ゾンビブームの危険性
世の中、ゾンビブーム。なんやこの意味不明なブームは?と思ってますが、これも自分が生きているかどうかよくわからない時代の象徴かと。まるでゾンビのようになっている自分自身の投影であり、生存の不安感から発生しているんやないか?と。要するにゾンビに襲われたり、または自分がゾンビになりきることで、自分はゾンビ(生ける屍)ではなくて、人間であり、ちゃんと生きていることを確認しようとする。
死(死者)と戯れることで、生を確認し、生者であることを確認しようとする。じつは非常に重要な民俗的行為で、そういう風習や宗教は世界中どこにでもあります(大阪七墓巡りもそのうちのひとつでしょう)。そういう意味ではゾンビになるというのもアリなのかも知れませんが、ぼくが非常に気になっているのが、日本は西欧と違って大部分の人が火葬(地域によっては土葬もありますが)でゾンビなんか生まれる環境にないということ。ゾンビという死者の発想は、土葬の風習の民族にしか本来はありません。
なのにゾンビという発想がここまで日本人に浸透しているのは、ゲームやアニメの影響もあるんでしょうが、そもそも死者に対する概念が、非常に薄くなったことが背景にあるんでしょう。核家族化して、死亡率も下がって、現実に死者と出逢うことが非常に少なくなった。死者が火葬されて骨になって・・・という葬式の現実を見ることもない。死者に対する概念が希薄で、どうもリアリティがない。だからゾンビというような死者の在り様を、なんとなく許容できる。あっさりと許容してしまう。
自分が生きているかどうかを確認しようとして死や死者と戯れようとする風習は世界中にあると先ほどいいましたが、この死者というものの概念が、地に足がついていないとなると、これは一体どういうことになるのか?こういう「リアリティのない死者」(変な言葉ですがw)と戯れたって、ぼくはまったく「生者のリアリティ」を確認、証明するなんてことはできないだろうと思うんですな。死者も生者も、どうも、薄らぼんやりとしてしまう。これは非常に恐ろしいことではないか?と。
また「ゾンビを撃ち殺す」というゲームが流行っていることもぼくはどうなんだろうか?という気がしてまして。怨霊や恨み辛みを残してなくなった死者や敗北者に対して浄化や聖化しようとするコンパッションの宗教的精神はわかりますが、それを「撃ち殺す」というのは、ちょっとスゴイ発想やなと。「死者に鞭打つ」どころか「死者を撃ち殺す」。「薄っぺらい死者」(ゾンビ)を、さらに無慈悲に撃ち殺すことで、「二重の死」によって、ようやく死者を確認する。こうして考えると日本のゾンビブームというのは、かなり歪んだ死生観の現れといえそうです。これもまた、人間存在を数値化(資本化)して、それのみでしか存在価値を認めず、「あなたなんて単なる資本主義社会の歯車で、いくらでも代替可能なんだ」という近代文明の病理が生んだ生存不安現象・・・とかいうと大袈裟かも知れませんがw
火葬の風習を持つ民族は、土葬の風習を持つ民族と違って、本来、死者を日常的に、身近に感じます。どちらかというと、人間存在の本質を「肉体」(魄)ではなくて、「精神」(魂)に重きを置くからです。「肉体は消えてなくなっても、姿形は見えなくても、ずっと、あなたのそばに死者(の魂)はいるよ。見守ってくれるんだよ」というのが日本人の素晴らしい死生観ではなかったか。
死者を常に心のそばに置いておくことです。それが自分が生きていることの安心感に繋がる。ゾンビではムリやし、もうちょっとゾンビとはなにか?について考えた方が良い。死が見えない時代。生がわからなくなる時代。だから、もっと死者について、ちゃんと考えないといけない。