中田ダイマル・ラケット 『僕の恋人』

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「もっとも好きな漫才師は誰?」と問われれば、ぼくは何の躊躇もなく、中田ダイマル・ラケットの名前を挙げます。ジャンケンという誰もがご存じの子供の遊技をモチーフに、丁々発止の遣り取りで展開する「僕の恋人」や、発想力、スケールの大きさが秀逸な「僕の漂流記」、爆笑モノの「家庭混線記」、出世作のスポーツ漫才「拳闘漫才」など、ダイラケ漫才は、どれを見ても変幻自在のおかしみに満ちあふれています。

ダイラケ漫才とは何か?と考えたときに、ふと思ったのが近松門左衛門の虚実皮膜論。ダイラケの漫才には「実」と「虚」とが織りなされた、曼荼羅のような笑いの奥行き、深さを感じます。最近の若手芸人の笑いは、動きとか表情とかリズムであるとか、即物的、テレビ的、プロレス的な「実の笑い」が蔓延していますが、ダイラケはイメージ的、思索的、哲学的な「虚の笑い」があって、そこには人間存在の限界性を飄々と越えた、あっと驚かされるような笑いの照射や含蓄があります。

これは大阪の文化土壌なんやと最近、しみじみ思ってます。大阪という土地は、長い歴史や文化を持ってます。奈良や京都より古い。記紀時代から連綿と歴史が折り重なった土地です。そこに住む住民たちの相互理解は進み、人間関係の心の襞(ひだ)にもすぐに気づき、1を聞けば2、3、4、5をパッと把握するような、機敏に長けたコミュニティ社会を形成しました。実際、大阪弁は、そうした言語特性を持ってますよ。「まいどおおきに」「よろしおますなぁ」「あんじょうたのんまっさ」…自分主体ではなくて、相手のことを常に思いやり、響きひとつとっても、柔和で、情があって、優れた世間智が含まれてます。

普段の社会生活においても、そうした鋭敏な言語感覚で暮らしているのだから、これが演芸・芸術の創造世界となれば、これはもう、1の事例を、7、8、9、10にまで拡大解釈して、虚虚実実の世界を繰り広げ、そこにどっぷりと没入してしまう…そんな飛躍した想像力と感受性が、大阪人にはあるんですわ。

人間存在の「実」や「虚」の移ろいを、いとも易々と、悠々と、大らかに楽しむ大阪人の豊潤なイマジネーション。それが近松の芸術やダイラケの漫才を生んだ。公家、武家といった制度に呪縛された京都や江戸には、こうした笑いや文化はなかなか育たないもんです。アンチテーゼ、反権力としての笑いや文化は育ったとしても、大阪的な、空を突き抜けたような、開放された、イノセントな笑い、荒唐無稽なファルスは生まれない。

結局、これが大阪の最大の武器でしょうなぁ。笑いこそ、大阪の華です。


2009年 5月 5日
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