大阪府東大阪市にある河内一ノ宮・枚岡神社は、日本古代史上の一大聖地です。ここには初代天皇・神武天皇が東征をする以前から、謎の天孫族ナガスネヒコが住んでいました。枚岡神社のある生駒山脈は、大阪・河内(港)と奈良・飛鳥(都)を睥睨する拠点で、ここを抑えることは天下を押さえることを意味していたんですな。だから神武天皇も東征で当地の征服を目指したんですがナガスネヒコに大敗北を喫しました。そこで大迂回をして和歌山経由、熊野経由で奈良・飛鳥に入って天皇(スメラミコト、オオキミ)を名乗ります。「記紀」によれば日本という国はここから始まったこととされているんですが、よくよく考えると天皇家よりも強い天孫族が依然として大阪・河内に存在していたことになります。古代ヤマトは天皇中心の中央集権国家というよりも、地域部族の連合体であったことを暗示しています。
まぁ、そういった蘊蓄はさておき。以下は、お世話になっております、いずみ縁さんから枚岡神社の『笑い神事』の案内メールです。素晴らしい神事ですので、ご都合の合う方はぜひともご参加してください。
いつ頃からある神事なのか不明ですが、神武天皇を打ち破った山で大笑いするというのも非常に意味深やなと、ぼくなんかは考えるんですが・・・。
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笑い笑って日がのぼる 枚岡神社@12月25日
http://www.hiraoka-jinja.org/index.html
河内国一之宮枚岡神社神様が坐す神聖な場所日本のあけぼの地 (近鉄奈良線枚岡駅前)
元春日と称えられ、2600年前創建されたという河内一之宮枚岡神社静かな神奈備山には、日本最古と言われる豊かな森がひろがり神武天皇上陸の聖蹟の碑や、歴史上のプリンス達のひそやかな息使いが聞こえるような場です。数々の伝説の中で古代より、ひっそりと行われてきたご神事・・・この古式ゆかしいご神事は、室町時代より続く粥占神事の前に祭事として、冬至の日に行われていました。
昨日の冬至と、四百年に一度の皆既月食を越えて、新しき太陽が生まれかわった今日のこの日に、この様なメールを回せる幸せを感じます。時代が目まぐるしく変化しても、いつの世の日本人も自然のうつろいにそい、独自の美意識の中で脈々といにしえより伝わる祭を繰り返してまいりました。
今年も、天岩戸をひらく『笑い神事』は明日12月25日午前9時
前日より神社総代によってつくられた新しい注連縄(しめなわ)が はり渡され、その前で、中東宮司さま以下、神職、総代、氏子が「アッハッハー」と高笑し新しい春を迎える笑いの行事。今年一年のしめくくりに、感謝と祈りをこめて、皆さん誘い合わせてたくさんでお運びください。よろしくお願いします。
笑福会事務局@いずみ縁上本町ANNEX
大坂名物「往来安全」の行燈です。
江戸時代の大坂市中では、町人たちが自分たちでお金を出して、軒先にこうした「往来安全」の行燈を掲げたそうです。この行燈のおかげで、文字通り、夜中でも安全に町中を往来できました。これは江戸や京都にもない風習で、大坂名物でした。日本国中の都市の人間が、この行灯に驚いた。
つまり、大坂の町衆の、自治精神の象徴たるものが、この「往来安全」の行灯だったということです。自分たちで、自分たちのまちを作る、守るということ。その代わり、大坂庶民の多くは長屋に住み、地子銀(税金)を納めませんでした。
じつは当時は「屋敷持ち」が地子銀を納める義務があったんですが、大坂庶民は、金を持っていても、わざと長屋に住んで地子銀を払わなかったそうです。いろいろと諸説はありますが、大坂三郷30万人のうち、9割が長屋住まいだったといいますから、凄まじいですな。みんな節税の鬼でした(笑)
しかし、その代わりに、長屋住まいでも町人として認定されたそうで(普通は借家人として町会などには所属できませんでした)「町内式目」をちゃんと守っていました。お上のいうことには逆らいましたが、町会から「往来安全の行燈を出しなさい」といわれたら、借家人でも、自分の金を投じて、軒下に行燈を掲げたんです。
幕府に金は払わない。その代わり、自分たちで、まちを管理する。幕府にゴチャゴチャいわれんでも、自由にまちを作り、生活を楽しみ、遊びを謳歌したのが江戸時代の大坂でした。
ぼくは、現代の大阪を、まちを本当によくしようと思うなら、かつての江戸時代の大坂に倣うのが、いっちゃんええと思ってます。何故なら、まちに住むものが、まちのことを1番よく知っているから。まちを愛しているから。責任があるから。減税、無税にして、市民に、自治で、都市を、自分たちのコミュニティを管理させる。こうすれば行政コストも大幅に少なくできます。江戸時代、30万都市の大坂を、わずか1500人程度の武士で取り締まっていました。
いまは時代の過渡期とみています。いずれ、市民が、まちを、取り戻すでしょう。取り戻さないといけません。
道頓堀を開削した道頓、道卜の供養墓です。「贈従五位 安井道頓居士」「贈従五位 安井道卜居士」と刻まれています。
道頓は天文2年(1533)~元和元年(1615)の人物で、道頓堀の開削者です。苗字は安井説と成安説があってはっきりしていません。通称は市右衛門で、剃髪後に「道頓」と名乗ったといいます。
生涯は謎につつまれていますが、天正10年(1582)に大坂城の外壕掘削と猫間川の整備に対する功労で、秀吉から現在のミナミ界隈の土地を拝領したといいます。その後、慶長17年(1612)にミナミの開発には河川が必要として豊臣家の許可を受け、私財を投じて水路(これが後の道頓堀)の掘削に着手しました。ところが元和元年(1615)に大坂の陣が起こり、豊臣家に恩がある道頓は大坂方について大坂城で討死。しかし、水路そのものは幕府から許可を受けて道頓死後も進められ、従兄弟の安井道卜が跡を継いで完成させたといいます。
道頓は、おそらくは若い頃は豊臣家に仕える武士やったんでしょう。土木工事などが上手かった。加藤清正のような武闘派というより、石田三成的な実務家だったのかも知れません。いずれにせよ、大坂城のすぐ近くに土地をもらったほどですから、よっぽどの才能で、秀吉にも愛されたのでしょう。そして剃髪したということは、武士をやめた隠遁者であり、市井の人になったということです。町民になった。だから、新しいミナミというまちのために、私財を擲って水路を開発しようとした。
基本的に、商人というものは、利で動きます。例えば堺の商人は、徳川VS豊臣で、徳川の勝利と見て、長らくお世話になっていた豊臣方から手を引いて、家財道具をもって逃げ出しました。おかげで堺のまちはカラッポになり、豊臣方の武将・大野道犬に逆上的に放火されています。
ところが道頓は、生粋の商人というわけではなかった。豊臣の危機ということで、かつての武士の血が騒いでしまった。道頓ほどの聡い男であれば、豊臣方が負けるのは、当然、わかっていたはずです。しかし、元武士として、最後の最後は、利ではなくて、美学、イデオロギー(正義体系)で動いた。老体に鞭打って、大坂城に駆けつけた。もう齢はすでに80を超えてますから。すごい行動力です。本人は嬉しかったかも知れません。ついに、武士として、最高の死に場所を見つけた。男子の本懐である。
しかし歴史の残酷さは、大坂の陣では家康の計略で大坂城の外堀が埋められたこと。そのときに、まだ未完成の、掘削中の水路も、埋められたことでしょう。大坂城にいた道頓は、我が愛するミナミの水路を埋められる様子を見て、なんと思ったか?豊臣家だけではなく、我が愛するミナミのまちまで、踏みにじられた。武士としてではなく、町民としても、徳川を許せないと思ったことでしょう。
水路は、道頓の死後、徳川時代になってから完成しました。その名を決めるに当たって、幕府は敢て「道頓堀」の名を許可しました。幕府なりの「町民・道頓」に対する鎮魂であり、謝罪だったと、ぼくは思ってます。
いまの人形浄瑠璃、文楽は三人で一体の人形を動かします。だから人形とは思えないほど優美な動きを再現することが可能です。全世界に人形劇はありますが「三人使い」ほど、贅沢で、豪奢な、人形劇はありません。江戸時代の大坂の大豪商、パトロン、観客の支持が、その実現を可能にしました。ユネスコの世界無形文化遺産登録は当然ともいえます。
それで面白いのが近松門左衛門が活躍した時代の人形浄瑠璃は、じつは「一人使い」であったことです。近松の心中ものは、いま我々が見ているものと違って、もっとカクカクしていた筈です。もっともっと人形めいていた。だから良かったといえます。
どういうことか?というと、近松の心中ものの描写はやたらと生々しいんです。まず実際にあった事件です。そして男と女が愛欲の果てに、世を怨み、首を括って、喉を突いて、井戸に身を投げて、死ぬ。あまりに悲惨。無惨。例えば『心中天の網島』での紙治の最後はこんな描写です。
「泣きてつきせぬ名残(なごり)の袂(たもと) 見捨てて抱(かかへ)を手繰り寄せ。首に罠を引つ掛くる。寺の念仏も切回向(きりえこう)。有縁無縁乃至法界。平等の声を限りに樋の上より。一蓮托生南無阿弥陀仏と踏みはづし しばし苦しむ。生瓢(なりひさご)風に揺らるるごとくにて。次第に絶ゆる呼吸の道 息堰(いきせ)きとむる樋の口に。この世の縁は切れ果てたり」
紙治の首吊り死体を「成瓢 風に揺らるるごとく」とまで冷徹に、残酷に描写する。恐ろしいほどに、リアリティに徹しています。この近松のリアリティを、歌舞伎などで演じたら大変です。見てられないぐらい怖い。しかし人形でやるから救われるんですな。正(現実、リアリティ)と反(人形、虚構)が止揚することで、いままで見たことがないような、新しい美の世界が開ける。それを近松は虚実皮膜論といいました。実のような、虚のような世界こそが、もっとも美しいと・・・。
つまり近松は、人形であるからでこそ、思いっきり、リアリティ溢れる描写に書き下ろすことが出来た。もしかしたら近松が「三人使いの人形浄瑠璃」の時代に生まれていたら、近松は、あれほど近松たりえなかったかも知れません。果たして、これほど冷徹に、残酷に、心中ものを描写することができたかどうか・・・?ぼくは、少し疑問に思ってます。
人形浄瑠璃の歴史を調べてみると、近松の一世代後輩の竹田出雲の頃には、もう「三人使い」になっています。つまり近松が活躍した時代は、人形浄瑠璃の試行錯誤の時代でした。それゆえに近松は、大胆不敵に色んな作劇術、演出をチャレンジできた。近松は、人形浄瑠璃が人形浄瑠璃として完成する前、勃興期の、ある意味、稀有な時期の作家だったといえます。
一度、ぼくは近松の心中ものを「一人使い」の人形浄瑠璃で見てみたいなぁ、と思ってます。そうでないと、近松が狙った美が体感できないのでは?と。そういう復刻があってもいいと思っているんですが。関係者の皆さん、どうでしょうか?(笑)
今日は近松忌。以上、断想でした。
1970年当時の日本の人口は約1億人でした。同年開催の大阪万博の総入場者数は約6400万人。恐るべき数字です。この世紀のイベントのおかげで、「人類の進歩と調和」という「万博幻想」が日本全体を包み込み、日本人は資源もエネルギーも無限にあると錯覚してしまい、「大きいことはいいことだ」「メタボリズム建築」「日本列島改造論」「使い捨て」といった傲慢不遜な一過性社会を増長させました。
本当は1970年は「地球資源は有限である。いままでの工業文明は曲がり角に来ている」ということを訴えるべき段階に来ていたはずなのに、日本はアメリカの大量消費文化に憧れて、まるで正反対のことをしてしまいました。その結果が1980年代の史上空前の「バブル経済」と、1990年代の「バブル崩壊」と、2000年代の「失われた時代」です。
日本が時代遅れの工業社会化を熱心に進めているあいだに、1970年代のアメリカで起こったことが、マイクロソフト(1975)やアップル(1976)の創業で、IT産業の勃興だったことを考えれば、日本は決定的な、致命的なミスを犯したといっても過言ではないでしょう。
じつは松下幸之助は1964年の段階でコンピューターの存在を知っていたんですが、「コンピューター?あんなもんようわからん。あきまへん。ソロバンでよろしい」といってコンピューター事業から全面的に撤退したんです。正直いえば、これが「経営の神様」と崇められている松下幸之助の限界でした。いや、松下幸之助がダメだったというのではなく、おそらく「戦後日本式経営の限界」だったのでしょう。
もう、いい加減、大阪万博の幻想から脱却しないと。それが次の大阪、日本を作る、第一歩だと思ってます。
「関西あそ歩」の堺コースのまち歩きに参加。水野鍛錬所さんにて堺の鍛冶職人の歴史、ものづくりの系譜について、説明を聞きました。
堺のものづくりは、古代の古墳の造営からスタートして、その後、土器(須恵器)、河内鋳物師、日本刀、種子島(鉄砲)、堺極(包丁)、自転車と連綿と続きました。1500年間、ものづくりをやってきて、それが今も息づいている。ものづくりのまちとして、生きている。こんなまちは日本はおろか、世界を探しても、なかなかありません。
例えば奈良の平城京にいっても再現された大極殿があるだけです。京都御所にいっても天皇はいません。奈良も京都も政治都市として作られましたが、それらはすでに機能を失い、死んでしまっています。
しかし、堺の街角を歩くと、いまも鍛冶の音が聴こえてきます。この鍛冶・・・ものづくりの音は与謝野晶子や千利休はもちろん、信長、秀吉、家康の三英傑も聞いたし、遠く行基や、仁徳天皇も聞いたはずです。そこが堺のまちの面白いところです。
「遺産」ではなく「現在進行形の財産」。それが堺の最大の誇りでしょう。脱帽です。
大阪・堺は顕本寺にある薬種商人・高三隆達(1527~1611)の顕彰碑です。高三隆達は日本の小歌の元祖「隆達節」を生んだ男として知られています。
「小歌」とはなにか?その話の前に「大歌」の説明がいります。大歌というのは、宮中儀式などに謳われる歌・・・要するに奈良や京の公家の歌です。大歌は格式張って、色々と制約があって、じつにややこしいんですな。例えば文字数にも片歌=577、短歌=57577、仏足石歌体=575777と文字数だけでも面倒なルールが沢山あります。
隆達節、小歌はそういう制約はほぼありません。じつに勝手気儘。隆達は戦国時代の堺の人間ですが、当時の堺は、日本で初めての町人社会が形成されつつありました。公家階級、武士階級ではない町人階級の勃興。町人は自由・平等・博愛を尊びます。そうした気運の中から生まれた隆達の歌は、自分たちだけの、おもろい、素直な心根を反映したものでした。ソボクな町人文化が、小歌という形となって出てきた。だから隆達の歌は「自由詩的」なんです。例を挙げます。
7 雨のふる夜の
5 独寝は
7 いづれ雨とも
5 なみだとも
7 梅は匂ひよ
7 木立はいらぬ
7 人は心よ
7 姿はいらぬ
7 君の心の
5 叢雲に
7 涙の雨の
7 降らぬ日もなし
7 交わす枕に
7 涙の置くは
7 明日の別れを
5 思はれて
また隆達の面白いところは、小唄が500首以上伝わってるんですが、そのうちの約8割が恋愛、ラブソングであるところ。堺の薬屋のおっちゃんですから、庶民感情丸出し。ストレートで、今でも通用するぐらい、わかりやすいです。『万葉集』『古今和歌集』などは読んでいても枕詞や掛詞で、よくわからない部分も多々あるのですが、隆達小唄は平易で、現代人でも立派に通用する普遍性をもっています。とくに隆達が得意とした「7775」の歌形は、江戸時代に入ると大流行して、とくにお座敷、遊郭などでよく歌われました。
7 立てば芍薬
7 坐れば牡丹
7 歩く姿は
5 百合の花
7 惚れた数から
7 振られた数を
7 引けば女房が
5 残るだけ
7 三千世界の
7 鴉を殺し
7 主と朝寝が
5 してみたい
要するに、いまでいう都都逸です。これは隆達が作ったわけではないですが、隆達節から派生したものです。こうして後世に多大な影響を与え、日本の歌、庶民文化の草分けであることから、時には隆達は「日本のシンガーソングライターの元祖」なんてこともいわれます。
ちなみに顕本寺には隆達ゆかりの有名な「君が代屏風」(レプリカで、本物はボストン美術館にあります)が伝わっています。六曲一双の屏風で、堺の遊郭の風景が描かれたものですが、その脇に隆達直筆の小唄が並んでます。慶長7年(1602)、隆達75歳のときのもので(75歳にして遊郭絵に小唄を書き下ろすところが隆達の深さ、凄さです)、この最初の一首が「君が代は 千代にやちよに さゞれ石の 岩ほと成りて 苔のむすまで」。
「君が代」は古今和歌集に収められている古い歌ですが、隆達は「君」を「愛する女性のこと」として借用したわけです。じつは「君が代」が広く人口に膾炙したのも、隆達が遊郭のラブソングとして歌ったからという説があります。有名になったおかげで、明治維新以降に国歌として採用されたとか。「遊郭で君が代が歌われていた」というと妙な具合ですが、どうも歴史的事実のようです。
歌は世につれ。世は歌につれ。歌ひとつにも、色んな物語があります。