる。
篁村はその「震災と復興」を観なかった。彼の人生を思えば、それは幸いではなかったかと思う。
※画像は東京都慰霊堂。関東大震災、東京大空襲の死者のための慰霊施設。
今年の大阪七墓巡り復活プロジェクトでは大阪石材の安達 裕樹さんが作ってくれた「大阪七墓新聞」を発行して配布しました。
七墓の跡地に供養塚、顕彰碑を建てよう!というプロジェクトです。南濱墓地の石碑や葭原墓地跡のプレートには「大阪七墓」と刻まれていたりするのですが、梅田、蒲生、小橋、千日、飛田などには石碑などがなく、どこにも七墓の文字がありません。
あったらいいなぁと漠然と思ったりはしていましたが、大阪石材の安達さんから「石碑はうち、作りますから」と唆され(?)、では、とりあえずそんな計画があるという事を発表しようと思い至りました。
しかし大阪七墓巡り復活プロジェクトには全くお金がなく、場所の問題(碑の設置には土地の権利者の許可が必要です)もあり、なにから手をつけていいのやら…なんですが、とりあえずそんなことを考えているということです。
ひとまずは場所の許可でしょうねぇ。OKが出たらクラファンを実施する予定ですが、いつになることやら…。そしてお金が集まるのやら…。
国立新美術館の隣が青山霊園。大久保利通の墓をお参りする。
日本の近代化を成し遂げるために大久保利通が導入したのがドイツ式の官僚統制国家体制。いまだに日本は官僚統制国家で、「ザイム真理教」なんて言葉も、その現れでしょう。
昭和初期の帝國陸軍は大陸に侵出して戦線をどんどんと拡大していく。予算が足りない。御前会議で「海軍予算を陸軍に回せ」と言い出した。
特に大きな戦争のない帝國海軍は、このままでは組織を存続できない。その焦りが海軍の大戦争…真珠湾攻撃、太平洋戦争拡大へと繋がる。結果として帝國日本は中国とアメリカを同時に攻めるという二面作戦となる。どう考えても全く持って無理、無茶、無謀な戦争となった。
結局、帝國陸軍は帝國陸軍の、帝國海軍は帝國海軍の利益しか考えない。官僚主義は、自分たちが所属する組織の利益=「省益」しか考えない。「国益」を考えない。それが現代日本の宿痾となっている。その宿痾を宿したのが大久保利通。
国益のために省庁、官僚をコントロールしないといけないのが政治家の役割。ところが政治家は官僚の言いなり。野党政治家の質問は前もって官僚に提出され、与党政治家は官僚の用意した答弁を読むだけ。一体、何をしているのかサッパリわからない。
そういう官僚の言いなりの政治家を投票して(半分以上、投票してないんですが)選んでいるのが我々、国民ですからな。政治家はまた官僚のいいなりやし、さらに世襲やったりする。
官僚にベッタリの世襲政治家と、省益しか考えない官僚統制と、それに無関心な国民の三重苦。あと官僚、政治家をご接待して公金を中抜きする寄生企業と、ジェンダーに無理解のマチズモ社会と、あわせて五重苦かな。現代日本社会の宿痾は。
福島県白河市。お試し住宅「まちなかベース」にて。関谷農園さん、有賀酒造さんもご参加頂いて交流会。
お試し住宅というのは白河移住を考えている方のために、文字通り、お試しで、ちょっと1週間ほど白河に滞在してみませんか?というもの。なんと1週間あたり7000円という破格のお値段で白河のまちなかに宿泊することができるという。
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/page008274.html
東京、関東県ではコロナ禍の影響でリモートワークが増加しました。すべてオンラインの完全フルリモートの会社や労働形態も珍しくない。もはやそうなると、わざわざ家賃の高い東京に住んでいる必要がない。
白河は北関東・栃木県の那須の隣で、東北の玄関口(白河の関)だが、東京・上野駅から東北新幹線を使えば新白河駅まで約90分ほどで到着する。大阪から白河までは遠いが、意外と東京・関東圏から白河は近い。
いままでは地方に移住となると、ひとまず仕事を用意するということが絶対条件、必須条件だった。しかしリモートワークの時代には仕事は東京、大都市圏で賄う。地方移住の決め手は仕事の要件、条件ではなく、もっと生活者のインフラになってくる。
快適で安価な不動産物件があるか?新鮮な野菜や肉、魚が買えるスーパーマーケットがあるか?保育・子育て・教育の公的機関の充実、支援制度はどうか?週末に家族で楽しめる、遊べるレジャー、リラクゼーションの施設や空間があるか?いざという時のための病院、医療機関のインフラや防災体制は大丈夫か?そういうことが決め手になってくる。
しかし、なによりも都会人には地方の風土や人との関わり方の距離感が大事になってくると思われる。あんまり他者に対して遠慮がなく、馴れ馴れしく踏み込んでくるのも苦手だろうし、余所者に対して排外的で冷淡なのも困る。地方ではあるが、じつは都会的なものへのセンス、アンテナがあるというのが非常に重要な移住者の要素になってくる。
そして、そういうセンスやアンテナが結構ちゃんと備わっていてるのが白河ではないかと僕は睨んでいる。白河は歴史的には奥州街道の宿場町で、東北文化圏と関東文化圏の結節点のようなところにある。
また宿場町というのは旅人を常に受け連れて発展してきた。他者に開かれている。おもてなしができると同時に、じつはドライでもある。旅人や他者にそれほど過度に期待などしない。このおもてなしとドライさという匙加減が、じつは難しい。
これが単なる農村では、そういう他者との交流の文化的な背景が育たない。農村部はやはり(宿場町、商業都市などに比べれば)閉鎖的な集落で、人と人との交流は、人間関係が近すぎて、コミュニティが濃厚すぎて、都会人は、その距離感に戸惑う。
これは余談だが、いま日本全国各地で地域おこし協力隊などがトラブル(?)になったりしているが、これは結局は都会人と地方人の「他者との関わり方」「人との距離感」の相違によるコミュニケーション不全が問題の一因だろうと思う。
白河は、おもてなしをちゃんとしてくれる。でも、ちゃんと「ほったらかし」もしてくれるんですw
それは例えばコミュニティカフェ・エマノンにいけばわかります。ここは特に高校生たちが、自由に行き来してますが、エマノンのスタッフと高校生たちは、微妙な人間関係の距離感で成り立っている。近すぎず。遠すぎず。あつくもなく、つめたくもなく。
つまり、おもてなしをするし、ほったらかしもする。これが良い。これがないと、じつは僕みたいなシティボーイ(ま、僕は単なるコミュ障かもしれないがw)は困るんです。
ひとりになりたい時もある。そのくせ、さみしい時には、適度に相手してくれる。それができるか?できないか?じつは都会人の移住者を増やしたい時は、こういう塩梅が非常に重要なファクターとなる。
生活の条件とかインフラとか、そういったハードウェアは、ある程度は資本などで用意できるでしょう。でも「人との距離感」といったヒューマンウェアは、そんなのは一朝一夕には育たない。用意できない。簡単に作り上げることはできない。
こういうヒューマンウェアは教育でも難しい。風土や街場。歴史。文化。言葉。そういうものに培われてきた教養というものです。
おもてなしとほったらかしのええ塩梅。それが白河にはある。東京、関東圏、都市圏の移住者を増やしていく上では、これは非常に重要なアドバンテージやないかと僕は思ってます。
平野郷まち歩きにて。夏祭のだんじり。
平野郷は面白い。寺内町ではあるが、大阪にある多くの寺内町は浄土真宗の寺院がコミュニティの要として機能し、中心的な役割を果たしている。それに対して平野郷コミュニティの最大の要は大念仏寺で、これは浄土真宗ではなくて融通念仏宗の寺院だったりする。
融通念仏宗開祖の良忍さんは同じく念仏系の法然さん、親鸞さんの先輩的な存在で、その偈文は「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」という。この「一人一切人 一切人一人」は「わたしの念仏はみんなのための念仏で、みんなの念仏は、わたしひとりのための念仏である」というような意味だと融通念仏宗のお坊さんから教えてもらった。なんとなくラグビーの「One for all All for one」の合言葉にちょっと似ている。
また平野郷は坂上田村麻呂の息子・広野麻呂の所領地で開拓されたという。じつはこの坂上家の子孫がいまだに平野郷にいて「坂上七名家」として続いている。平野郷の氏神様の杭全神社は坂上一族が建立した神社で境内には坂上田村麻呂を崇め奉る田村社がちゃんとある。
ちなみに、この杭全神社には日本唯一の連歌所なんかもあり、いまも毎月、連歌の会が催されているという。所属メンバーはやはり坂上七名家のみなさんが中心的らしく、坂上一族という「血の連帯」と連歌という「文化芸術の連帯」によって繋がりを深め、平野郷を守護している。
融通念仏宗総本山の大念仏寺が平野郷の町衆の「横軸」のネットワークとするならば、坂上一族が建立した杭全神社こそが先祖代々から脈々と続く坂上七名家という「縦軸」のネットワークを形成しているといえよう。
この「横軸」と「縦軸」の微妙、絶妙なバランスが平野郷という大阪でも、いや、日本でも有数の自治都市を形作っている。
「まちづくりとは何か?」という問いは平野郷を探ることで答えの糸口が見つかる気がしてます。深い都市です。平野郷。
六月晦日は夏越の祓えであるが、昔は住吉大社の夏祭りもその時期に行われていた。現在は7月末から8月1日。要するに旧暦から新暦に移行して1ヶ月ズレた。
住吉さんの祭礼行列、神輿などが住吉から堺・宿院までやってくるが、堺の大浜では住吉さんの御祭礼だからということで堺はもちろんのこと、大阪湾、淡路島、小豆島、明石、瀬戸内、西日本各地から漁民たちがやってきて住吉大神への供物として新鮮な魚などを捧げたらしい。
しかし、そんなに大勢の漁民たちがやってきて魚をもってきても余りに大量なので捌ききれない。そこで供物の魚類はその後、「おさがり」として堺の町衆に売られることになった。新鮮な魚が安く手に入るということで「堺大魚夜市」は有名になり、堺の名物行事となった。
この堺大魚夜市が、いつから始まったのか?はよくわからないが伝承としては鎌倉時代ぐらいから始まったという。800年以上続く市場、祭礼ということになるが、まぁ、しかし、この辺のことは本当かどうかはよくわからない。なんせ堺の人(僕も含めて)はすぐ話を盛るというか大袈裟だから…w
堺大魚夜市は、だから「お祓い市」とも呼ばれた。夏越の祓えにあわせてやるから、お祓いの市というわけで、また魚市ではタコがよく商われたので「タコ市」とも呼ばれたとか。タコは「お祓いタコ」と呼ばれて縁起物でもあった。
面白いのが「夜市」であることで、これは夏の暑い盛りにやるものだから、自然と日が暮れた夜にやるほうが魚も傷まなくていいということだろう。また夜通し市をやるものだから堺の町衆の人たちは魚市の威勢のいい掛け声を聞きながら浜辺でゴロゴロ、朝まで寝たりしてたらしい。あんまりにもみんなが浜辺で寝ているものだから「堺の外寝」といって、それがまた名物でもあった。
もちろん若い男女が夜中にでてきてゴロゴロしてるわけで、だから浜辺のあちらこちらで風紀が乱れまくったりしたw いや、むしろ、それがメインかつ目的で、みんな堺大魚夜市に集まってきたといっても過言ではない。妓楼の女性も多かったようで商売繁盛すぎて過労で倒れたなんて話もある。
いまの世の中では到底ありえない公序良俗に反する堺の名物風俗行事であったが、こういうのはやはり戦時中に統制された。太平洋戦争中は堺大魚夜市は禁止されて、魚類の商いも国がコントロールする。公定価格が決められ、商い量も決められ、しかし堺の漁民たちは闇の魚商売をやって、それで当局に捕まったりしている。一般のマーケットには出回らないが一部の高級料亭などに魚を卸していたらしい。国のいうことなんか聞かない。自治都市・堺、万歳!w
この堺大魚夜市は戦後も続くが1960年代ぐらいから国の政策方針もあって堺の浜辺は工業地帯と化していく。『万葉集』にも歌われた白砂青松の美しい堺の浜辺が、どんどんとコンクリートの護岸に固められ、消滅していった。無念。
浜辺消滅に伴い、堺大魚夜市も、その存在意義が失われていく。海も見えない大浜公園の中で続けられたがアイデンティティ・ロストしてしまったので、どうにも盛り上がらない。結果として堺大魚夜市は1974年に中止となって、代わりに始まったのが「堺まつり(南蛮行列)」だったりする。この堺まつりも、いろいろとネタ話はあるんですが、まぁ、そのいろいろは割愛しましてw
結局、堺大魚夜市は一時期は中止だったんですが、いや、しかし堺の古くからの名物行事であるし…という声も多く出てきて、その後、また復活して現在も大浜公園で続けられております。
僕も若い頃は、ちょこちょこ遊びにいってました。ちょっと背伸びした中学生、高校生が浴衣きてやってきて楽しくやっております。時代の変遷と共に中身が変容してきておりますが、こういう祭礼があるのは珍しいし大切なことではないかと思います。
■堺大魚夜市
https://yoich.com/index.html
大阪まち歩き大学!なんばパークス9階。南海メモリアルギャラリー。
昔はなかったが、野村克也監督ことノムさんのコーナーができた。ノムさんが亡くなって、ご遺族が南海と和解するまで南海メモリアルギャラリーのどこにもノムさんの名前はなかった。ほんまに見事に名前、痕跡が不自然なまでに消されていて、あれはあれで見ものでしたが。噂によると南海はノムさんの名前をちゃんと刻もうとしたが、ノムさん側(夫人?)が許さなかったという。
僕は南海ホークスファンで、こどもの頃に被っていたギャップも南海のもの。地元、堺の子は南海ファン、近鉄ファンが多かった。阪急、阪神なんてのはキタの球団です。ぼくは、堺の子は、ミナミの球団を愛していた。
こどものころの刷り込みというのは凄い。南海ホークスはなくなり、しかし、いまだに、だからといって阪神タイガースファンにはなれない。南海ファンのまま。阪神、嫌いではないが、別に巨人も嫌いではないw ファンというのは南海ホークスだけ。
1988年に南海ホークスはダイエーホークスとなった。そこで我が野球ファン人生(?)も潰えたことになる。当時の僕は10歳。あまりに早い野球ファン人生(?)の幕引きであった。
僕はノムさんは南海の人というイメージがあり、だから好きだった。阪神の監督をやったときだけ、阪神を応援した。星野監督時代はとくに応援しなかったw
ノムさんは著書がこれまた抜群に面白い。「負けに不思議の負けなし」など名言すぎる。テスト生から三冠王。こんな野球人はいない。
大阪まち歩き大学!本日もまち歩き。岸里から玉出まで。要するに旧勝間村。マニアックなまち歩きだが、おもろい。深い。
玉出には会津屋の本店がある。創業は、戦前は今里新地にあった。当初はラヂヲ焼の屋台だったとか。ラヂヲ焼はタコではなく牛のスジ肉を入れていた。ラヂヲがハイカラな時代。ラヂヲは時代の最先端の流行アイテムだった。その名前をとった。いまでいうなれば「スマホ焼」となるか。
タコ焼きは小麦粉で作る。小麦粉はメリケン粉ともいった。つまりアメリケン(アメリカ)の粉。お好み焼きなども、一銭洋食というが、西洋の醤油=洋醤(ソース)も使う。たこ焼きもお好み焼きも、じつは「西洋料理」「洋食」で、だから「ハイカラ」な食べ物だった。ハイカラな洋食なので、ハイカラなラヂヲ焼きの名前がつけられた。
今里の会津屋は、ある日、明石の男がやってきてラヂヲ焼きを食べ「なんや?大阪は牛かいな?明石はタコつことるで」と何気なくつぶやいたことで、たこ焼き発祥の店となった。
明石の男は謎で、名前などはわからない。場所が面白い。今里新地だから、明石の男もきたのだろう。今里新地は、昭和初期には松島、飛田を凌駕する最新の遊廓として繁栄を誇っていた。エロは強い。わざわざ明石の男が今里まで来る。
会津屋というのも意味深で。創業者は会津がルーツ。近代の会津は複雑な歴史を有している。どんな由縁があって大阪まできたのか。興味がそそられる。
会津の男と、明石の男が、大阪名物を作った。文化のダイナミズムというのはそういうもの。ミクスチャーから生まれる。ごった煮ですわ。