【三重県】亀山市の加太小学校でまわしよみ新聞が実施されました!^ ^ ありがとうございます〜!m(_ _)m
これ、2年前に書いてたらしいですな^^; 書いたことすら忘れてたんですが、Facebookがいきなりなんかで表示して、みなさんが改めて読んでくれたみたいで、今更「いいね」とかつきだしてる記事です。
ちょっと江戸時代の大坂の「軒親」(のきおや)の話に触れてる。これも昨日の「観光」読書会=東浩紀さんの『観光客の哲学』の「家族の哲学」に接続して話をすればよかった。
まぁ、シェアだけしときますw
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「公共」とひとくくりにして言ってしまうが、本来「公」(パブリック)と「共」(コモンズ)はちゃうんですな。公の主体は「官」であり、共の主体は「民」。
江戸時代は「士農工商」の絶対封建社会。商人=町衆は、いちばんの最下級の人間やった。まちを歩いていて前から武士が来る。町衆が刀に触れてしまうと、その場で「切捨御免」されても文句はいえなかった(江戸初期は特に。江戸中期になると、町人階級が力を持ってきて、そうした事情も変わってきますが)。
19世紀の江戸の人口は100万人。そのうち半分の50万人は武士。まさに「官のまち」。対して大坂は30万都市。しかし9割以上が商人=町衆やった。「最下級の人間」「民草」が集まって作られたまちが大坂。要するに大坂には官がいなくて、民しかいなかった。「公」やのうて「共」のまちやった。
江戸時代の大坂の「共」「民」の強さは町人たちが自分たちで町を治めるために定めた「町式目」の条目数でわかります。奈良や京と比べると、大坂の町式目の条目数は2倍以上あったとか(このへんのことは大阪住まいのミュージアム館長の谷直樹先生の研究が詳しいです)。日本でいっちゃん自治意識が髙い都市やった。
面白いのが大坂には「軒親」(のきおや)なんて制度があったこと。朝、起きると、家の前(軒の下)に「捨て子」があった。どないするか?現在なら役所(行政=官)に連絡しますな。江戸時代の大坂はちゃいます。捨てられていた家が捨て子の養育費の50パーセントを負担する。隣の家がそれぞれ20パーセントを負担し、向いの家が10パーセントを負担して、みんなで「軒親」となる。大体、5歳ぐらいまで育てて、あとは丁稚奉公で商家にやってしまう。※画像は「軒親」の図。ヘタですんまへんw
大坂名物の「くいだおれ」というのも「共」の精神の発露やった。大坂は水の都。橋も多い。浪華八百八橋。橋の建設費や維持管理費を負担したのも町人たち。幕府や藩が作った橋は「公儀橋」というが、大坂は「町橋」だらけ。橋はしかし津波や大雨や高潮で流される。朽ちていく。「杭」を何度も何度も作り直す。その費用が嵩む。「杭倒れ」しそうになるぐらいまちのために力を尽くす。これが大坂の町人の名物で、誇りやった。
明治維新によって近代国民国家が作られ、あらゆる日本の都市は官主導となった。民(共)は崩壊した。大阪はまだかすかに民(共)の精神が残っているほうやと思ってますが・・・。現在「公共」というとき、そこに「共」はありまへん。「共」は「公」に侵犯され、奴隷と化している。
「共」が「公」の奴隷になっている判り易い事例は日本のNPO法人。NPOは共的な組織といえます。しかし大部分のNPO法人が官(行政)の助成金、補助金に頼っている。税金が官(行政)を経由してから民(NPO法人)に渡るので、いつまでたってもはNPO法人は官の奴隷か下請けのような状態にある。官(公)は年々、メタボ化し、民(共)は先細る。「認定NPO法人制度」ができましたが、もっと民(共)を育てる仕組みが欲しい。※クラウドファンディングなんかにはちょっと期待してますが・・・。
今回の大阪都構想の住民投票の結果で、大阪の民(共)の精神は?と、それが気になってます。近代国民国家が産まれて150年。いろんな意味で官(行政)は制度疲労してます。「自分たちのまちのことは、自分たちでやろう」「自分たちでやるしかない」という自治精神が芽生えたら、それがいちばん長い眼で見て、ええことちゃうか?と思ってます。
【愛知県】名古屋の西念寺さんにて当事者研究スゴロク実施!^ ^ 金岡北中学校の同級生の岡林くんが企画・主催・進行してくれました。いろんな気づきや発見があれば嬉しいですな。
またぜひいろんなところで、いろんな人とやってみてください〜!m(_ _)m
■当事者研究スゴロクについて
https://goo.gl/cdhflj
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DPCA研究会。降りていく生き方ゲーム
それぞれ、「失敗」「挫折」「苦労」のエピソードを出していただき、分かち合いました。
また、一人一人、「自己病名」をつけました。医者がつける病名ではなく、自分の感じている苦労や傾向に因んだ自己流の病名をつけるのです。
負の感情や、失敗体験、苦労などを見ないように拒否し、排除するよりも、みんなの前で自分なりに表現していく過程で、いつのまにかその問題といい距離ができていくのだと思いました。触るのも怖いようなものも、なにか共存できる、つきあっていけるようなものになっていくようです。
負の感情もわたしの一部、ちょっとだけ居場所を作ってあげると、暴れるのをやめて落ち着くところに落ち着くのかもしれません。