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2013 年 12 月 16 日 のアーカイブ

惚れし太夫の下帯ととりかえたし

2013 年 12 月 16 日 Comments off

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奈良・大和郡山の町家「箱本館」にて金魚の細工物。大和郡山は金魚発祥の地。粋ですな。

大和郡山の人物といえば豊臣秀長や筒井順慶やら柳沢吉保などの名前は挙がるんですが、そこに大和の画家にして粋人の柳里恭が失念されているのが非常に残念。柳里恭の『ひとりね』は色本として秀逸です。

「余、十三の時に唐学を学び、いま二十一の暮までに覚えし学問、惚れし太夫の下帯(下着)ととりかえたし」

「人間などは学問をするためにうまれてきたのではあるまい。ととさまとかかさまとがおもしろがってうまれたのが拙者であり、拙者たるもの、色に離れることができぬのは当然」

名言ですなあ。しかも、これを書いたのが里恭21歳の時というから驚かされます。

京の画家・池大雅がある日、吉野の桜を見物したいと旅に出た。ところが旅費が少ない。大和郡山に友人の柳里恭がいることを思い出して訪問する。里恭は金ぐらい貸すが、その代わり三日間、話し相手になってくれという。大雅は喜んで話し相手になる。ところが三日どころか十日になっても離してくれない。さすがの大雅も音を上げる。

大雅「ええ加減、離してくれ!花が散って花見ができないではないか?!」
里恭「花なら来年でも咲くではないか」

大雅、さすがに逃げるように里恭の家を飛び出した。京の画家と奈良の画家の違いのようでもある。愉快愉快。こういう人物を、奈良の人は、大和郡山の人は忘れてはいけません。もったいない。


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「真理は女性である」

2013 年 12 月 16 日 Comments off

「真理は女性である」

「すべての哲学者は、彼らがドグマテイカー (教条主義者)であったかぎり、この女性をうまく理解できなかったのではないかという疑いも、もっともなことではなかろうか?これまで彼らが真理に近づく際にとった常套的なやりまえである恐るべき厳粛さ、無様な厚かましさは、女性というやつを手なずけるには実に拙劣な、不似合いなやりくちではなかったか?女性が手なずけられなどしなかったのは、きまりきったことだ」

以上2つはニーチェの名著『善悪の彼岸』から。「應典院コモンズフェスタ2014」企画の「数学の演奏会」に参加して思い出したのは、このニーチェの言葉でした。

ニーチェは西欧社会のアポロン的原理(男性性、光、理性、合理、抑制、計算性)の重視傾向(これが結局はニヒリズムを産む)を批判して、ディオニュソス的原理(女性性、闇、狂気、熱狂、悦惚、無節操)の復権を叫びました。数学もアポロン的原理を優先させながら、20世紀に入ってからはヒルベルトプログラムやアルゴリズムやチューリングマシンといった素晴らしい数学的偉業を生んでいるが、しかし、じつはいまだに数学は「1」という数字の数学的証明すら果たせていない。「1」は人間の身体の実感や直観から由来していて、仮に地球人とはまったく違う脳神経システムを持った宇宙人がやってきて「1とは一体なにかね?」と問われると、地球の数学者は答えに窮していまう。

「1」は実感や直観に由来している。だから天才的数学者・岡潔は「数学は情緒なり」の名言を生んだ。要するに数学の始原には人間の「情緒」があり、「生理」があり、ニーチェがいうところのディオニュソス的原理が必要不可欠・・・ということなんでしょう。

ぼくは祖父(松尾橋梁)、父(日本電機研究所)ともにエンジニアで、3代目はなぜか観光家をやってますが、じつは数学的思考が得意な一族だと思っていてww 「数学の演奏会」。森田さんはサブマシンガンのような早口のトークイベントで聞いていて大変でしたが、いろいろと勉強になって、面白かったです。

以下の画像は應典院コモンズフェスタのfacebookページより。

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