江戸時代に発行された堺の怪談話を集めた『沙界怪談実記』。いま孔明さんが現代語訳に取り組んではりますが、今回の堺妖怪芸術祭のまち歩き企画のために、いくつか読ませて頂きました。
近代の怪談話には一種のパターンというか定型のようなものがあり、それは大体、怪異の経験者に知ってか知らずか問わず「死者を冒涜する」ような「罰当たりな行為」があって、その結果、妙な怪異が起こる…という「因果応報」的なものです。
「怒り」「恨み」「哀しみ」「祟り」「寂しい」といったような死者(死者)の感情的な動機から起こる怪異というのは、ある意味、非常に理路整然としていて、わかりやすい話で、じつはちっとも「怪談」ではない。
こういう怪談は、結局のところ、人間中心主義で、ヒューマニズムで、科学的(因果応報は科学です)で「近代怪談」といえます。
しかし『沙界怪談実記』のユニークな点は、こういうわかりやすいオチ(因果応報)のようなものがない怪談であること。「オチのない怪談話」であること。
いろんな怪異が収録されているのですが、なぜそれが起こったのか?なぜそれが起こるのか?起こった結果どうなったのか?どうなるのか?ということが記述されていない。
多少はないこともないんですが、当時の時代には、作者に、読者に、そんなところへの興味関心はないんでしょう。怪異の多くが「因果応報」にならない。大部分は「なんやそれ?」という些細な、微小な怪異で、怖くもなければ、面白くもないw スッキリしない。
近代以降、大衆メディアに乗った近代怪談は、ある種の技となり、芸となり、金儲けの手段でもあるので怪談の名手というのが生まれて、彼らはどうしても視聴者、読書を怖がらせようとして、あの手この手の方法論を用いる。「起承転結」のように話が纏められていく。話芸となる。
しかし『沙界怪談実記』には、その手の怪談話にありがちな、大袈裟な、怖がらせようという「作為」が感じられない。淡々と、静謐に、あったこと(怪異)が日記のように書かれている。「起承」はあるが「転結」がない。
なぜ怪異が起こるのか?という分析がないんですが、それは、しかし、当時の人には、ないのも当然なのかもしれない。
要するに死者などは当然、祟るし、怒るし、悲しむし、恨むものだから、それは「怪異」にならないということなのかもしれない。それぐらい死者がフラットに生の延長線上にいたということなのかもしれない。
怪異や怪談の捉え方、範疇が、いまの我々とはだいぶ異なる。ズレがある。その「差異」が面白い。わかりにくいから味がある。オチないからリアル。良い本です。実に興味深い。
堺妖怪まち歩きもオモロイでっせw また不定期にでも開催していきます。
谷町を歩く。久しぶりに歩いたら石碑が増えていた。まち歩きガイドとしてはありがたい。
本長寺は尾張名古屋藩6代目藩主の徳川継友公の菩提所となっている。なんで大阪・谷町の寺院に?と疑問だが、昔、某長老からある珍説(?)を聞いたことがあるが、ほんまかどうかはわからないので、ここには書かないw
まち歩きのときには「じつは…」とあやしい都市伝説を語っております。最後に「知らんけど」と言い添えて。
【熊本県】津奈木町にて。広報誌まわしよみ新聞完成!
熊本・津奈木町と新潟・阿賀町の広報誌+熊本日日新聞+西日本新聞でまわしよみ新聞を作る。
『広報つなぎ』『広報あが』の比較がやっぱり面白かったw これは西田 卓司さんことニッシーに広報誌を送ってもらいました。おおきにニッシー!
地域広報誌を交換してのまわしよみ新聞はいろいろと可能性を感じております。良い地域交流、地方交流、まちづくりのプロジェクトになる。いろんな地域でもやってみたいなあ。
熊本県。津奈木町。奇石。重盤岩。
「まちなかコース」「海コース」「山コース」と3つのまち歩きフォトスゴロクを完成させましたが、そのうちの「まちなかコース」をみんなで体感してみようということで津奈木町まち歩きへ。
「まちのシンボルでもある重盤岩は登っときましょう!」ということでつなぎ美術館からモノレールに乗って頂上まで。高さ約80メートルほどですが、絶景かな絶景かな。見晴らしがいい。津奈木のまちなかが一望できる。
驚いたのが国旗が掲揚されていること。戦前からあるらしい。屋外で野晒しだから旗はすぐ汚れる。そうなると旗を新調するのは津奈木町役場の新人、若手やそうで命綱をつけながら国旗を替えるとか。どんなハードな仕事やねんww
高所恐怖症の人(ぼく)には到底ムリでしょうなあ…。
鹿児島を歩く。天文館界隈。ザビエル公園。
堺にもザビエル公園がありますが、こちらは鹿児島のザビエル公園。明治時代にザビエル来日を記念して教会ができ、空襲で焼失し、戦後に公園として整備されたという。ザビエルが当地を訪れた…ということではないらしい。
ザビエル公園は、あと山口県にもある。堺のザビエル公園。鹿児島のザビエル公園。山口のザビエル公園。これを日本三大ザビエル公園といいます。ウソです。勝手に命名しました。
鹿児島。城山墓地。西郷どんの墓。25年ぶりの再訪。
桜島がようみえる。
鹿児島。西郷隆盛生誕の地。スポット公園のように整備されていて、隣には西郷従道の生誕の碑もある。大きさが違いすぎる。
近くには大久保利通の生誕の地もあり、そちらはなんと駐車場であった。西郷と大久保の人気の差を感じる…。
西郷どんが人気者すぎてつらいが、近代日本を形作ったのは間違いなく西郷どんではなくて大久保利通。プロシア(ドイツ)のビスマルクをモデルに官僚統制による中央集権国家を強いて、それが現在まで機能している。
すでに大久保モデルは完全に時代遅れで限界、破綻寸前で、もはや現代日本の社会閉塞の病原、宿痾のようになっているが、しかし国家百年の大計ではあった。
こんな大政治家はもう出てこんでしょうな。世界は環境主義を尊重するグローバリズムと、地方自治、都市自治を軸にするローカリズムに分権化されていく。「国家」が解体されていく時代ですから。
鹿児島市。城山。西郷洞窟。西南の役の最後、西郷どんはここの洞窟の中で人生最後の5日間を過ごした。
西郷軍は500名足らず。官軍は3万名。勝敗はすでに明らかだが、総攻撃の前夜に官軍は銃撃をやめた。ウソのように静まり返る夜で、翌朝、総攻撃をする、その前触れだと西郷側にも伝わる。西郷たちはすべての食料、酒を分かち合って、ささやかな宴席を囲んだ。
このとき、官軍の軍楽隊が西郷軍に向けて、ショパンの『葬送行進曲』とヘンデルの『見よ、勇者は帰る』の2曲を演奏したという。暗い洞窟の中で西郷はその曲を聴いて何を思ったか。
いまは観光名所。洞窟の周りは市街地化して、バスも来るし、温泉もあるし、「おみやげセンターせごどん」とかいうお土産屋さんもあるし、「最GO-KIDS保育園」(西郷キッズ?)なんて保育園まであった。
鹿児島市。甲突川沿いを歩くと、あちらこちらに歴史案内板がある。NHK大河ドラマの『西郷どん』効果らしい。
近年は川沿いに「維新ふるさと館」というハコモノもできたようで、そこに至る道程に、これでもか!と、どこもかしこも同じような「西郷どん万歳!」「明治維新万歳!」「薩摩藩万歳!」みたいな案内板があるので正直みててイヤになってくるw
史跡案内、石碑とかは、その現場にあるのがいい。あまり縁もゆかりもない川沿いにワンサカと史跡案内板を作られても正直、ピンと来ない。
案内板の中で少し気になったのが薩摩焼の案内。これは僕の曽祖父母に関連する。
曽祖父・陸奥利宗の妻は薩摩藩士で鉄砲師範役の小山田家の娘ヲカ。このヲカにはタカという姉がいた。さすが鉄砲師範役の一族で「鷹」とか「岡」とかなんとなく鉄砲撃ちに関連がありそうな名前で笑う。
それで、じつは、このタカが嫁いだのが薩摩焼の苗代川窯の陶工の鮫島訓石だった。要するに曽祖父・陸奥利宗の義理の兄です。
この鮫島訓石は有名な沈壽官一族(白薩摩系)と並ぶほどの薩摩焼の名手だったそうで、とくに黒薩摩の評価がいまでも高いとか。
また訓石の作品は大阪・新世界で開かれた第5回内国勧業博覧会(1903)に出品されていて「古銅紋彫刻花瓶」などが記録にある。当時の代金は300円。現在の価値でいえば約600万円ぐらい。逸品ですな。
苗代川陶工は秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮陶工の一族。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』の舞台でも有名です。
いまも苗代川には鮫島佐太郎窯(鮫島訓石の弟子筋)が現役で活動しているとか。いっぺん現地に行ってみたいんですが…。今回は行けなかった。市内を歩き回っただけで終了でした。
鹿児島市。示現流史料館。まち歩きしていたら発見してこれは行かねば!と向かうと休館日。無念…。
説明によると、ここは示現流を広めた東郷家の屋敷跡という。
僕の曽祖父の陸奥利宗は大蔵省専売局の書記として鹿児島県出水市、鹿児島市と赴任した。その時代に薩摩藩士・小山田家の娘ヲカと結婚している。
つまり僕の曽祖母は鹿児島の人で、僕には8分の1ほど鹿児島人、薩摩隼人の血が流れていることになる。チェスト!
ヲカの父は小山田休次郎といい、この人は幕末の「七卿落ち事件」のさいに五卿を守るために太宰府・延寿王院に配属された…という文献を読んだことがあります。
ちなみに、この時の公家の随従には、のちの陸援隊・中岡慎太郎がいたので、休次郎もなにかしらの交流があったかも知れない。
そして、その休次郎の養父・小山田真蔵は馬場道與流という鉄砲術の師範役だったという。その弟子に西郷嫌いで有名な市来四郎がいる。
鉄砲術の流祖たる馬場道與なる人物は、あの武田信玄に仕えていた馬場信房(武田四天王。不死身の鬼美濃である。長篠合戦でしんがりを務めて壮絶な戦死)の孫だそうで、おそらくは武田家(馬場家)滅亡後、武芸者として諸国を渡り歩いた…といった人物だと思われる。
名門武家が没落した後によくあるパターンですな。ただ、もしかしたらニセモノで、「自称・馬場信房孫」という可能性もありますがw
この「馬場道與流砲術」はどんなものであるのか?長年、謎だったのですが、いろいろと調べたら『武教綱領要歸鈔』という著書があり、それが馬場道與が書いたものとか。
では、この『武教綱領要歸鈔』はどこでみれるのか?と調べてみたら、なんと岩手県一関市の芦東山記念館に収蔵されているという。国立国会図書館にもない。また岩手いった時に調べないといけない…。
示現流は剣術で、道與流は砲術。刀と鉄砲という違いはあるにしろ、同じ武芸ではあるので、もしかしたら僕の祖先の小山田家の誰かは東郷家と交流があったかも知れない。