十三まち歩き!降水確率90%でしたが、雨にあわず。我ながら晴れ男ですなあ。
十三名物といえば喜八洲のみたらしだんご。このみたらしは「コゲ」があるのが特徴で、買うときは「コゲの量」を聞かれる。希望があれば「コゲを増やしてくれ」というような要望が成立する。なかなか他のみたらしだんごではそんな注文は聞かれない。
十三は中津川沿いで渡しがあり、その渡しを待つ間に茶店ができて、そこの名物が「焼餅」であった。喜八洲のみたらしだんごは、その十三焼餅の伝統を継承するもので、実は「焼餅+みたらし」で構成されている。要するに「みたらし焼餅」というのか正解で、単なる団子ではない。
焼餅はコゲがあり、苦い。この苦味を中和するものとして、甘いみたらしが掛けられた。甘いものと、苦いもののコラボレーション。「あまにが」というのが、喜八洲の発明であり、妙味であった。
大阪人というのは、ただ甘いだけのものや、ただ辛いだけのものは、愛さない。甘さと辛さの絶妙のブランド、ハーモニー、調和を愛する。「あまから(甘辛)」というのが大阪人好みで、大阪グルメはココを踏まえないと真髄がわからない。
有名な夫婦善哉(ぜんざい)も、ぜんざいのお椀が二つあることに注目されるが、じつは、そのあいだにある「塩昆布」こそが、夫婦善哉の肝であり、核といえる。
最初にぜんざいのお椀をひとつ食べる。「あまさ」を楽しむ。そのあとに、真ん中の塩昆布を食べて、その「しょっぱさ」を堪能する。さらにまた二つ目のぜんざいを食べることで、さらに「あまさ」を楽しもうという仕掛けになっている。「甘→塩→甘」というジェットコースターのような味の変化球が、大阪人にウケた。
大阪グルメは深い。人生は「あまから」の連続であることを知ってますからな。大阪人は。グルメまで屈折してますねんw
阪神淡路大震災から29年。
神戸の下町エリアは古い家屋が多く震災被害も甚大で建物の全壊、倒壊が相次いだ。その後、国、行政、大手ゼネコンの方針、介入で「復興」という名のもとに道路や街区の整理が進められ、まちが一新されてしまう。下町の長屋や曲がりくねった迷路みたいな裏路地などはなくなり、拡張拡大された車道や大型マンション、高層マンションが林立して、かつての下町の景色、風情、匂い、情緒、雰囲気が半減、消滅してしまった。
「復興」とは「元通りに戻す」という意味ではなくて大抵は行政、官僚、ゼネコンなどが統計やらデータやらを捏ねくり回して全く新しいまちを作り上げることを意味する。清く正しく美しくと都市機能はゾーニングされ、無味乾燥でクリアランスなまちが出来上がる。経済とか効率的といった概念や指標でまちを作り上げるので、そこに人間はいない。人生の複雑怪奇さやカオスモスや悲喜交交はない。赤提灯がない。闇がない。
実は僕の母方の叔父が経営する靴工場が長田エリアにあり、それは地震後に起こった火災に巻き込まれて全焼してしまった。震災以前と以後でまちの様相は全くといっていいほど変わってしまって、叔父が「前どんなんやったんか全く思い出せん」と親戚一同に語るのを聞いたことがある。
叔父のこの「思い出せない」という驚嘆の通り、震災とその後の復興(「復興災害」なんて言葉もあるが)によって、かつての自分のまちがどんなまちであったのか?よくわからない…という現象がそこかしこに起こった。これは「ふるさとの喪失」であり、自分という存在の根幹に関わるアイデンティティ・クライシスでもあった。
そして、この危機に対して、地域住民たちのあいだから自然発生的に行われたのが「まち歩き」であり「コミュニティ・ツーリズム」であった。
自分のまちが震災以前、どんなまちであったのか?いまは駅前にでっかいマンションが立っているが、あそこには震災以前は細い路地があった。あの路地にはどんな長屋があり、どんな人がいたのか?そういえば小さな祠があったな。あれは何地蔵であったか?古い共同井戸もあったぞ。あそこで昔、祖母がこんな歌を教えてくれたわ…といったようなことを聞き書きし、思い出して、共有して、地図やマップに書き起こして、現場を歩こう、巡ろうといったアクションが起こった。
神戸の人たちが、神戸のまちを歩き、まちの記録や記憶を再確認したり、再発見したり、再共有したりしていった。そうすることで、自分たちの「ふるさと」を取り戻そうとした。まち歩きによって、コミュニティの再生を図ったともいえる。
僕は長くコミュニティ・ツーリズムのプロデューサーとして活動をしているが、その始原には、やはり阪神淡路大震災があるということは常に意識せざるを得ない。いま、いろんなご縁で、いわき時空散走のプロジェクトに携わっているが、阪神淡路大震災の現場・神戸で育まれたコミュニティ・ツーリズムの方法論、知恵が、東日本大震災の現場・いわきに伝わっているということではないか?と思ったりもする。僕はその仲立ち、バトンタッチをしているにすぎない。
震災はいろんなものを生み出している。悲しみや痛みや怒りもあるが、優しい知恵も生み出されている。人間は、意外と、しなやかです。
大阪名物のお好み焼き。いまは「店のスタッフが作ってお客さんに出す」というスタイルが主流だが、昔は「自分でお好み焼きを作る」というスタイルがスタンダードだった。
若い男女がデートでお好み焼き屋に行き、そこで、一緒にお好み焼きを作る。戦後、お好み焼きが若者たちのあいだで人気となり、流行し、大阪名物となるには、このスタイルが大事だったらしい。というのも、これ、じつは「お見合い」的な要素があったとか。相手がどういう風にお好み焼きを作るか?ということから、相手の性格やセンス、料理の腕前や生活ぶりを推測したそうです。
お好み焼きは実は難しい。焼くのはそれほど難しくないがコテでお好み焼きを「裏返す」という、なかなか他の料理にはない、料理の素人には上級すぎるテクが必須となる。大抵の人はこの「裏返し」で失敗してしまう。
若い男女がデートで良い雰囲気になり、「もしかしたら、この人と一生の伴侶になるかも…?」と淡い期待と予感をしていて、その時に、このお好み焼きの「裏返し」は緊張する。もはや人生を掛けた「裏返し」である。手が震える。目が眩む。変な汗が出てくる。そんな精神状態では、お好み焼き上級者でも「裏返し」は成功しえない。普段の実力の半分も発揮できない。覚悟して「キエエ!」と奇声を発しながら裏返すが、非情にもお好み焼きは折れ曲がり、グチャグチャになり、上に載せていた具のエビがあらぬ方向に飛んでいき、目も当てられぬ悲惨な状況に陥る。
とんでもない失態。何度も一人で練習し、自信をつけた百戦錬磨のお好み焼きのプロでも、本番(?)となると、このような致命的なミスを犯してしまう。お好み焼きの神が微笑まない。
しかし真に大事なのは、この有り得ない悲嘆を前にして、二人がどのように振る舞うか?である。人生は長い。良い時もあれば、悪い時もある。いや、むしろ悪い時の方が多い。失敗や苦労や挫折の連続が人生の常ではないか。伴侶となる人には、自分のいいところばかりを見せていてはいけない。むしろ、自分のあかんところ、ダメなところ、情けないところを見て、それを許せるかどうか?受け入れられるかどうか?仕方ないと諦めて共に歩もうとしてくれるかどうか?というところが肝要となる。
お好み焼きの「裏返し」と、その失敗のプロセスこそが、じつは若い男女を試そうとするお好み焼きの神から与えられた試練である。裏返しの失敗を決して責めず、「グチャグチャのお好み焼きが好きやねん」といい、飛んでいったエビを「元気なエビやなあ。まだ生きとるわ」とウソをいって食べて相手を慰める。
そうやってお好み焼きの裏返しの失敗、苦労、挫折を乗り越える「伴侶力」があるものだけが、お好み焼きデートを制することができる。たかがお好み焼き。されどお好み焼き。お好み焼きの中にこそ、人生の機微が、懊悩が、絶妙があります。
要するに、お好み焼きは客同士が焼いてこそ、ドラマが生まれるということです。共同制作の体験こそコミュニケーションの華。話し合い、対話、雑談の空間となり、人生の場となる。スタッフが作って提供されるお好み焼きなど、お好み焼き屋の存在意義がわかってない。下の下であります。自分で焼くより、店の人が焼いてくれる方が圧倒的に美味いけど(え)
※以下は蛇足ですが、まわしよみ新聞はお好み焼きと似てまして。お好みの具の変わりに、お好みの記事(生地ならぬ!)を選び、みんなで共同制作で、ワイワイいいながら、一枚のお好み新聞を作る。大阪的(お好み焼き的)な場作りのエッセンスがまわしよみ新聞の中にあります。
【みんなで広報会議】PRリンクの神崎さんからのご依頼で「みんなで広報会議」にてゲストスピーカーを務め、まわしよみ新聞やコミュニティ・ツーリズムのこと(いわき時空散走、沙界怪談実記まち歩き)や歌垣風呂などについてご紹介しました。PRリンクのみなさん、ありがとうございました!( ´ ▽ ` )
僕の一連のコモンズ・デザイン・プロジェクトは売上とか利益といったビジネス的な指標を度外視してやってます。マーケティングなんかも全く考えていない。ただ思いつくままに「どうも誰もそんなんやってる人おらんみたいやし、ちょっくらやってみるか・・・」ぐらいの頗る貧弱な動機とエビデンス・ゼロではじめてますw
しかし、そうやって、ある種の僕の「思いつき」から、大阪七墓巡り復活プロジェクトやら直観讀みブックマーカーやら当事者研究スゴロクやら死生観光トランプやらが出来上がっていった。誰か先にやってる人がいたら僕は当然、やってません。誰もやってないから、やる。
また誰が使うか?誰が喜ぶか?誰のニーズになるのか?すらもわからないから、だからオープンフリー、オープンソースを標榜してます。「いつでも、どこでも、だれでも自由に、勝手に、好きなように使ってええでっせ」という「コモンズ・デザイン」(共有財産)なのは、その辺、僕が世間のみなさんに考えてもらおうとプロジェクトを預けているからですw
要するに僕の一連のコモンズ・デザインは「他力的なプロジェクト」ということでもあります。利益とかマーケティングとか広報というのは、もう世間さまにお任せしよう。僕のコモンズ・デザインを「面白い!」と思ってやってくれる人が出てきたら、その人が利益やマーケティングや広報を考えてくれるだろうと。だから無料開放しているわけです。みんなの社会財、公共財、共有財産になってほしいから、私有を放棄している。
僕のコモンズ・デザインをカスタマイズ自由、改変自由にしているのも、いろんな現場に合わせて、アレンジしてくださいという意味で、そして実際にいろんな人が、いろんな現場で、創意工夫してやってくれています。いちばんそういう事例が多いのがまわしよみ新聞ですが、メディア、教育、まちづくり、アート、ビジネス、介護福祉と多種多様な業界で使われている。バケモンみたいなプロジェクトですな、これは。自分でも唖然とします。
「みんなで広報会議」では、僕の生い立ちからプロジェクトについてお話しして、それに対する質問、ディスカッションなどもありました。最後に記念撮影といわれて「むつさんの好きなポーズでお願いします!」といわれて、思わずムーポーズをしてしまいました。どんな広報会議やねんww
まわしよみ新聞は実は「三部作」で、まわしよみ新聞の他に「まわしよみ教科書」「まわしよみムー」とあります。まわしよみムーは爆笑に次ぐ爆笑ですが、来る人来る人がアレな人ばかりで、話題がこれまたアレすぎて、いやあ、最高でしたww また機会があればやりたいけど、知恵熱が出るくらいココロとカラダがやられるので、誰かやってくださいw
『ドリー・ベルを覚えているかい?』。エミール・クストリッツァ監督の幻のデビュー作。40年前の作品らしいが、日本では初公開ということで、これも興味深くて観に行きました。
クストリッツァは、このデビュー作でいきなりヴェネチア国際映画祭新人賞を受賞している。天才すぎるやろ…。まあ、その前にテレビ業界にいてテレビ作品の監督、演出などをしていたようですが。
クストリッツァはユーゴスラビア(現在のボスニア・ヘルチェゴビア)の首都サラエヴォ出身(かなりええとこのボンで特権階級出身らしい)だが、ユーゴスラビアは複雑怪奇すぎる歴史を持つ。なんせキャッチコピー(?)が「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」であった。
第二次世界大戦のあとユーゴスラビアはソ連の後押し(のちにソ連からも距離を置くが)を受けて社会主義連邦共和国となる。第二次世界大戦の反ファシストの英雄チトー元帥(最高指導者、終身大統領、首相)による独裁体制が長く続いたが、1980年にチトーが死ぬと民族主義が台頭し、国家体制は混沌、混迷を極めていく。
十日間戦争、スロベニア独立戦争、クロアチア独立戦争、ボスニア紛争、コソボ紛争、プレシェヴォ渓谷危機、マネドニア紛争と1991年から2001年までユーゴスラビア紛争の時代に突入した。民族浄化、大量虐殺、ジェノサイドが相次ぎ、NATOの空爆まであって、もう何が何やらの阿鼻叫喚地獄。僕が物心ついた時からユーゴスラビアは内戦しかしていない恐ろしい国というイメージであった。
結局、ユーゴスラビアは6つの構成共和国スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアがそれぞれ独立して地上から消滅してしまった。そしていまだに現在進行形で各国の紛争、小競り合いは続いている。
クストリッツァは自分の故郷は「ユーゴスラビア」(ボスニア・ヘルチェゴビアではなく)と明言する人間であるし、ロシア・ウクライナ戦争でもロシア支持、プーチン支持を表明している。そのことでクストリッツァ・ファンの中には「幻滅した」というようなことを宣う方もいるようだがクストリッツァの半生を鑑みれば非情かつ峻烈なる政治的リアリズムに立脚した発言だともいえる。極東アジアの島国の日本と世界の火薬庫・バルカン半島の旧ユーゴスラビアでは地政学的状況があまりにも違いすぎる。迂闊なことはいえない。
映画は1981年の作品。チトー体制が終了(1980)し、ユーゴスラビアは西側の自由市場経済を取り入れようと模索していた時代。映画でも共産主義思想のオッサンが「これからは各村にひとつのロックバンドを」と熱弁して、それが村人たちに支持され、主人公の少年ディーノたちがバンドの練習を始めるという頓珍漢ぶりに笑ってしまう。ユーゴスラビアが変わりつつあろうとした時代状況がなんとなく窺える。歴史的には、この流れの果てに1984年のサラエヴォ冬季オリンピック(東側諸国、社会主義国家のオリンピック開催はモスクワに次いで二回目の偉業であった)があった。
なにはともあれ、民族浄化の暗黒時代(傑作『アンダーグラウンド』はまさしくその真っ最中に作られた映画であるが)の前に、こんな青春物語の映画が描かれていたのだなあとクストリッツァ(ユーゴスラビア人)の激動の人生を俯瞰し、感慨深しいものがあった。名作。みるべし!
ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。主演の役所広司氏は円熟の名演技でカンヌ男優賞を受賞した。
東京の公衆トイレのクリーニングスタッフの日常であるが、仕事に対する姿勢が禅僧的というか究道的というか精神修養的というか、こんなスタッフ、現実世界にほんまにおるんやろか?と思うほどストイックで、まずそこに強烈な違和感を覚える。
また休みの日には古本屋に通って幸田文やウィリアム・フォークナーなどを読み、さらにアニマルズやキンクス、オーティス・レディング、ルー・リードなどロック黄金時代の名盤のカセットテープ(!?)を多数、保持していたりする。
随分と読書人、教養人、趣味人であるが基本、社交的な人間ではなく、また生家(資本家の父親との関係性?)と何かしらの確執があるようだが、その辺の描写は匂わせ程度なので、いまいち詳細はよくわからない。
そもそもなんでトイレのクリーニングスタッフを映画の主人公に?と疑問に思って調べてみたら、これは東京オリパラのためのプロモーション・フィルムなんですな。
僕は全く知らなかったが東京オリパラのさいに「THE TOKYO TOILET(ザ トウキョウ トイレット)」プロジェクトなるものがあり、渋谷区にある17の公衆トイレを16人の建築家やクリエイターの手でリデザインしたという。映画はこのトイレを紹介したいということからスタートしたもので、それでトイレのクリーニングスタッフが映画の主人公に設定されたらしい。
映画を製作した柳井康治氏はユニクロの柳井正会長の次男。また映画の脚本家でプロデューサーでもある高崎卓馬氏は電通の人間でオリ・パラ組織委員会で企画財務を担当し、エンブレム盗用事件の関連人物でもある。
外国人が日本に来るとトイレのウォシュレット機能の性能、技術に驚くらしいが、このやたらとデザイン性の高い公衆トイレは、そういう外国人にウケる日本のトイレ事情の最先端を「お・も・て・な・し」文化として見せつける!というような意図があったらしい。
東京オリパラは招待の段階から賄賂工作疑惑があり、運営中には談合やら癒着やらが横行してスポンサー企業、大手広告代理店(電通含む)、大手関連企業が「五輪汚職事件」として起訴されたり、有罪判決を食らっている。「復興五輪」とか「アスリート・ファースト」といった美辞麗句を並べつつ、実態は資本家の、資本家による、資本家のための公金横領、中抜き、カネまみれの実に情けない五輪であった。
こういう背景を鑑みると、この映画で描かれるトイレのクリーニングスタッフのリアルでない「清貧的」な仕事ぶりや生き方が、いかにも虚飾的で、嘘偽りで、欺瞞に満ちたものか?と思わざるを得ない。誰か実在の人物のモデルがいるわけでもない。お金持ちの人たちが考える想像上の、理想のトイレ・クリーニングスタッフが描かれている。この非人間的で、記号的で、血肉の通わない、頭でっかちなフィクション性が、ある意味で東京的といえるのかもしれない。
しかし個人的に興味深かったのは、主人公の生活エリアがどうも墨田区、台東区エリアらしいところ。主人公の行きつけの風呂屋として電気湯が登場したり(この電気湯では顔半分、口まで湯船につけたりして、ちょっとダメ人間らしさを醸し出している)、隅田川・桜橋、浅草の地下商店街の居酒屋「福ちゃん」などが何度も登場してくる。
渋谷区のデザイン性の高い虚構的な公衆トイレに対して、主人公が住む墨田区・台東区の下町の光景や生活感は実にリアルで、安心を覚えたりもする。役所広司氏の演技が生きているのは、これらの墨田区・台東区のシーンで、自分の見知った光景、風景に出くわして、ちょっと嬉しくなった。去年、東京七墓巡り復活プロジェクトで歩いたエリアであったし。
墨田区・台東区エリアなので当然、スカイツリーも其処彼処で登場するが正直、スカイツリーは食傷気味ですな。高すぎて、見えすぎるというのは、なんとも心象にはなりません。タワーというのは小さい方が愛嬌があって品格があります。スカイツリーより東京タワー、東京タワーより船堀タワーの方が断然、良いw 心象になります。「ふるさと」になります。
2023年をスマホにあった画像で振り返る。あっちこっちで仕事したなあ。歩いて、巡って、語って、チャリに乗って、笑った一年。
みなさん、本当にありがとうございました。感謝しかありません。今年もそうでしたが、来年も、特に夢とか目標とか野心とか野望なんてのはありません。ダイエットぐらいかなw もうちょい痩せないかん。これは毎年いうてるw
淡々と生きている。ただただ、仕事して、少しでも、誰かのお役に立って、死にたい。それだけです。ささやかな願い。
よいお年を。
【中外日報】大阪七墓巡り復活プロジェクトについて取材インタビューされ、ネットでも記事が配信されました!ありがとうございます!m(_ _)m
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[ほっとインタビュー]無縁墓巡りを主宰する 陸奥賢さん
https://www.chugainippoh.co.jp/article/contents/hot/20231213.html
2011年から大阪市内の無縁墓地やその跡を巡る「大阪七墓巡り復活プロジェクト」を主宰する。江戸時代に行われていた風習「大阪七墓巡り」を追体験するもので、大阪の庶民の「無縁の死者に寄り添うマインド」に成熟した宗教性を感じるという。(池田圭)
「大阪七墓巡り復活プロジェクト」とは。
陸奥 大阪七墓巡りは元禄時代には始まっていた大阪の町衆の風習で、お盆に梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、千日、飛田などの墓地を巡拝して無縁仏を供養しました。
実際には遊女と戯れたり、墓地で酒宴をして乱痴気騒ぎをしたり、鐘や太鼓を鳴らしたりとエンターテインメントの要素が強く、町奉行から度々、禁止令が出ています。夜通し行うので肝試しの感覚もあったでしょう。「参加すると性病が治る」という話もあったそうで、清濁併せのむというか、大阪の町の懐の深さを感じます。
発祥の経緯は不明ですが、大坂の陣で犠牲になった豊臣方の死者の慰霊が大っぴらにできなかったので、無縁仏の供養を隠れ蓑に始まったのではないかと推測しています。
復活を試みたのは東日本大震災が起きた11年の8月。大震災で大勢の人が亡くなり、「死とは何か」が社会的な関心事になっていた時期で、僕も死者との関わり方を考え直そうとしていました。
大震災の死者のほとんどは知り合いでも何でもない。そのような死者の人数が連日の報道で積み重なっていく中「無縁の死者を供養する大阪七墓巡りとはどういうことだったのか。無縁の死者との付き合い方を社会実験でやりたい」と自分でも戸惑いながら企画しました。
当時、浄土宗應典院(大阪市天王寺区)のトークイベントで秋田光彦住職や釈徹宗先生(現相愛大学長)からプロジェクトについていろいろ聞かれて、特に秋田住職からは無縁の死者や弱者に寄り添い施し共鳴する実践が最大級の慈悲であるという「無縁大慈悲」という言葉を教えてもらいました。
プロジェクトは現在も続いている。
陸奥 毎年8月13~15日の3日に分け、夕方から夜にかけて巡ります。都市開発で公園になっている所が多く、墓はほとんど残っていませんが、僕がそれぞれの墓地を解説しながら、その名残を伝える地蔵などに花や線香を供えるのが基本です。
初年の参加は30人ほどでしたが、だんだん増えて新型コロナウイルス感染症が流行する前年には約100人に。当初、修験道の人から「そんなことをしたら呪われ…
つづきは2023年12月13日号をご覧ください
天王寺・毘沙門池跡。現在は天王寺区役所があるが、かつては毘沙門池があった。
四天王寺界隈はじつは池が多い。六時堂が大阪大空襲でも燃えなかったのは亀の池、鏡池、極楽の池などがあったからだという。
伝説では四天王寺には荒陵池という広大な池があり、それを埋め立てて四天王寺を作ったという。そこには青龍が住んでいたので青龍池ともいい、いまも青龍井戸が四天王寺伽藍の中にある。この井戸は遠く天竺(インド)の無熱池(むねっち)に繋がっているそうで、さすが四天王寺は伝承伝説もワールドワイドというか、実にスケールが大きい。
井戸繋がりでいうと天王寺区役所には展示コーナーがあり、そこに細工谷遺跡の井戸の資料が展示されている。百済尼寺と書かれた器などが発掘されていて、百済系渡来人たちが住み着いた寺院ということだろう。
大阪には百済寺、百済尼寺があり、百済川(平野川)があり、百済郡、百済駅(JR貨物駅)があった。百済だけではなくて高麗館、高麗川(猫間川)に新羅江荘(天満界隈)もあった。三韓勢揃い。我々が思う以上に大阪、天王寺区、上町台地、難波津はインターナショナルな国際港であったということだろう。
外来文化の玄関口。仏教受容もここから。大阪は日本最大、世界有数の仏教都市です。歴史の厚みがちゃう。
生玉さんへ。門前にあるのが笠間藩士・島男也の旧居、水戸藩士・川崎孫四郎自刃の所の石碑。
幕末、一部の水戸藩士が桜田門外の変で井伊大老を暗殺するが、実は首謀者の高橋多一郎親子は大阪にまで逃亡し、それを匿ったのが島男也(生玉さんで道場を開いていた)と川崎孫四郎だった。ところが秘匿がばれてしまい、幕吏に囲まれて島男也は捕縛(江戸送りとなり、伝馬町で牢死)、川崎孫四郎は自刃した。明治維新以降、勤皇の士として顕彰され、それで石碑が建立された。
昔はそんなことなかったと思うが、なぜか、いつの頃からか、石碑の周りに石が奉納されるようになり、これは願掛けでもしているのだろうか?よくわからない。民間宗教というか、庶民信仰というか、フォークロアというか、興味深い。