儒教+科挙という中国体制は、統治システムとしては非常に優秀で、中国の歴代王朝のほとんどは、じつは体制内部から崩壊したことがありません。異民族の襲来によって崩壊してます。
日本の場合は、黒船の来襲がなくとも、江戸幕府は体制内部の矛盾相克によって瓦解して、自然と薩摩・長州の連合政権ぐらいは発足していたと思われますが、もし仮に清王朝に大英帝国を一とする西欧列強諸国の来襲がなければ、いまだに中国は清王朝のままだったでしょう。中国の統治システムをそのまま流用した韓国の李氏朝鮮などは、500年もの長きに渡って王朝を維持しました(これも結局は異民族による来襲=日韓併合によって滅んでいます)。それほど「儒教科挙国家」というものは、体制維持に長けているんですな。
中国は6世紀、隋王朝の時代に科挙(試験制度)による官僚機構を整備しました。これは日本では明治維新以降になってようやく導入されましたが、じつは「試験…制度」と「官僚機構」のワンセットこそが、近代国家の要諦なんです。そして、この統治システムの導入は中国が先駆です。先駆どころかぶっちぎりの速さで、6世紀といえばまだヨーロッパは羊を必死に追いかけて牧畜している時代で、その頃に、すでに中国では皇帝以下、官僚機構の統治システムが出来上がっていた。
しかし、官僚機構というものは「競争の原理」が働かないんです。官僚は「前例主義」。現状維持に努める存在です。官僚機構は制度そのものであって、良き官僚人とは法律を履修する完璧なロボットに他なりません。決してそこから新しいモノの考え方や発見、文化は生まれてこない。発足した瞬間から時代の流れ(文明の発達)と乖離していく。時代が進めば進むほど不経済、非効率な統治システムなんですな。中国の場合は、その上に儒教なんていう古代の聖人君子を褒め称えるイデオロギーが乗るもんだから、もう完全に手がつけられなくなりました。
要するに中国の歴代王朝とは儒教+科挙=完全完璧な官僚国家で、おかげで1500年ぐらい、偉大なる中国文明はこんこんと眠ってしまいました。すでに古代に、紙や印刷技術、火薬、羅針盤、航海術といった前近代(大航海時代)を切り開く道具や思想を発明していたのに、中国は肥え太った大熊が冬眠するかのように、儒教+科挙制度の導入によって6世紀頃に停滞しています。そして中国が冬眠して約1000年後の16、17世紀に、周回遅れの西欧社会にルネサンスと産業革命が起こってしまった。中国文明(これはアジア文明と置き換えてもいいでしょう)最大の敗北、痛恨の敗北です。
それで19世紀に入って近代化した西欧列強諸国にコテンパンに中国がやられて「こんな中国ではアカン!儒教を滅ぼせ!」とやったのが毛沢東。そして「儒教に変わる強烈なイデオロギーが必要や!」というんで持ち出されたのがマルクス。古代賛美の儒教と、唯物史観のマルクスって、これはもう毒薬に劇薬で、完全に正反対の、相入れない統治システムなんですが、それがないと中国は近代化の第一歩を踏み出すことができなかった。儒教をやるぐらいなら、マルクスのほうがマシということなんでしょうな。ところが、これがまた中国史上でも有数の悲劇(大躍進政策、文化大革命)を生んでいく・・・。
「毛沢東の私生活」は、そのへんの支離滅裂な毛沢東の政治運動と強烈なパーソナリティを、微細に渡って伝えてくれます。読んでいて痛々しいぐらい。中国では現在も発禁処分。そりゃそうでしょうなぁ…。恐ろしい大著でした。
大阪・空堀が誇る市民ミュージアム「直木三十五記念館」のK事務局長の案内で知りました。ぼくは行けないですが、希望の方は申し込んでみてください。最初で最後の公開で、これを最後に取り壊すそうです。大阪・田辺にあった開高さんの実家に続いて、これまた、あまりに惜しい・・・。
【旧直木三十五邸を一般公開します。見学者募集中。】
富岡に、作家・直木三十五が設計したとされる昭和8年築の住宅が残されています。この富岡の家を知る菊池寛が「不便な個所が多くてこっけいだよ」と大仏次郎に笑って話したというエピソードがあります。直木が亡くなった後は増改築されましたが、当時の面影を今に伝えています。今回、老朽化等でこれ以上の維持や市での保存活用が難しいことから、取り壊されることになりました。建物所有者の方からのご厚意により、取り壊し前に一般公開をします。見学を希望される方は、往復はがきでお申し込みください。
●日時 6月26日(日)午前10時~午後3時
●場所 旧直木三十五邸(富岡東4-1-23 慶珊寺裏)(京急富岡駅東口下車徒歩14分、金沢シーサイドライン鳥浜駅下車徒歩14分)
●対象・定員 100人(多数抽選)
●参加費 無料
●申込方法 往復はがきに見学希望者全員の郵便番号、住所、氏名、電話番号を記入の上、申込先まで。1枚のはがきで2人まで申込可。返信用はがきに宛先明記のこと。
●申込締切 6月17日(金)消印有効
●その他
・敷地と外観の公開になります。内部は公開されません。
・駐車場はありません。車での来場はご遠慮ください。
・申込結果通知(返信はがき)は6月23日(木)発送予定です。
・ゆっくりご覧いただくため、返信時に見学時間を指定させていただく場合があります。ご了承ください。
●申込・問合せ
〒236-0021 金沢区泥亀2-9-1
金沢区役所区政推進課「旧直木三十五邸一般公開担当」
電話:788-7726 FAX:786-4887
無事に法案が通りました。日本のNPO活動と寄付文化の拡大を。市民、民間、地域コミュニティが、NPOを支える社会に一歩近づいたようです。
改正NPO法成立(OurPlanet-TVより)
NPO法人へ対する寄付に対して税制上優遇する範囲を拡大する改正NPO法が 15日の参院本会議で全会一致で可決、成立した。寄付文化の定着と財政的に厳しい環境に置かれている日本のNPOの組織基盤の向上にむけて、一歩前進した。
今回、NPO法改正は、寄付に対して税制優遇を受けられる「認定NPO法人」を大幅に増やすことなどが目的で行われたもの。これまでは「事業収入のうち寄付が5分の1以上」であることなどが認定要件だったが、事業型のNPOの多くが認定を受けられないため、全国約4万3千のNPO法人のうち、認定NPO法人は215とわずか0・5%に留まっていた。
このため、今回の改正案では「3千円以上の寄付をした人が100人以上」いれば、認定NPO法人になれるなど認定要件を拡大。また、認定の権限を国税庁から都道府県と政令指定都市に移し、手続きを迅速化する内容となっている。
一方、寄付をした人が、寄付した金額だけ税額控除できる寄付優遇税制の拡大も、16日に衆院を通過し、今国会中に成立する見通し。新たな税制が導入されると、税金を支払う代わりに、NPO法人に寄付をする人も現れると見られ、NPO法人の裾野を広げ、寄付文化の拡大につながるとされる。
国会での改正案成立後、衆議院第二議員会館で記者会見が開かれ、NPO法改正に取り組んできた超党派の議員が結集。手をつないで集合写真を撮るなど、厳しい与野党の攻防から離れ、なごやかな雰囲気に包まれた。NPO法議連で改正に取り組んできた辻元清美議員は「自分たちの地域とか行政とか社会とかを変えていく、デザインを変えるのが寄付。社会や政治が変わると思う。」と挨拶。また、会長の加藤興一議員は、「半分達成できた。市民活動法という名称になるようがんばりたい」と今後への期待を述べた。改正NPO法は来年4月1日に施行される。
現在「大阪あそ歩’11春」のアンケート、予約率、参加率などを集計中。また予約率が凄まじく、100パーセントを超えやそうです。大体、あそ歩のまち歩きは1回につき定員15名なんですが申し込みが16名、17名、18名と来て「キャンセル待ち」の状態になります。すごい人気となると「キャンセル待ち10名」なんてコースも出てくる。それで予約率が100パーセントを超えてしまう・・・というわけです。いっぺん参加すると、はまってしまう人もようさんいて、そのリピーター率も凄まじい。本当に感謝です。
韓国は、あまり知られてませんが、全国民のおよそ5分の1がソウル市民で、およそ半分が首都圏在住という状態だとか。日本以上に首都圏一極集中が進んでいる国家で、東京ばりにソウルの状況も、やばい。
釜山観光協会のEさんは、しみじみと、いいました。
「ソウルには本当の韓国はなくなってしまった。国策で作られた都市だから。しかし釜山には本当の韓国が残っている。それが我々の誇りだ」
NYや上海や釜山のまちを歩いて思ったことは町中、ゴミだらけ。いかがわしい勧誘チラシが乱舞して、路上には不法の屋台が出て、猥雑で、汚い。しかし、やたらと酒と会話と歌と音楽が溢れ、バイタリティに満ち満ちて、人間はすこぶる暖かかった。押し付けがましいほどに(笑)
改めて「まちとはどうあるべきか?」 そう考えるキッカケになりました。どこにいっても、チリひとつ落ちてない清潔な都市とやらが、人間の血が通った、真実の生活の場として、本当に正しい姿なのかどうか?
NYの肝っ玉かあちゃんのジェイン・ジェイコブズは「スラム街のどこが悪い!」と叫んで、清濁併せ呑む都市の多様性を訴えました。実際に江戸時代の大坂には、天下の富が集積する船場もあれば、天下一の花町の新町もあれば、死刑場の千日前もあれば、スラム街の長町もありました。都市の器(度量)の大きさでいえば、いまの大阪は矮小で狭量です。どこのまちも画一化されて、ゾーニングされて、個性を失って、面白くない。それでも日本の他都市に比べたら大阪は随分とマシな方だと思ってますが…。
大阪は大坂に負けている。じつに残念な事実。これからの大阪に必要なのは、まちの多様性(これは可能性と同義語ですから)を復活させること。そのために、ぼくは仕事します。
小西来山之墓。小西来山は、元禄期の俳人です。「お奉行の名さえ覚えず年暮れぬ」「涼しさに四ツ橋を四つ渡りけり」などの句が有名です。
最近、ぼくは来山の生涯に興味を覚えていて、この人、住まいは当時、日本最大のスラム街だった長町(現・日本橋)の果て。墓も長町近くの海泉寺にあります。バブル経済に狂喜乱舞していた元禄大坂へのアンチテーゼを貫いた人物だったようです。
ちなみに海泉寺は、新世界で行われた第5回内国勧業博覧会の「人類館」で見世物になったアイヌ人たちの宿泊所として利用されたことがあったようです。見世物になった琉球人、清国人は「見世物にされた!」と激怒しましたが、アイヌ人たちは「ええ賃金になる」と平気だったとか(そういう日記が残っているそうです)。
教科書にも出てきませんし、日本人の多くは知りませんが、大阪のまちの人は、「人類館事件」を決して忘れていません。
かつて大阪七墓のひとつ「葭原墓地」(天満砂洲。いまの天神橋筋六丁目界隈です)にあった「沖向地蔵尊」。古代、中世は、ここから西の海に沈む夕陽を拝むことが出来たんでしょう。人々はこぞって集い、その光景に涙した。奈良や京都には海がなく、江戸は海は東にあり、西にあるのは山(富士=不死)でしたから。中世日本の歌人は、その大阪の風景を「西方浄土」と呼びました。
契りあれば
難波の里に
宿りきて
波の入り日を
拝みつるかな
(藤原家隆)
太陽と海。その美しさは洋の東西を問いません。普遍的な美なんでしょう。実際に仏蘭西の天才詩人は、それを「永遠」と叫んでいます。
「見つけたぞ!」
「何を?」
「永遠を!それは太陽に溶ける海」
(アルチュール・ランボー)
じつは大阪は、太陽信仰の聖地なんです。海上に浮かぶ夕日に彩られた宗教都市。その敬虔な、素朴な、民衆の祈りを、復活させたい。まち歩きは、そんな願いを込めながら、やってます。