女装デビュー

2022 年 10 月 13 日 Comments off

肩甲骨の凝りに良いエレキバンがないか?と探していたらブラジャーやキャミソールに装着するエレキバンを発見してそうかついに俺も女装デビューか…と黄昏れました。


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まわしよみ新聞創刊10周年記念イベント

2022 年 9 月 30 日 Comments off

【まわしよみ新聞創刊10周年記念イベント】昨日、應典院で実施しました。秋田光軌さん、釋大智さん、中平了悟さん、陸奥賢の4人で10周年のふりかえりトーク。

「お坊さん、お坊さん、お坊さん、僕」という随分と偏った(?)布陣に思えますが、まわしよみ新聞が生まれた背景を探ろうと考えたら結果として、こういう形になりました。

まわしよみ新聞は浄土宗寺院・應典院コモンズフェスタから派生したもので、僕自身の出自(在家法華教団・霊友会3世の成れの果てw)も重なって、じつは宗教的な場作り、対話作りのメソッド、テクニック、技法のようなものが随所にみられる。

「ファシリテーションしない」「場に任せる」「他者に委ねる」という、かなりリスキーなコミュニケーション・デザイン、怖い構造をしていて、それでいて自然と治まるところに治まる。とくにお寺でやるといいカタチに治まるw

こういう「場」「偶然性」「直観」「遊び」「他者」「声」といった要素が複雑に絡まりあっていて知性、身体性というよりも「霊性のワークショップ」である…というのがまわしよみ新聞の核ではないか?というのがトークの骨子でした。

普段のまわしよみ新聞のサミットなどでは「まわしよみ新聞は新聞の魅力再発見につながる」「雑談力=営業力に使える」「アクティブ・ラーニングのツールにいい」「アイスブレイクにもってこい」といった「活用法」「実用法」について話が展開していくのですが、まわしよみ新聞の「背景」「思想」「哲学」などを探るトークはあまりやってないのでw 個人的には、いい時間になったように思います。

そして、ここまで話を深堀りできたのは、やはりご登壇いただいた「イキのいい」(秋田光彦住職のお言葉よりw)お坊さん、御三名のおかげです。深い言葉をいろいろと頂きましたし、いくつかのキーワードに「なるほど…!」とうなりました。またじっくりと考えていこうと思います。

10周年は長いようで短いようで、コロナの空白の3年間もあり、ほんまに10年もやってるのか?と自分自身で時間間隔がよくわからないのですが、ただ単なるお寺の文化祭のための一企画が、まさかここまで世間に広まり、浸透し、展開し、物語になるとは思わなかった。いろんな方の人生に影響を与えている。まわしよみ新聞をキッカケに結婚した人までいる。なによりも僕の人生を劇的に変えました。感謝しかありません。幸せなことです。ありがとうございます。

トークは應典院の生みの親・秋田光彦住職にもご参加頂きました。ご感想をシェアします。秋田住職からはお祝いのビールとw 今回の素晴らしい場と時間をご提供頂きました。重ねて感謝の意を。本当にありがとうございます。

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まわしよみ新聞は、2012年應典院で誕生した。東日本大震災の翌年である。日本人が無常とか刹那を察し、コミュニティへの危機や関心を高めた頃だ。営々と築いてきた共同体がいとも容易く崩壊し、どう再建していくのかも重大な課題であったが、一番心を向けたのが眼前から喪われた無数の死者との関係をどう取り結ぶのか、であった。その一つの回路として、まわしよみ新聞が生まれた意味は大きい。

 今日、まわしよみ新聞10周年の集いで、創始者の陸奥賢さんが、全国いろんな会場で実施するが、「お寺との相性が一番いい」といったのは腑に落ちる。というか、それがまわしよみ新聞が「霊性のワークショップ」(陸奥さん)である所以であろう。新聞教育の手法にだけ陥ってはならないとも思う。

 もう一つまわしよみ新聞が10年続いたわけは、拠点を持たず、定着しないことを貫いたからだ。経験的に私は知っているが、場は長く続くほど硬直していく。お馴染みさんという妙なヌシが現れて自由度が損なわれる。私は25年間、幾度となく場をつくっては壊してきたが、それは場を守る唯一の法則だからだ。

 まわしよみ新聞は特定の拠点を持たない。絶えず落ち着かない。陸奥さんが全国各地を流離うように、この新聞はあり方自体がノマド(漂泊者)なのだ。無頼のメディアというにふさわしい。

 対話者のイキのいい僧侶が陸奥さんと3名並んだ。何で10周年でお坊さんなのか、まわしよみ新聞がそもそも宗教性のメディアなのだということが語らいからよくわかった。

 また本当に久しぶりにこういう場に再会した。声が空気に響き、気づきや発見や納得が腹に落ちるという感覚は、私にとって本当に愉悦であった。延々4時間を並走した参加者の知力・体力にも感心する。

オンラインからそろそろ卒業しよう。ゆっくりでいいから、本当の場の再生に向けて歩き出そう。そう願う。


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室戸経由の台風

2022 年 9 月 19 日 Comments off

大阪は過去の傾向では室戸経由の台風が最も危険な台風となる。室戸(1934)、ジェーン(1950)、第二室戸(1961)、21号(2018)もみな同じルート。台風は規模もあるがルートこそが最重要となる。

そういう意味では台風の上陸地(高知県・室戸岬から上陸したから室戸台風)で名前をつける方が住民の防災意識を高めてよい。よくわからない台風名(今回のナンマドルとか)では台風ルートの危険性が認知されない。昔のように国内ニュースでは上陸地での台風名にして報道できないものか?

ちなみにジェーン台風は本当は第二室戸だが、当時の日本は占領時代(1945〜1952)だったので、米国の慣習に従って女性名ジェーンの名前が台風につけられた。

だからジェーン台風は「第二室戸」で、第二室戸は「第三室戸」になる。21号も「第四室戸」と名づけた方がいい。そういう認識を広めた方がいい。台風の上陸地、ルートを把握、予測して防災意識を高める。

※画像は大阪府サイトより。

https://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-thema1.html


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東京。国分寺。ぶんじ寮。

2022 年 9 月 7 日 Comments off

東京。国分寺。ぶんじ寮。

去年、メンタルヘルス焚き火アプリのクラファンのトーク企画でTakibito /焚き火とのみなさんとお知り合いになり、よく焚き火をしているというぶんじ寮が気になって初訪問。

いろいろと刺激的な空間でございました。今度はちゃんと滞在して、みなさんと焚き火したいなあ。

あと書庫に福島県立博物館さんのポリフォニックミュージアムのまち歩きフォトスゴロクノートを発見!広がってるなあ〜w


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大阪には残念ながら、遺憾ながら、文学館がない。じつに哀しく、情けない話。 万博なんかやるより大阪文学館を作る方がよっぽど大阪の都市格向上に繋がるんやないか?という気がするんですが…。

2022 年 9 月 7 日 Comments off

東京。目黒区。駒場公園。日本近代文学館。まあ、押さえておこうということで訪問。

川端康成の呼びかけで作られたとか。ほなら故郷の大阪に作ってほしかったなあ。

大阪には残念ながら、遺憾ながら、文学館がない。じつに哀しく、情けない話。

万博なんかやるより大阪文学館を作る方がよっぽど大阪の都市格向上に繋がるんやないか?という気がするんですが…。


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東京。目黒区。駒場公園。加賀百万石の前田藩16代が前田利為侯爵で、その豪邸。

2022 年 9 月 7 日 Comments off

東京。目黒区。駒場公園。加賀百万石の前田藩16代が前田利為侯爵で、その豪邸。

東京にもいくつか豪華な洋館があるが、有名な三菱財閥の岩崎邸の洋館は「迎賓館」として使われていた。岩崎一族は隣の和館に住んでいたのだが、前田侯爵は実際に洋館に住んでいたというところが面白い。そして隣の和館を迎賓館として使用していたらしい。

外国からの大使、貴族を迎えいれるのには和館での日本流の歓待が喜ばれる…ということだろうし、前田侯爵はヨーロッパ生活が長かったから洋館生活にも馴染んでいたのだろうが、やはり「大名」「華族」というのは、ちょっと世間離れ、浮世離れしているようで興味深い。

できた当初は東洋一の洋館と呼ばれたらしいが、それだけの大豪邸が無料で観れるのだから東京恐るべし。


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東京。目黒区。駒場公園。前田侯爵邸。資料展示、ギャラリーがあったが、前田一族のみなさんの写真が飾られていて、リアル華麗なる一族でビビる。

2022 年 9 月 7 日 Comments off

東京。目黒区。駒場公園。前田侯爵邸。資料展示、ギャラリーがあったが、前田一族のみなさんの写真が飾られていて、リアル華麗なる一族でビビる。


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■浄土宗 如意珠應山 極楽院 大蓮寺 年表

2022 年 8 月 22 日 Comments off

■浄土宗 如意珠應山 極楽院 大蓮寺 年表

天平15年(743) 『大阪府全誌』記載の大蓮寺寺伝によると行基が諸国行脚のさいに当地(三津寺あたり?)を訪れて小庵を結び、これが大蓮寺の起こりとある

昌泰4年・延喜元年(901) 菅原道真が大宰府左遷のさいに小庵に立ち寄って祈願したという(大阪府全誌)

天文19年(1550) 小庵は見る影もなく荒廃していたが、時の将軍・足利義晴の三男坊・晴誉上人によって足利家の大坂祈願所として創建された(大阪府全誌)。往時は東西5町、南北4町の大伽藍で塔頭8ヶ寺、直末175ヶ寺を有したが兵火によって全焼したという

文禄年中(1592~1596) 『摂陽奇観』によれば「堺より大坂にきた黄蓮社顯誉魯道泰純上人(應蓮社顯誉魯道心純の間違いか?)により開基する」とある。その頃は三津寺辺りにあり、その後、家康の命令で西横堀に移ったという。※大阪府全誌では慶長6年(1601)開基で5世顯誉魯道上人が家康に出願して中興し、その後、徳川家の祈願所となったとある

慶長19年(1614) 大蓮寺3代目住職・誓誉在慶の隠棲所として應典院が建立される

寛永9年(1632) 丸屋善太郎・五郎八兄弟が総高・6尺8寸7分=約208㎝の大鐘を寄進する。大蓮寺より西に延びる通りを「釣鐘筋(鐘筋)」といい、のちに高津新地(天明4年・1784~明治5年・1872廃絶)が出来て賑わった。明治36年(1903)に四天王寺が世界最大の鐘「頌徳鐘」を作るまでは大阪市内最大の梵鐘であったが惜しくも戦時供出で無くなった

延宝3年(1675) 『難波名所 蘆分船』に大蓮寺掲載

延宝6年(1678) 『難波雀』にて「大坂三十三観音霊場」として大蓮寺観音堂の記載

天和元年(1681) 「粥釜七ツ本堂の庭にならべて施行せし」とある(摂陽奇観)

元禄16年(1703) 近松門左衛門の『曽根崎心中』の観音巡礼の場にて大蓮寺が登場

正徳2年(1712) 「大蓮寺前にて鷺傳右衛門の勧進狂言」とある(摂陽奇観)

正徳3年(1713) 北条団水(井原西鶴の弟子)作の『日本新永代蔵』に堺の豪商・鵙屋宗安と婿・秋甫が大蓮寺にて粥釜七つの施行をしたというエピソードが記載される

延享4年(1747) 『浪花寺社巡』に「大阪十二薬師」として大蓮寺薬師堂の記載

宝暦11年(1761) 筑後・善導寺の仏像が開帳される(摂陽奇観)

天明9年(1772) 『大坂寺社順拝記』にて「金毘羅十か所」として應典院金毘羅堂の記載

寛政10年(1798) 『摂津名所図会』に大蓮寺掲載。絵図では門前に大道芸人が集まっている

文政4年(1821) 当代一の歌舞伎役者・初代嵐璃寛が亡くなり、遺品展を開催(摂陽奇観)

文政7年(1824) 美作国・誕生寺の仏像が出開帳される(摂陽奇観)

文政13年(1830) 大和・壺阪寺(南法華寺)の仏像が出開帳される(摂陽奇観)

天保13年(1842) 京・清水寺(北法華寺)から御本尊の千手観音(現在は33年に1度の御開帳の秘仏。2000年に御開帳し、次は2033年予定)が出開帳される

安政2年(1855) 『摂津名所図会大成』に「下寺町彼岸詣」の絵図。残念ながら未完成

明治29年(1896) 天王寺中学校(現・天王寺高校)が開校する。豊田貞次郎(1885~1961/海軍大将・外務大臣・軍需大臣・日本製鐵社長)などが大蓮寺校舎時代に学んでいる

明治36年(1903)以降 心学明誠舎講師の岡本孝道死去し、大蓮寺に心学の祖・石田梅岩、心学明誠舎の名づけ親・手島堵庵、岡本孝道の供養碑が建立される

明治42年(1909) 大坂を代表する寺子屋「龍雲堂」の根来誠斎の頌徳碑が建立される

明治45年(1912) ミナミの大火で境内の一部が焼失する

大正2年(1913) 大蓮寺25世・秋田貫瑞、『宗教界』にて『佛教藝術に就て』を寄稿

大正6年(1917) 大蓮寺26世・秋田貫融、台南學堂(現・南英高等専門学校)を設立し、校長となる

大正10年(1921) 藤永田造船労働争議(賀川豊彦、西尾末広らが参加していた)の報告集会の会場となる。藤永田造船以外の労働者にもストを呼び掛けるビラが配布され、熱狂した労働者によって大阪史上初の連帯ストが実施された

大正14年(1925) 当代随一の女義太夫・豊竹呂昇が引退し、記念碑が建立される

昭和8年(1933) 谷崎潤一郎の『春琴抄』にて大蓮寺がモデルと思われる寺(鵙屋春琴と佐助の墓がある)が登場する

昭和13年(1938) 『浄土宗寺院名鑑』に「大蓮寺・秋田貫融」「應典院・萬順雄」の記載

昭和20年(1945)3月13日未明、大阪大空襲によって大蓮寺、應典院共に全焼する

昭和28年(1953) パドマ幼稚園を開園(初代園長は第27世秋田嘉郎)

昭和32年(1957) 第28世秋田光茂住職が大蓮寺本堂を再建

平成9年(1997) 第29世秋田光彦住職(当時はまだ副住職)が中心となり、應典院を再建

平成14年(2002) 生前個人墓「自然(じねん)」を建墓

平成31年(2019) お寺の終活センター「ともいき堂」を建設



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大阪・下寺町 浄土宗 大蓮寺の歴史

2022 年 8 月 22 日 Comments off

大蓮寺さんのサイトでもレポートがでました。先だって大蓮寺生前個人墓「自然」の会員さま向けの「夏の集い」にて「大蓮寺の歴史」についてミニ講義をしました。

改めて大蓮寺の歴史を調べていると資料がいろいろと見つかりまして…。まずひっくり返ったのが大蓮寺には「行基開基」という寺伝があったことw

天平15年(743)に行基菩薩が諸国行脚のさいに立ち寄った小庵が大蓮寺の始まりとか。その後、菅原道真公も訪れて、中世以降は荒廃していたのを足利将軍家の大坂祈願所として再興したという話が『大阪府全誌』(大正11年・1923刊行)に掲載されておりました。

あくまで「寺伝」の類で資料的な裏付けはないのでしょうが、『大阪府全誌』の著者・井上正雄氏は当時の大蓮寺住職・第25世秋田貫瑞師、第26世秋田貫融師に取材して記事を書いていると推測され、少なくとも貫瑞師、貫融師は大蓮寺縁起について上記のような認識でいた…ということだろうと思います。

ぶっちゃけると結局「寺伝」なんて資料的な裏付けとかはないものでしてw 「いうたもん勝ち」なところはありますが、それでも「そういう寺伝がある」というのは、それはそれで蔑ろにはしてはいけない寺院の文化、誇り、矜持であるとも思います。

だから「2043年」は「大蓮寺開基1300年大祭」でして。これは大いにお祝いせないかんのではないか?と思いますなw 大変やなあ。1300年祭て…。

その他にもいろいろと大蓮寺の歴史に関しては発見がいくつもあり、目下、継続してリサーチ中です。大蓮寺ほどの名刹、古刹となりますとエピソードといいますか物語が尽きない。凄いお寺です。ほんまに。びっくりしました…。

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■大蓮寺:「自然」夏のつどいを開催しました。

https://www.dairenji.com/?post_type=informations&p=4703

去る8月21日、大蓮寺生前個人墓「自然」の会員を対象とした「自然・夏の集い」が今年も開催、約40名の参加がありました。今年のゲスト講師は、観光家である陸奥賢さんをお招きし、「大蓮寺の歴史」についてお話していただきました。下寺町の北詰めに位置し、繁華街と寺院との境目である大蓮寺は、文教や賑わいの拠点として長くその姿を守っています。最も遡れば、奈良時代からの縁もあったり、菅原道真が立ち寄ったという史実も残っているそうです。そのほかにも多くの新発見も目白押しで、気づきの多い時間となりました(資料写真参考)。

講演の後は、合同供養会を本堂と自然の墓前にて開催しました。
暑いなかでしたが、多くのご参詣をありがとうございました。


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最近、GAFAでもアナログの価値、アナログ的発想が見直されているとか。いわんとすることはわからないでもない。

2022 年 8 月 10 日 Comments off

最近、GAFAでもアナログの価値、アナログ的発想が見直されているとか。いわんとすることはわからないでもない。

まわしよみ新聞をやると若者、学生さんたちの反応は頗る良い。生まれた時からデジタルなものに囲まれていた彼らは新聞遊び=アナログな遊びが新鮮な体験となるらしい。

「アナログは万能である」とは到底いえない。しかし「デジタルは(まだまだ)万能ではない」とはいえる。デジタルとアナログを併用すること。ハイブリッドであれとは常々思う。

週に1回、月に1回でもまわしよみ新聞をやってみる。それだけで随分と世界観の広がり方は変わるんやないかな?

https://www.amazon.co.jp/dp/4772695621


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