滋賀県。大津市。西教寺。明智光秀一族の墓。光秀の妻・煕子の墓。
大阪まち歩き大学。かつての高麗橋本吉兆。旧店舗。
堺が生んだ数寄屋建築の天才・平田雅哉の仕事。残念ながら建物は老朽化で潰され、現在は6階建ビルに建て替えされました。外観からは想像できませんが、しかし、中は旧店舗の設えを移築して再現、復元しているそうです。
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旧店舗は戦前の建築で、元は茶道具商の児島嘉助邸。藤田伝三郎、住友吉左衞門、小林一三などが訪れた。本吉兆の湯木貞一も顧客で、戦後に建物を買収し、料亭となった。
児島嘉助は当時の建築法を無視(抗議の意味合いがあったとか)して、純木造町家を建てようとしたそうですが、児島に罷免された大工が逆恨みで行政に密告して一部がRC造になった…というエピソードを聞いたことがあるんですが、ほんまかどうかw
高麗橋本吉兆は一見様お断りのお店。僕は一度だけ紹介されて料亭遊びをしたことがあります。2009年。◯万円でした。自腹です。勉強、後学のため。そのあと何日間かカップラーメンと吉牛で過ごしました。
料理ももちろん凄かったですが、平田雅哉建築がこれまた素晴らしかった。老朽化で致し方ないとはいえ、この外観が無くなってしまったのは、やはり、惜しい。まちの景観、まちの風格として、惜しい。
滋賀県。大津市。天台真盛宗総本山。西教寺。
高麗の僧・慧慈、恵聴のために聖徳太子が開基して良源、恵信僧都源信が復興して紀貫之子孫の真盛上人が中興の祖に。天台宗ですが「不断念佛」(本堂ではほんまに朝から夕まで延々と念仏を唱え続けてます。500年続いているとか)「戒称二門」の教えを説く。
比叡山焼き討ちで災禍を被るが、明智光秀が深く帰依し、妻・煕子の菩提を弔った。この賢妻がもう少し長命であれば本能寺の変もなかったかも知れない。
さらに天正年間に京都・六勝寺を合併して六勝寺流の戒灌頂を継承している稀有の寺院とか。歴史の厚みが凄い。いろいろ入り混じってて頭がこんがらがってくるw
大津、恐るべし…。
今里新地で行われた「愛國をどり」(愛国おどり)。櫓はいまの新今里公園に組まれた。
明治時代にできた松島、大正時代にできた飛田、昭和時代にできた今里。時代が時代ですから、どこよりも時局に阿っていたのが新興の今里であったともいえます。帝國陸軍の慰問の性格が強い。
この今里に遊び(?)に来ていた名も知れぬオッサンが食べたのが屋台の会津屋のラヂヲ焼。「なんや今里は牛肉かいな?明石はタコ入れとるで」とアドバイスして生まれたのが大阪名物のたこ焼き。
なぜ明石の男がわざわざ今里なんてとこにきていたのか?当時、今里が有名な新地であったから、その影響ではないか?そうすると、たこ焼きは遊郭文化(屋台)から発生した食べ物ということになります。
大阪には「いつから大坂ではなくて大阪が使われるようになったのか?」という、どうでもいい人にはどうでもいい問題がありw
江戸時代は「大坂」で、明治時代から「大阪」になったというのが通説ではあるが、調べてみると江戸時代から「大阪」は使われだしている。
わかりやすいのが住吉大社にある大阪庭構中の燈籠が「大坂」ではなくて「大阪」を使っている。これが天明6年(1786)のもの。大阪を使った石造物では最古級のものだと思われる。
これは巷間よくいわれることだが、大坂の「土」(つちへん)は「土に返る」という意味があり、大阪の「⻖」(こざとへん)は「土を盛る」といった意味がある。元禄期の大坂の繁栄は淀屋闕所や宝永大地震(東南海大地震)で停滞し、紀州・徳川吉宗の江戸入城もあって、上方文化が江戸に移っていく。そうした影響で天明期の大坂は確かに没落していた。「大阪」という文字を使いだすのも、そういう「かつての栄光再び」の願掛けが込められている。
歴史的には天明以後に化政文化(1804~1830)時代がやってくるが、これも江戸が中心。かつての元禄文化(1688~1704)は大坂・上方が舞台であったが、大坂の化政文化期は残念ながら元禄文化期ほどの輝きはない(細かく見ていくと素晴らしい芸術や学問分野での進歩、業績はあるのだが…)。
結果、18世紀以降、大坂は長期的に下降気味で、幕末からどんどんと時代が進むに連れて「大阪」の文字使用も増えていく。そして明治以降、「大阪」が決定的になる。
「大坂→大阪」になったように「大阪没落」というのは、ここ数年の話ではなくて。長い長い歴史的なスパン、流れがある。だから、その歯止めは、なかなか難しい。一朝一夕ではないということです。
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021動画集
http://wp.me/pxlkK-2l7
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021①梅田墓地跡
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/372318840932935
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021②梅田・阪急三番街・北向地蔵尊・地蔵横丁
https://youtu.be/UN4YKJPvkTo
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/581289992881694
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021③源光寺・南濱墓地
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/213861814007817
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021④沖向地蔵・葭原墓地跡
https://youtu.be/vwmjf8LFiCM
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/824421771769380
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑤京橋・蒲生墓地
https://youtu.be/Mf4TNObe6jI
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/362026932137461
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑥京橋空襲慰霊碑
https://youtu.be/k9moLEfptHc
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/856172051667812
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑦大阪城天守閣・帝国陸軍第四師団司令部跡
https://youtu.be/MCNmwHmUWuE
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/1214027815688663
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑧真田山陸軍墓地
https://youtu.be/eHuNUG07olo
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/213768330687458
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑨小橋墓地跡・東高津公園・延命地蔵尊・伝光寺跡・梅川忠平衛比翼塚
https://youtu.be/H49o91plbao
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/310309894166305
■大阪七墓巡り復活プロジェクト20211⑩浮世小路・法善寺(千日墓地跡)
https://youtu.be/JreGlj4DFo0
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/531016148161819
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑪榎龍王・榎地蔵尊・三津寺墓地(千日墓地跡)
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/187778650081651
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑫太子墓地跡
https://youtu.be/cLQ9TRZfxps
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/522344862147257
■大阪七墓巡り復活プロジェクト2021⑬阿倍野墓地
https://youtu.be/N9i0wFOnHKU
https://www.facebook.com/osaka7haka/videos/602353487591253
堺市の資料から。泉北ニュータウンの将来人口予測。
1990年代は16万人が、いまは11万人。これが2030年には10万人を切り、2045年には5万8000人。高齢者比率は54%。老人、高齢者だらけのニュータウンになる。ニュータウンという名のオールドタウン。冗談みたいなほんとの話。
泉北ニュータウンは「田園都市構想」のある種の理想形、完成形のはずだった。しかし、経緯を見ていると、残念ながら、100年持たなかった。人間の営みの場として、サスティナブルではなかった。対して旧村エリアを歩くと、300年、400年の歴史を有する旧村も多い。人間の営みが定着している。少なくともニュータウンよりは長持ちしているように思う。
泉北まち歩きでニュータウンと旧村を交互に歩くと(そういうルートにしている)、それぞれの場の構造の違いがよくわかる。まずニュータウンは車中心主義で、歩く構造になってない。旧村は車では移動しづらい。曲がりくねった道、細道が多い。車がない、人(徒歩移動)が中心の時代に作られたから、当然、そうなる。
旧村エリアの曲がりくねった道や細道を歩いていて気付くのは、地蔵さんや稲荷神、道祖神、よくわからない石像などがゴロゴロあること。泉北はだんじり小屋なども多い。歩いていて、そちこちに、そうした信仰の痕跡、宗教性、スピリチュアリティを感じる。こうした信仰、宗教性がニュータウンにはない。まったく、ない。
ニュータウンは「便利」を基軸に作れられた。「駅から徒歩〇分」にスーパーがあり、病院があり、公園があり、学校があり、家がある。生活に便利で、効率よく、必要な施設が、配置される。
しかし、その必要の中に、どうも「宗教」はなかった。地蔵や稲荷、道祖神、寺社仏閣などは前近代的なもので、非合理で、不条理で、なくてもいいもの。近代都市の計画者の頭の中には、こうした宗教的な事柄は人間の営みに必要なものとして認知されなかったらしい。だから近代の都市計画に、地蔵や稲荷などは配置されない。(※正確には戦後の都市計画にない。戦前にはあった。戦前に作られた大阪・下寺住宅=軍艦アパートには、地蔵や稲荷が配置され、建て替えられた今も団地の一角に地蔵や稲荷が残って祀られている)。
本来、そうした宗教的なものには「祭礼」が付随する。地蔵があれば地蔵盆ができるし、寺社仏閣の春祭、夏祭、秋祭には、だんじりなども曳かれる。神輿も担がれる。なんで、そんなことをするのか?やっているのか?よくわからない、前近代的で、非合理で、不条理なものだが、それがあるがゆえに、場(旧村)に物語が生まれ、地元や地域を意識して、「ふるさと化」していく。自分の人生と場がミクスチャーされていく。
経済的合理性は「代替可能なもの」ということです。「駅から徒歩10分のスーパー」は「駅から徒歩5分のスーパー」に勝てない。「便利」を基軸にした設計では、より便利なものに、あっというまに取って代わられる。ニュータウンの人口が減っていくのは、「便利」を基軸に作られたから。ニュータウンよりも「より便利な場」があれば、当然、人はそちらに移ることになる。
不条理で、非合理で、意味不明な祭は「代替不可能なもの」で。「だんじりを曳く」「神輿を担ぐ」「盆踊りを踊る」といった体験は、他の体験に置き換えられない。そこでしか、できない。そこでしか味わえないから、その場から離れない。そういう場の経験があるから、ニュータウンは100年持たないのに、旧村は100年200年300年と続いていったりする。
「祭礼の日には逃亡中の指名手配犯も帰ってくる」というのは、日本全国各地にある都市伝説の類ですが、宗教や祭事という非合理で不条理で非言語的で説明がつかないものこそが、人間存在の核の部分を担っていたりする。それがないと、人間は、生きているとはいえない。生きていることは論理、近代的知性を超える。
ポスト・モダンの、サステイナブルなニュータウンがあるとすれば、まず神さま、仏さまを勧請する。地蔵を作る。稲荷を作る。祭(※)を作る。そういう知恵がいるのかも知れない。
「不条理を設計せよ」とかいうと、パラドックスやなぁw
※ニュータウンではイベントは多い。しかし祭礼はない。祭礼の中心には神さま、仏さま、死者、祖霊がいる。イベントにはそんな存在が中心にはない。イベントの中心にあるものは「資本」や「集客」であり、結局「経済的合理性」といえます。