その昔、大坂には「大坂七墓」(濱、梅田、葭原、千日、蒲生、鳶田、小橋)がありました。そのうちの「濱」が、現在の豊崎にある行基菩薩開基南濱墓所(南浜墓所)に繋がっているといわれています。
ここは日本最初の火葬所ともいわれています。それまで倭人の葬送は土葬だったのですが、行基の導きによって、我が国で初めての火葬が行われたとか。
古代には土葬は儲かりました。大王や豪族というものは大きな古墳を作りますから、これは一種の公共事業、土木工事で、ビジネスやったんですな。ところが時代が経るに連れて、あっちこっちに古墳ができますから、そのうち用地も少なくなっていきます。大きな古墳というものは作れないし、作らない。そうなると事業にならないし、儲からない。
こういうときに行基が土葬ではなくて、火葬という新しい葬式システムを導入したんですな。というのも火葬は用地は必要としませんが、莫大な薪が必要でした。専門的な技術も必要でした(70%が水分である人間を、綺麗に骨だけ残して焼く・・・というのはなかなか難しいとか)。つまり古代では土葬にするよりも、火葬にするほうが費用がかかったんです。だから天皇、貴族といった金持ちは火葬でしたが、庶民はずっと土葬のままでした。
行基という人は、日本全国に温泉を掘ったり、橋を掛けたり、ため池を作ったりして、僧侶というより、完全に土木工事の親方です。最終的には国家の依頼で、東大寺の大仏まで建立しました。また行基の手下には「土師」(はじ)の一族がいて、これらが、そうした公共事業や土葬をやっていたようです。しかし、土葬に関して云えば、これはもう儲からないということで、行基の指導の下で、火葬を執り行う祭祀集団に切り替えたんでしょう。そうすることで、彼らのビジネスを成立させた。「土木コンサルタント 行基」ですな(笑)
学者先生は、土葬から火葬という流れは、日本人の死生観が神道式から仏教式に変わった証明・・・なんて難しいことをいうんですが、それも一理あるでしょうけれど、本当は、こうした経済的な理由もあったと思います。世の中、金が動かすということでしょうか。
お好み焼きの「ぼてぢゅう」いうんは大阪人らしいネーミングですな。いまはどこでもお好み焼にマヨネーズとからしをつけますが、この味付けは「ぼてぢゅう」が考案しました。店名の由来はお好み焼を「ぼてっ」とコテで返して鉄板の上で「ぢゅう」と焼くことから。非常に即物的。しかしリズムが良い。最初は「ぼ」の「濁音」から始まって最後は「ぢゅう」と「拗音」+「長音」で終わる。どこかユーモラスが漂う。即物的な擬音の羅列でありながら、お好み焼の匂い、熱、色、味のイメージまでもが彷彿とさせられる。唯物的であるのに一抹のおかしみがある。なかなかこんな店名おもいつけません。これぞミナミの、大阪人のセンス。
http://www.botejyu.co.jp/
フグいうたら扱いは細心の注意が必要です。血管や肝に毒があるそうで1本1本ピンセットで抜くそうですな。細かい神経の人間がやらなあかんのです。「ずぼら(づぼら)」な奴では困る。「ずぼら」いうんは大阪弁で「不精をする」「なまけもの」「面倒臭がり」みたいな意味です。「あんた、そないずぼらしたらあかんで」なんて具合に使いますが、そういう人間はフグの調理にはいっちゃん向いてない。しかし大阪ではそれがフグ屋の店名になってる。曰く「づぼらや」。フグ屋やのに「づぼら」いうたら「毒残ってまっせ。知りませんで」というようなもん。しかし安い。美味い。大阪の船場の旦那衆は「おもろい店や」いうんで通って流行りました。
http://www.zuboraya.co.jp/
「食い合わせが悪い」食べもんいうんが世の中にはあります。「天ぷらと西瓜」「蟹と柿」「鰻と梅干し」あたりは有名ですな。食道楽の大阪人もそのへんは敏感でした。ところがそこを逆手にとった店もあります。それがおでん(関東煮)の老舗「たこ梅」。じつは「たこ」と「梅」いうんは食い合わせが悪いもんとして忌避されてたんですな。一緒に食べると食あたりを起こす。食中毒を起こす。ところが、それを店名にした。これまた大阪流のブラックジョーク。ここは織田作の「夫婦善哉」にも出て来て有名です。
http://www.takoume.co.jp/
ミナミ、道頓堀を歩いていて、ふと。
堺の老舗鍛冶屋「水野鍛錬所」さんが店先に与謝野晶子の『住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路』の歌碑を建立したそうで、その除幕式に参加させていただきました。
「ななまち(七町)」というのは、宝暦8年(1758)に堺奉行・池田筑後守正倫の取り計らいで、堺製のタバコ庖丁を幕府公認として日本全国に売り捌くことになり、そのさいに37軒の鍛冶屋を公認業者として指定しましたが、それらの業者が堺北部の北旅籠町、桜之町、綾之町、錦之町、柳之町、九間町、神明町の「七町」に住んでいたことに由来するとか。カジヤ業界の専門用語らしいのですが、それを与謝野晶子が知っていたというところが、また面白いですな。いまはあまり聞かれませんが、堺では「ななまち」といえば有名で、ブランド化していたということなんでしょう。もちろん水野鍛錬所さんは、その「ななまち」(現在の桜之町西。紀州街道沿い)にあります。
「七」と「菜の花」の「na」の音の羅列。それを挟んで「住の」「和泉の」「街の」「七まちの」「鍛冶の」「菜の」「花の」と「no」の音が、まるで鍛冶屋のトンテンカンの音のようにリズミカルに響く。与謝野晶子というと、どうも情熱的な「明星派」の閨秀歌人といったイメージが先行してますが、じつはこうした音感、街の臨場感、都市感覚の表現にも優れた歌人やったんやなぁと改めて敬服しました。
晴天。じつに素晴らしい除幕式。水野鍛錬所さん、ありがとうございました。
日経新聞の記者さんから「大阪のまちの名称について」意見を求められて、電話取材にお答えしました。以下がその記事です。
大阪の繁華街「キタ」「ミナミ」、名前の由来は…
「今夜はキタで飲もう」「この服、ミナミの百貨店で買ったのよ」。大阪では聞き慣れたこの会話。キタは梅田周辺、ミナミは難波周辺を指すのは関西人だけではなく広く知られた事実だ。ではキタやミナミの呼び名はどのように浸透したのだろう。ヒガシやニシという言葉はないのか。
キタ、ミナミという言葉はどれほど定着しているのか。大阪市によると、いずれも公式文書で使われる正式な表記だ。ただ定義はあいまいで「繁華街としての大まかな場所を指す程度」(同市)という。
ではいつから、どのようにキタやミナミの呼び名が広がったのか。大阪市にまつわる歴史的な地図や資料を数多く保存する大阪市史編纂(へんさん)所(西区)を訪れた。
「キタやミナミは『北』『南』という単なる方角ではなく繁華街の固有名詞が崩れて愛称になったと考えるのが自然でしょうね」と話すのは大阪市史料調査会の古川武志さん(39)。明治時代の文献には「堂島の北、これを北の新地という」「南の新地、南地五花街」との記述が登場する。
古川さんによると、キタやミナミの語源は江戸時代に遡る。当時、住居や商店が集まる中心街は船場だった。現在のキタは森や畑が広がる村で、ミナミは寺や墓場などが目立つ土地だったという。キタとミナミは、まちづくりのために江戸幕府が人為的につくった地域だった。
ミナミの発祥は芝居小屋が幕府の許可を得て道頓堀に置かれたことが始まり。客が立ち寄る茶屋などが周辺に生まれ、繁華街らしく成長した。
一方、キタは商人が接待に利用する町として栄えた。中之島の蔵屋敷でコメの取引をした後、商売人が接待に使う町がないということでつくられたのが「北の新地」という。
さて、ヒガシやニシはどうだろうか。特に目立った地域がないことについて、大阪21世紀協会の堀井良殷理事長(74)は「船場を起点にすると、東は大阪城で西は大阪湾。繁華街が生まれる余地がなかったのだろう」とみる。
もっとも、まちおこしのキーワードとしてヒガシ、ニシが注目される機会もあった。
1990年発行の京阪電気鉄道の社史には「キタの中心が梅田、ミナミの中心が難波なら、ヒガシの中心は京橋だ」とある。同年4月にはJR京橋駅のある城東区に隣接する鶴見区などで「国際花と緑の博覧会」が開幕。京橋周辺には高層ビルが並ぶ大阪ビジネスパーク(OBP)が誕生、市営地下鉄鶴見緑地線(現長堀鶴見緑地線)が開通した。
社史によれば、ヒガシは京橋だけでなく、天満橋や大阪城、大阪府庁など官公庁を含むエリアを示す。新京橋商店街振興組合(都島区)の事務局担当者は「組合内では京橋をヒガシと呼ぶこともあるのに、なぜ一般に定着しないのでしょうか」と首をかしげる。
ニシはどうか。西区の自営業者らはニシという呼び方を定着させようと、2009年、「大阪ニシ.com」というポータルサイトを立ち上げた。
ただニシが阿波座や弁天町など西区や港区を指すのか、さらに西側の埋め立て地やユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、此花区)などベイエリアまで指すのか、議論の分かれるところだ。埋め立て地がさらに西側に広がる可能性もある。「ポイントとなる繁華街は決められないのです。まちづくりは“発展途上”ですから」(古川さん)
「エリアを大ざっぱに表現すると街の色が消える。細かい地名で呼んでほしい」と訴えるのは、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会のアシスタントプロデューサー、陸奥賢さん(32)だ。
同会が企画する「大阪あそ歩」では、大阪市内で150コースの町歩きツアーを実施している。「船場と一口に言っても『八百屋町』『鳥屋町』など、かつて同業の人々が店を並べていた土地を指すような地域名が住民の間に伝わっている」(陸奥さん)
呼び慣れたキタやミナミ、なじみは薄くてもヒガシやニシの背景にある地域の歴史や人々の思いを知り、奥深い大阪への愛着がぐっと深まった。
(大阪社会部 松浦奈美)
[日本経済新聞大阪夕刊オムニス関西2010年12月1日付]
『忠臣蔵』の大石内蔵助良雄は有名ですが、父の大石権内良昭はまるで知られてません。ましてや、その父の墓が大阪市北区兎我野町の円通院にあることは、もっと知られていません。
大石良昭は寛永17年(1640)~延宝元年(1673)の人で、赤穂藩浅野家筆頭家老の大石良欽の嫡男です。父の死後には赤穂藩筆頭家老になるはずでしたが、赤穂藩の大坂屋敷に勤めていたさいに急逝(享年34)しました。その後、大石内蔵助は、祖父・大石内蔵助(祖父も内蔵助といいました)良欽の養嗣子となって大石家の家督を継ぎました。
ここで面白いのが、祖父の良欽は、寛文元年(1661)に京都内裏が炎上したさいに、新内裏造営を命じられた赤穂藩主浅野長直に代わって京都へ赴き、造営工事の総指揮をしたこと。その出来栄えは素晴らしく、後西天皇からも絶賛されたほどで、この成功から赤穂藩は皇室お気に入りの藩となりました。
その40年後の元禄14年(1701)、東山天皇の勅使が江戸に下ることになり、その接待役として赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が大抜擢されたのは、この皇室お気に入りということが起因でした。そして、その接待の指南役として赴任してきたのが高家肝煎の吉良義央だったというわけです。『忠臣蔵』には、こうした歴史的背景があるんですな。
一説によると、浅野内匠頭と吉良上野介(幕僚ですから、もちろん将軍派です)のイザコザとは、勅使(天皇の名代)と征夷大将軍のどちらの位が上か?どちらが上座に座るか?料理の順番はどちらが先か?といった問題で、作法云々ではなくて「朝廷VS幕府」という権力闘争だったとか。確かに江戸城松の廊下で抜刀して斬りつけるというのは、何かしら、よほどのイデオロギー(正義体系)がないと難しいだろうという気もします。
また大石内蔵助良雄は「皇室崇拝の祖父に育てられた」という歴史的事実は見逃せません。単なる「仇討ち事件」ではなくて、じつは「朝廷VS幕府」の政治闘争が背景にあった・・・そう考えるほうが『忠臣蔵』はわかりやすいかも知れません。