画像はジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』・・・NYの下町魂、肝っ玉母さんの歴史的名著です。
ジェイン・ジェイコブズが提唱する「魅力的な都市」の4つの条件。
http://wiredvision.jp/blog/kojima/200801/200801240100.html
1.街路の幅が狭く、曲がっていて、一つ一つのブロックが短いこと
いくつものルートが利用できる「路地」の必要性。
2.古い建物と新しい建物が混在すること
新しい建築物ばかりではなく、古い建築物も残して、多様な都市のイメージを尊重する。
3.各区域は、二つ以上の機能を果たすこと
単一の用途しか持たないのではなく、2つ以上の機能を持っている。工業地域や商業地域、生活居住地域といった単純なゾーニングへの批判。
4.人工密度ができるだけ高いこと
子供から高齢者まで。企業家、学生、芸術家など、多様な人々がコンパクトな都市に生活している。
すごいですな。ヒューマンスケールのまちとはどういうものか?どうすれば、そんなまちが作れるのか?をズバリと提言してます。ル・コルビュジエや黒川紀章の仕事を、すべて一撃で粉砕、ノックダウンするような、この偉大すぎる知性。参りました。心の底から。
もっともっと読まれるべきです。知られるべきです。
http://www.prestonsturges.com/main.html
1941年(映画公開年)のNYタイムズのベストテンでは、あの『市民ケーン』を押さえて堂々のベストワンに輝いた伝説の名画です。日本では長らく非公開で1994年に初公開。ぼくは当時16歳でした。はじめてプレストン・スタージェス作品みたときはほんとに感動しました。
当時はワイルダー、キャプラ、ホークス、ルビッチなどにはまっていて、なにかの文献でスタージェスの名前を見つけたんですな。ぜひ見たいと思ったのですがまったくビデオがなかった。古本屋を探し回ってスタージェス祭のパンフを見つけたときは、文字通り欣喜雀躍しました。これ、映画の脚本が掲載されていて、本当に素晴らしいパンフでした。
『レディ・イブ』は旧約聖書のアダムとイブがモチーフ。 蛇、リンゴといった小道具が効いてます。神は細部に宿る。洗練されてるのにドタバタ喜劇であるのがスタージェスの真骨頂。オススメです。
「或老人の説に近松氏は学力厚きにすぎて其名高けれと其作古風にして婦女童蒙の耳に入かたき所あり海音の作はあらたにして能田夫児輩にわかりやすしと語られたりし」
『浪速人傑談』(政田義彦著・安政2序「続燕石十種」所収)より
紀海音の師匠が契沖というのもこれまた面白いですな。
元禄期の大阪文人の綺羅星の如くの才能。
「大阪あそ歩」の公式サイトがオープンしました。
※「大阪あそ歩」公式サイト
http://www.osaka-asobo.jp/index.html
大手の旅行会社が手配するプロのガイドさんではなくて、現地に住んでいて、現地にゆかりのある「大阪人」を案内役にして、「大阪のまち」を一緒にブラブラと歩いて、現地の知られざる物語や雰囲気、ストーリーを体験して楽しもうというプロジェクトです。やってみたら、これがもう、おもろうて、おもろうて……USJや海遊館、大阪城や通天閣と、大阪には名だたる観光施設がありますが、いっちゃんおもろいのは「まち」そのものですわ。今年は「春」「秋」の期間に実施される予定で、春は4月19日(日)からスタートして5月31日(日)まで、大阪市内で「25のまち歩き」「5つのまち遊び」が実施されます。
※大阪あそ歩のまち歩き、まち遊びの予約申込はこちらで可能です。
http://www.osaka-asobo.jp/bosyu/index.html
そもそも大阪の最大の観光資源、魅力というのは「ひと」です。たとえば徳川政権時代の江戸は人口100万人のうち50万人が武士、面積では武家屋敷が7割を占めていたといわれています。対して江戸時代の大坂は人口30万人で、武士はわずか1500人~3000人ほどでした。なにごとも町民たちが話し合いで決定した自治都市で、実際に大坂は「浪華八百八橋」といわれるほど橋が多い都市でしたが、そのうち公儀橋(幕府が作った橋)はわずか12しかありませんでした。町民たちが私財を投じて橋や堀、道路といった公共物を作って、みんなでそれを共有、シェアしていたわけです。それが大坂人の成功の証明であり、誇りであり、生きざまであったわけです。
「お上」とか「上様」といった政治的権威や権力はあまり通用せずに、「王様は裸だ!」と言い切るような実質主義が大阪人の特質です。「武士は食わねど高楊枝」的な痩せ我慢はなく、自分の中に明確な価値判断基準をもっていて「美味しいもの」「楽しいもの」「面白いもの」「素晴らしいもの」を追求します。世界に誇る演芸文化や食文化を生んだのも、こうした大阪人のメンタリティが土壌にあります。
人間主義で、ヒューマニストで、暖かくて、面白い。「はんなり」「まったり」という大阪弁がありますが、これが大阪人の性質で、大阪観光の最大の魅力はここにあります。大阪に旅行したさいは、この大阪人のパーソナリティにふれてほしいのですが、今回の大阪あそ歩は、その絶好の機会になりうると思っています。ぜひ大阪あそ歩に参加して、大阪の「まち」や「ひと」の素晴らしさにふれてください。
日本のマーケットはコミュニケートしないことで利益を上げようとします。自分をさらけ出さずに、殻に閉じ籠って、匿名で、仲間内で、安住することが支持されがちです。島国根性というやつでしょうか。
例えば、コンビニは商品を手に持ってレジにおいてお金を置けば事足ります。会話なんて全く必要ありません。ネットショッピングならクリックひとつで何もかも購入できる。いまは家、マンションまで買えるとか。簡単便利なように思えますが、じつは、こういったアンコミュニケートなマーケットが、歪な社会状況(クレーマー、モンスターカスタマー、無縁社会、自殺大国)を産んでいます。
今後の日本の課題は、コミュニケートすることで利益を上げるマーケットを作らないといけません。交流やマッチング、人間と人間とが触れあって成立する市場を作る。その構築が時代の要請になってきます。
現代中国の覇権思想は、19世紀後半から20世紀前半にかけての、列強支配による心理的ストレスが起因のポストコロニアル現象そのものです。それを「中華思想だ!」と非難する人は中国を知りません。中華思想とは元来、文化や礼儀を知る君子を頂点として、それに従わないものを野蛮、夷狄、蕃俗だと非難するものです。また巨大な万里の長城を作ったように、異民族はこっちに来るな!・・・という平和主義、鎖国主義的な思想です。
例えば、日本はかつて中国に朝貢外交してましたが、朝貢すると中国は数倍以上の回賜を送って返礼しました。宗主国が搾取して儲ける近代の帝国主義、植民地主義とはまるで違います。中華思想は平和秩序を重んじる、戦争を回避する、高度な安全保障システムでした。ぼくは現代中国には、この文化的で平和的な中華思想の本然を思い出して、発揮して欲しいと切に願います。
歴史の悲劇はポストコロニアルの中国がチベットを植民地化したこと。虐待された子供が親になると、同じように子供を虐待してしまう。その悲劇に似てます。
大阪にも派遣村ができたとか。「100年に一度の大不況」だそうで、大変な世の中ですが、ぼくがふと思い出したのは、ルイス・フロイスのこの言葉です。
われわれは宝石や金、銀を宝物とする。日本人は古い釜や、古いひび割れした陶器、土製の器などを宝物とする。
「日欧文化比較」(1562年 イエズス会宣教師 ルイス・フロイス)
1610年、オランダ東インド会社の船が日本の平戸を出航してバンタムへ到着しました。その船には「茶」が大量に詰められていて、これが欧州社会にはじめて入った茶です。じつはヨーロッパ人が歴史上はじめて飲んだ茶は「日本茶」(緑茶)でした。実際に当時のヨーロッパの文献では茶のことは日本風に「CHA」(チャ)と記載されています。いまのように「TEA」と呼ぶようになるのは後代のことで、江戸幕府が鎖国して日本茶の輸出がなくなって、代わって中国・福建省が茶の最大の輸出拠点となり、福建語の「TAY」(テー)が「お茶」(TEA)を意味する言葉へと成り代わったわけです。
ここで注目して欲しいのは、当時の日本の茶というのはただの飲料ではなくて、世界最高峰、最先端の「文化」として伝えられたということです。主人が身分を越えて、一服の茶を入れて、客人におもてなしをする。天下人の太閤秀吉も、堺の魚屋(ととや)の町商人・千利休と膝をつきあわせてお茶を楽しんだ。娯楽であり、社交であり、遊戯でありながら、そこには自由、平等、博愛という高い精神性が求められます。中世の封建的な西欧社会では成立しえなかったノーブル(高貴)な文化。「市民社会」という近代的自我の芽生え。それが戦国時代の日本……とくに大坂・堺(ここんとこは重要です。笑)にはすでに成立していたわけです。
西洋人は日本、中国などのアジアの茶の文化に触れて強烈なコンプレックスを抱きます。「国王と一市民が膝をつき合わせて、一服の茶を楽しむ」という、その高度な文化的背景が何であるのかを理解しないままに…というよりも理解しえないがゆえに、彼らは茶や茶道具を欲しがりました。最初にご紹介したルイス・フロイスの言葉は、当時のヨーロッパ人の日本に対する侮蔑の言葉ではなくて、羨望の言葉であるわけです。また寒冷地のヨーロッパでは、温帯植物である茶は自生できません。まさに未知、神秘、憧れの東洋文化の象徴がお茶であったわけです。
中でも、とくに茶文化に強烈にのめり込んだのがイギリスでした。フランス、イタリア、スペインなどの地中海国家にはワイン文化圏が成立していましたが、ヨーロッパ大陸、地中海から遠く隔てたイギリスにはワイン文化がなかなか成立しえなかった。またヨーロッパ大陸の水は「硬水」でミネラル成分が溶けて癖がありますが、イギリスの水は日本と同じように「軟水」であることも東洋風茶文化の流行を後押したようです。
18世紀中期にもなると、イギリスのお茶の消費量は全欧州の茶の消費量の約3倍以上を記録します。イギリス上流階級の婦女子は、中国風の丸テーブルに、東洋趣味の盆を置いて、日本製、中国製の陶磁器(白磁や青磁の茶瓶、茶器)を並べ立てて、奇妙奇天烈な東洋絵を飾りながら、茶をすすりました。それが最先端のトレンドとして持て囃された。よくよく考えれば、倒錯的で、摩訶不思議な光景ですが、例えばドイツのマイセン陶磁器の誕生の背景などにも強烈なアジア・コンプレックスが伺えます。
現代社会ではアニメやゲーム、カラオケといった日本文化が世界を席巻してますが、じつは17世紀前半から「茶の湯」という日本発祥の文化革命が欧州社会に蔓延していったわけです。19世紀に日本が開国して「浮世絵」に代表される「ジャポニズム」が欧州画壇に深く影響を与えるよりも以前の話で、おそらくは日本文化が西洋社会に与えた最初の「Japanese Invasion」であったと思われます。
当初は日本式の緑茶を飲んでいたイギリス人ですが、日本の鎖国が完成して、中国茶に移行すると、時代が経るに連れて次第に紅茶志向になっていきます。緑茶と紅茶の違いは茶の「発酵度合い」によるものですが、肉食文化の西洋社会では淡白な緑茶よりも濃厚な紅茶のほうが嗜好がマッチングしたようで、そこにミルクと砂糖をふんだんに投入して飲むというイギリス流紅茶文化が花開きます。
「なぜ茶にミルクと砂糖を入れたのか?」というと、それがイギリス上流社会の富と権力の象徴であったからです。とくに砂糖(さとうきび)は茶と同じく熱帯にしか自生しない植物で、その獲得のためにヨーロッパ諸国はやっきとなります。南米や新大陸にどんどんと進出していって植民地化して、広大なさとうきび畑を作り、そこにアフリカから黒人奴隷を大量に移民させて強制的に耕作させました。いまの時代の砂糖というのはただの調味料に過ぎませんが、当時は「砂糖1グラムは銀1グラムと対価」という時代で、豪奢極まりない、まさに王侯貴族のための飲み物であったわけです。
日本の緑茶文化は千利休の茶道に代表されるように「わび」「さび」といった美意識、精神世界へと深く没入していったのに、欧州・英国の紅茶文化は、金銀と等しい砂糖をふんだんに投入するという豪奢な物質主義の世界へと変容していった。東洋文化と西洋文化の特異性、相違点をよく現していますが、これは今日の東西文化交流の悲劇的誤謬の始まりともいえます。というのも「茶の湯」という象徴に込められた、豊かな精神的生活や卓越した美意識を持った日本文化に対するコンプレックスと憧憬が、アジア東洋社会への奇妙な模倣を生んで、ヨーロッパ社会に「物質文明」の幕開けを到来させたわけで、それがやがて20世紀初期には帝国主義へと変質して、全世界を支配するに至ったからです。
いまだに西洋文明のベクトルや理念は、物質主義によって世界を支配しようとしているように見えます。残念ながら、彼らはお茶を大量に生産して、大量に消費するだけでした。日本からは「茶道」が生まれたのに、西欧社会からは、ついに「茶道」が生み出されることはなかった。むしろ哀しいかな。生み出されたのは植民地と黒人奴隷と帝国主義といえるかも知れません。西欧人は東洋人と同じように茶を飲んでいながら、一服の茶にこめられた、気高き精神性や文化的教養を味わっていません。茶の湯に込められた和のノーブルを伝えること。それが世界に必要なことではないだろうか?・・・と、そんなことを思ったりしながら、夜中にひとりで原稿を書きながら緑茶をすすっております。
喫茶去。喫茶去。