父・信一の遺品整理で、陸奥家の代々の戸籍が出てきて、いろいろと調べている。
祖父・文夫は若い頃は遊び人であったらしく、曽祖父・利宗から勘当されている。おかげで曽祖父・利宗の経歴がよくわからない。祖父や父の話では四国・高知で生まれ、その後、日本全国各地を転々とし、宇治山田で有力者となり、代議士か何かをやっていた…とのことだが、戸籍上でも波乱万丈(?)な人生の様相が伺える。
曽祖父・利宗は明治12年(1879)2月14日に宇和島伊達藩領であった高知県・吾川郡池川村に誕生し(陸奥家はだから宇和島伊達藩士の流れと思われる。このへんも伝聞だが。家紋は宇和島笹)、明治40年(1907)4月10日に元・薩摩藩士の小山田家の娘ヲカと結婚している。
この小山田家は薩摩藩の砲術指南役の家柄のようで、どういう経緯で利宗とヲカが出会ったのか?よくわからない。結婚当時の本籍は「鹿児島郡吉野村吉野497番」で、これは現在では鹿児島市になるようだ。当時、利宗は28歳で、同年11月4日には長男・武夫が同地で生まれている。
その後、明治42年(1909)7月16日に二男・文夫(僕の祖父)が出生しているが、これがなぜか東京市四谷区で出生届が提出されている。利宗は当時30歳。鹿児島から東京に移った経緯もよくわからない。
その後、明治44年(1911)10月10日に長女・八重子が出生しているのだが、これがこれまた不思議なことに北海道函館区で出生届が提出されている。利宗は32歳。文夫は2歳。
鹿児島(明治40年・1907)→東京(明治42年・1909)→函館(明治44年・1911)とはあまりにも人生が激動すぎる。利宗、一体、どういう人物であったのか?
また、この八重子は、悲しいことに大正2年(1913)1月にわずか2歳で北海道で亡くなっているのだが、その死亡届が「北海道函館区谷地頭町68番地」となっている。どんな場所か?と函館の古地図を調べてみたら函館公園の隣で「勝田温泉」という記載が出てきた。
「八重子は温泉地でなくなったのか?」と疑問が湧いて、さらに詳しく調べてみたら、この勝田温泉というのは正式には「勝田温泉旅館」というらしい。勝田弥吉という人物が開いたもので、函館初の旅館とか。
■二代目 勝田弥吉(1883年~1939年)初代・弥吉方ら鑛蔵そして2代目・弥吉へと引き継がれた函館第一号の旅館・勝田旅館。
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/02_ka/02-katsuta.html
上記ページによると『谷地頭の勝田温泉旅館は、昭和9年3月21日の大火で焼失。その後、再建して平成2年頃まで営業していた。勝田旅館は、明治11年の開業当時から、「各府県御旅館」「屯田兵司令部御定宿」「宮内省御定宿」「司法省御定宿」「陸軍省御定宿」「炭鉱鉄道会社御定宿」「北海道庁御定宿」等の一等旅館として繁盛した』とあった。
函館でも超一流の旅館であったらしい。そこで祖父・文夫の妹・八重子が亡くなってる。官僚などの定宿であったらしいが、曽祖父は官僚なのか?勝田旅館に住んでいた時代があるのか?
ちなみに八重子が亡くなった大正2年(1913)1月の翌月に利宗(34歳)と文夫(4歳)は東京市芝区高輪台町28番地の証誠寺に移っている。この後に宇治山田に移転したようだ。高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田。さすらってるなぁ。
北海道、函館は、一度、若い頃に、僕は観光で訪れたことがある。しかし、まさか自分の曽祖父、祖父が住んでいたとは知らなかった。勝田温泉旅館跡も、いつか、訪れてみたい。
父・信一が亡くなり、遺品整理をしていると、陸奥家の代々の戸籍を発見。
いろいろと調べてみると僕の曽祖父の陸奥利宗は大正2年(1913)2月に「東京市芝区高輪台町28番地」に引っ越していたことがわかった。利宗は当時34歳で、祖父の文夫が4歳の頃。
この「東京市芝区高輪台町28番地」とは、今の東京のどのあたりか?と気になって古地図を調べてみたら、なんと浄土真宗本願寺派の証誠寺という寺院だった。今もちゃんと1913年から変わらず当地に現存している。
■證誠寺
https://shojoji.org/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%89%E8%AA%A0%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%AF%E5%8C%BA)
祖父・文夫が子供の頃に浄土真宗の寺院に住んでいた…というエピソードなど父から聞いたことがない。父は知っていたのか?なぜ曽祖父は寺に住んでいるのか?どういう関係なのか?経緯なのか?まったくよくわからない。謎すぎる…。
近くには忠臣蔵の赤穂四十七士の墓があることで有名な泉岳寺もある。泉岳寺は何度か訪れているが、証誠寺は行ったことがない。今度、関東入りしたさいはぜひとも訪れてみようと思う。
陸奥家は元々、何宗であったのか?よくわからない。
僕の祖父・陸奥文夫(次男坊だった)は若い頃は無茶苦茶をしていたそうで、曾祖父・陸奥利宗の怒りを買い、実家からは勘当されており、交流が断絶している。
おかげで祖父・文夫はまだ経歴がわかるが、曾祖父・利宗の経歴はよくわからない。陸奥家は宇和島伊達藩の流れで、利宗は藩の飛び地があった高知県吾川郡池川村で生まれ、その後、鹿児島、北海道、東京と転々としている。妻が鹿児島藩士の鉄砲師範役・小山田家の娘で、そうした由縁で明治新政府(薩摩藩は勝ち組だったので)の仕事に携わったのかも知れない。
要するに官僚かなにかであったのでは?と思われるが詳細は不明で、ただ晩年は三重県の宇治山田にいた。宇治山田では代議士?名士?であったらしく、伊勢の赤福のスポンサーだったという。祖父・文夫がこどもの頃に赤福にいくと「むつのボンがきた」というので赤福食べ放題だったらしいが、これも本当かどうかサッパリわからない。
結局、陸奥家の先祖は宇和島伊達藩だから四国で、江戸時代の陸奥家の菩提寺、墓などはおそらくは四国の方にあると思われる。
陸奥家の戸籍は、いろいろと母(霊友会は先祖供養を大切にするので虱潰しに調べた時期がある)が調べたので、曾曾曾祖父・藤吾(5代前、明治時代)が高知県吾川郡池川村(現在は仁淀川町)に、曾曾祖父・万太郎(4代前、大正時代)が高知県高岡郡越智町が出生地ということはわかっている。
一度、陸奥家の先祖の菩提寺がわからないか?とそのあたりをリサーチしてみたいが、そこそこ寺院も多いので取っ掛かりがなかった。
ところが今回の父の葬儀のことで、母と話をしていたら、祖母・陸奥ヨシエの位牌が出てきた。これは夫である祖父・文夫がお願いしたもので、上の梵字が真言宗か天台宗の戒名に使われるものだというのがわかった。
祖父・文夫は真言宗か天台宗に帰依していたか、陸奥家の本来の宗旨は真言宗か天台宗であった可能性が出てきました。まあ、祖父は無宗教で、葬式の時に、適当に真言宗か天台宗のお坊さんにきてもらって戒名をつけただけ…という可能性もありますがw
陸奥藤吾の出生地の仁淀川町(池川村)には真言宗寺院もあるようです。そこにいけば、もしかしたら、陸奥家の先祖の墓もあるかもしれません。過去帳とか。時期をみて現地リサーチしてみたいものです。
白河。鹿嶋神社。上方にいると鹿嶋さんというのがわかるようでわからない。春日さんの親神みたいなもの…というイメージだが、春日さんの方がしっくりくるw
紅葉が美しかった。反橋は神橋という。畏れ多くて神橋は渡らず、横の石橋を渡りました。
白河。鹿嶋神社。
白河の氏神。総鎮守。絵馬は達磨。達磨は本来、中国禅の人だが、絵馬になって神社に奉納されて、達磨大師もビックリであろう。
白河は達磨の名産地。これも松平定信公がデザインしたとか広めたとか。なんでもかんでもいつでもどこでも定信公。もう定信公がお忍びで町火消に居候する貧乏旗本の三男坊・徳田新◯助に姿を変えて町民と交流しながら世にはびこる悪を斬りまくっていた…とか聞いても驚かない。
白河。鹿嶋神社。磐座。
鹿嶋さんの御神体でしょう。本社の奥が山になっていて、そこを登っていくと磐座がある。これが神々しく、素晴らしかった。
宮司さんに話を聞いてみたら「じつは山全体が岩でできていて、樹木で覆われたが、露頭している部分が磐座として崇められ、古代の祭祀場であったろう」とのこと。
なぜか土器が置かれていて、これも宮司さんに尋ねたら「誰かが置いたもののようです」とのこと。神社側に承認(?)されて、そのまま奉納されているのも面白い。おおらか。
白河。石阿弥陀の一里塚。石阿弥陀は地名。どこかに石阿弥陀さんがいたんでしょうな。
一里塚は中世、近世の奥州街道のもの。ところが後に街道筋が変わり、元の奥州街道はサッパリなくなってしまった。田圃の中に、ただ、ポツネンと塚が残る。
西行、義経、宗祇、芭蕉らが歩いたのはこの田圃の中であったか。
白河。革籠原の防塁跡。「幻の白河決戦」の地。
秀吉亡き後の徳川家康VS石田三成の天下分け目の戦場となったのはご存知、関ヶ原ですが、じつは西軍側の上杉景勝、直江兼続の作戦としては関ヶ原ではなくて、ここ、白河で徳川家康を迎え撃つ構えであったとか。その防塁が少しながらも、ちゃんと残っている。
しかし残念ながら家康は上杉軍をスルーして関ヶ原に現れて、結果は東軍の勝利に。ここ、白河で上杉VS徳川の戦いがあれば天下の行く末も、歴史の流れも変わったのに…と西軍ファン(?)が感涙する場所だとか。
白河は白河関があり、関東文化圏と東北文化圏の境目。戊辰戦争の主戦場にもなったが、歴史の転換、時代のターニングポイントとなると、白河がその舞台となって現れてくる。
しかし隣が田畑なのがいいw 家康やない。景勝やない。市井の人こそが時代を作り、歴史を作るんです。
白河。遊女志げ女の碑。奥州街道と会津街道の交差路近くにある。
白河は宿場町。もちろん遊所もあった。旅籠坂田屋に抱えられていた遊女が志げ女で、戊辰戦争時に、長州藩士・世良修蔵と恋仲になったという。しかし白河は危険ということで世良は脱出し、その手助けをしたということで志げ女は会津藩士に殺された。
その後、世良は新政府の奥羽鎮撫総督府の参謀として会津藩を攻める。仙台藩は会津藩に同情的で、なんとか会津藩を救済しようと動くが、しかし世良は会津を徹底して敵視し、攻め滅ぼそうとする。その苛烈、激烈さから反感を買い、仙台藩士に暗殺されてしまった。
何故、そこまで世良が会津藩を敵視していたのか?の背景に、もしかしたら志げ女の敵討ちという私怨があったのかもしれないが、まあ、そこまで話は簡単ではないでしょうなw
ただ、この仙台藩強硬派の短絡的で乱暴すぎる世良暗殺事件によって、会津藩の助命嘆願は完全に撤回、不可能となって会津藩は徹底攻戦される原因となった。仙台藩強硬派よ…。もうちょっと考えなはれ。
ちなみに志げ女の仇討ちは、坂田屋の下男が果たしたという。これまたほんまか?案件。志げ女への市井の人々の同情が、そのような伝承となったか。
白河。奥州街道と会津街道の交差路。遊女志げ女の碑の近くには仙台藩士戊辰戦没之碑がある。白河口の戦いなどで戦没した仙台藩士150余名の供養碑という。
近くに鴉組の説明板がある。仙台藩には「鴉組」という黒装束で夜襲に長けた集団がいたらしい。恐しい…。
闇討ちとは武士の風上にも置けぬ!という感じだが、実は東北の任侠者やヤクザなどを集めて結成されたものらしい。いうてみたら奇兵隊の東北バージョンみたいなもんかも知れませんな。
組織したのは仙台藩士・細谷十太夫直英。鴉組は新政府軍に夜襲すること30数回。一度も負け知らずで東北の民衆は「細谷鴉と十六ささげ、無けりゃ官軍高枕」という俗謡が流行ったほどという。
仙台藩が敗れて降伏すると鴉組は解散したが細谷は行方不明に。戊辰戦争の大赦令がでると颯爽と姿を現した。見事、逃げ切ったということですな。
さらに鴉組の部下を率いて北海道開拓し、さらにさらに日清戦争で陸軍少尉となって活躍し、さらにさらに帰国後は警視庁の小隊長となったとか。いるんですな。こういう人物が。あっぱれ。