朝のガスパール
「『無人警察』はてんかん差別である」と糾弾され、それに反駁して書かれた筒井康隆の『覚書』。1993年の文章とか。もう24年前か。
筒井康隆が朝日新聞に『朝のガスパール』を書いてたのが、1991年10月から1992年3月末。パソコン通信で読者とやり取りして、ストーリーがどんどん変わっていく。変わっていく内実まで暴露する。
メタフィクションの連続。脱構築の小説。そんな小説を読むのは産まれて初めてで。当時のぼくは13歳。毎朝毎朝、衝撃でしたな…。
■ウィキペディア:朝のガスパール
https://ja.wikipedia.org/…/%E6%9C%9D%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%8…
この小説には世界が5重に存在する。オンラインゲーム「まぼろしの遊撃隊」内の世界、そのゲームに熱中する主人公達の世界、その主人公たちの物語を書いている(という設定の)小説家(筒井康隆ではない)や編集者の世界、その小説家の新聞連載に影響を与えている投書やBBSの世界(作者筒井康隆の脳内とも言える)、その投書を書いたりBBSに書き込んだりしている読者(現実)の世界である。通常ならば互いに交わるはずのない5つの階層に、筒井ならではの文学的実験(メタフィクションの手法)が試みられる。
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※以下文章は「高校国語教科書問題について」さんのサイトより引用m(_ _)m
http://jepnet.jp/jepnet/KOKUGO/kyoukasyo.html
http://jepnet.jp/jepnet/KOKUGO/oboegaki1.html
小説は、作家がそれをひとつ書くたびに必ず誰かを傷つけているという芸術形式だからです。作家がひとり世に出れば、通常その周囲は死屍累々、特に日本の私小説などでは多く家族親戚を傷つけ、他人を傷つけ、そのことによって本人も傷つきます。欧米では小説のこうした不可避的な機能を逆手にとったブラック・ユーモアの伝統があります。
小生は十七世紀のイギリス、スゥイフトの著作にまでさかのぼることのできるこのブラック・ユーモアという文学的伝統を守ろうとしている作家のひとりです。
ご存じのようにブラック・ユーモアというのは、人種差別をし、身体障害者に悪辣ないたずらをしかけ、死体を弄び、精神異常者を嘲り笑い、人肉を食ベ、老人を組り殺すといった内容を笑いで表現することによって説者の中の制度的な良識を笑い、仮面を剥いで悪や非合理性や差別感情を触発して反制度的な精神に訴えかけようとするものです。
しかし今回問題となった「無人警察」という作品は、教科書に収録されただけあって小生の作品の中では比較的ブラック・ユーモアの毒の薄い作品です。強いて言えば管理社会の国民に向けられる代表的な顔としての警察官に対して毒の矢を放っていると言えますが、その毒の効果を倍加すべき「笑い」は皆無です。したがって、もしこの「無人警察」が糾弾されるのであれば、小生の他の多くの作品はより強く非難され糾弾されてしかるべきでしよう。