白河。奥州街道と会津街道の交差路。
白河は歩いていると、ふとしたところに銘板がある。白河観光協会さんの仕事。マニアックなネタが多いが、そこがいいw
江戸時代、白河は1万5000名ほどの城下町であったとか。毎月、市が立った。
江戸時代は「千軒は共過ぎ」といった。「友過ぎ」ともいう。千軒あると、コミュニティとして、そこだけで循環して、生活や経済、文化が成り立つという。共に過ごすことができる。また友として過ごすことができる。友とは要するに顔が見える関係性で、持続可能な、サスティナブルな都市が成り立つということでしょうな。
1000軒なんで人口は4000名ほど。白河はその4倍はあった。いかに白河が巨大な都市であったか?がわかる。
白河ではなくて西白河郡泉崎村。白河リサーチだが気になったので、少し白河から隣村へ足を伸ばしてみた。
お目当ては国史跡の泉崎横穴。珍しい装飾古墳で、発見当初は東北初の事例で一大センセーショナルを巻き起こしたとか。実際の泉崎横穴自体は閉鎖していて見られないが、泉崎駅前の泉崎資料館で原寸大のレプリカが見られる。
描かれているのは鹿狩の様子。なんせ鹿嶋神社さんの土地ですからな。鹿は白河のキーワードのひとつ。
西白河郡泉崎村。泉崎資料館。なぜか黒澤明監督作品『影武者』の仲代達矢(武田信玄役)が着ていた甲冑が展示されている。謎w
『影武者』、勝新で撮って欲しかったなあ。
陸奥利宗(僕の曽祖父)の妻ヲカの父は薩摩藩士の小山田休次郎。その休次郎の養父・真蔵は馬場道與流砲術の師範だった。
馬場道與なる人物は武田信玄に仕えていた馬場信房(長篠合戦で戦死)の孫だそうで、おそらくは武田家(馬場家)滅亡後、武芸者として諸国を渡り歩いた…といった人物ではないだろうか。名門武家が没落した後によくあるパターンですな。もしかしたらニセモノで、自称・馬場信房孫という可能性もあるw
その「馬場道與流砲術」の実態が長年、謎であったが、いろいろと調べたら『武教綱領要歸鈔』という著書があり、それが馬場道與が書いたものということがわかった。
では、この『武教綱領要歸鈔』はどこでみれるのか?と調べてみたら、なんと岩手県一関市の芦東山記念館に収蔵されているという。国立国会図書館にもない。
また岩手県いったときに訪れてみるか…。
僕の曾祖父は陸奥利宗といい、宇和島藩士なんですが、利宗の妻・小山田ヲカの父は小山田休次郎という薩摩藩士です。「七卿落ち」の五卿を守るために太宰府・延寿王院に配属された…という文献が残ってます。
小山田休次郎の養父・小山田真蔵は、薩摩藩の馬場道與流砲術(武田信玄に仕えた馬場信房孫が創始者の和流砲術)の達人で鉄砲指南役であったとか。休次郎もおそらくその砲術を修練したであろうし、もしかしたら戊辰戦争にも参加していたかもしれないし、白河で戦っていたかもしれない…というようなことを白河市歴史民俗資料館の学芸員さんに話をしていたら、こんな資料がありますよ、とお教え頂いたのが『薩藩出軍戦状』。
戊辰戦争での薩摩藩士の戦闘がすべて記録されているとか。凄い資料ですな。調べてみるか…。もし休次郎が白河で戦ったりしてたらビビるなあ。
※画像2枚目が小山田休次郎の戸籍謄本。天保10年(1839)生まれですから戊辰戦争(1868〜1869)時は30歳前後。働き盛りではあります。
大阪まち歩き大学。かつての高麗橋本吉兆。旧店舗。
堺が生んだ数寄屋建築の天才・平田雅哉の仕事。残念ながら建物は老朽化で潰され、現在は6階建ビルに建て替えされました。外観からは想像できませんが、しかし、中は旧店舗の設えを移築して再現、復元しているそうです。
https://koraibashi-kitcho.com/
旧店舗は戦前の建築で、元は茶道具商の児島嘉助邸。藤田伝三郎、住友吉左衞門、小林一三などが訪れた。本吉兆の湯木貞一も顧客で、戦後に建物を買収し、料亭となった。
児島嘉助は当時の建築法を無視(抗議の意味合いがあったとか)して、純木造町家を建てようとしたそうですが、児島に罷免された大工が逆恨みで行政に密告して一部がRC造になった…というエピソードを聞いたことがあるんですが、ほんまかどうかw
高麗橋本吉兆は一見様お断りのお店。僕は一度だけ紹介されて料亭遊びをしたことがあります。2009年。◯万円でした。自腹です。勉強、後学のため。そのあと何日間かカップラーメンと吉牛で過ごしました。
料理ももちろん凄かったですが、平田雅哉建築がこれまた素晴らしかった。老朽化で致し方ないとはいえ、この外観が無くなってしまったのは、やはり、惜しい。まちの景観、まちの風格として、惜しい。
滋賀県。大津市。天台真盛宗総本山。西教寺。
高麗の僧・慧慈、恵聴のために聖徳太子が開基して良源、恵信僧都源信が復興して紀貫之子孫の真盛上人が中興の祖に。天台宗ですが「不断念佛」(本堂ではほんまに朝から夕まで延々と念仏を唱え続けてます。500年続いているとか)「戒称二門」の教えを説く。
比叡山焼き討ちで災禍を被るが、明智光秀が深く帰依し、妻・煕子の菩提を弔った。この賢妻がもう少し長命であれば本能寺の変もなかったかも知れない。
さらに天正年間に京都・六勝寺を合併して六勝寺流の戒灌頂を継承している稀有の寺院とか。歴史の厚みが凄い。いろいろ入り混じってて頭がこんがらがってくるw
大津、恐るべし…。
今里新地で行われた「愛國をどり」(愛国おどり)。櫓はいまの新今里公園に組まれた。
明治時代にできた松島、大正時代にできた飛田、昭和時代にできた今里。時代が時代ですから、どこよりも時局に阿っていたのが新興の今里であったともいえます。帝國陸軍の慰問の性格が強い。
この今里に遊び(?)に来ていた名も知れぬオッサンが食べたのが屋台の会津屋のラヂヲ焼。「なんや今里は牛肉かいな?明石はタコ入れとるで」とアドバイスして生まれたのが大阪名物のたこ焼き。
なぜ明石の男がわざわざ今里なんてとこにきていたのか?当時、今里が有名な新地であったから、その影響ではないか?そうすると、たこ焼きは遊郭文化(屋台)から発生した食べ物ということになります。