「聴く」と「聞く」
「聴く」と「聞く」は違うという。
「聴く」というのは、漢字の成り立ちを見ると、耳+悳。この「悳」というのは「まっすぐ」というような意味で、要するに心を集中して聴くことを「聴く」というんですな。
では「聞く」とはなにか?これはじつは門の向こうから「聞こえてくるもの」を「聞く」といいます。じつは本人は聞きたくない。しかし、どうしても聞こえてくる。心に届いてくる。それが「聞く」なんですな。ちょっと怖い言葉です。
自分が聴きたいもの=「聴く」。他者から聞こえてくるもの=「聞く」。能動的なものが「聴く」であり、受動的なものが「聞く」といってもいいのかも知れません。
「如是我聞」とは、お釈迦さまの説法を、弟子たちが「聞いた」ものです。おそらく弟子たちは一心不乱に、熱心にお釈迦さまの説法を「聴いた」と思うんですな。しかし、お釈迦さまの言葉は「聞こえてきた」。自分が聴きたいと思った言葉(お釈迦さんに期待した言葉)ではなくて、お釈迦さまの言葉は、常に意外な言葉で、思わずハッとして、するすると自分の心の中に聞こえてきた。だから「如是我聴」ではなくて「如是我聞」なんだろうと思います。
應典院コモンズフェスタの24時間トークイベント「如是我聞」も、色んな言葉が飛び交います。その乱れ打ちの言葉の中から、ふと聴くではなくて、「聞こえてくる言葉」ってのがあります。その時は何げなくスルーしていても、後でボディーブローのように聞こえてくる言葉ってのもあります。
世の中に「聴く人」(自分が聴きたい言葉を聴きにいく人)は多い。しかし聞く体験(自分の中にはない、他者性に満ち溢れた言葉)は実は意外と少ない。人は、もっと聞いた方が良い。聞く体験をした方が良い。如是我聞。ぜひとも。
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