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観光と巡礼

2017 年 6 月 27 日

また、いずれ、どこかでちゃんと纏めたい話。観光は「止まった思考」(意識的)的で、巡礼は「彷徨う思考」(無意識的)的なんですが、そういう話に繋げたい。そこまでいくと完全にオカルトになるかなw

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「歩く」ことが基本の身体操作で。神事にしろ仏事にしろ能楽にしろ武道にしろ「歩く」ことから始まる。ぼくはもちろん「まちの人」であるが、それと等しく「歩く人」で。歩くからわかる。その場を、空間を、歩くから体感し、直観されるものがある。文献とか資料ではないものはそれでしか摑み取れない。

最初の体験は観光になる。観光は「聖なる一回性」によって担保される。しかし二度三度四度と訪問すれば、それは「巡礼化」する。巡っていると時間の変遷にどうしても想いを馳せる。「5年前の自分」「10年前の自分」と出逢う。観光が空間的な体感だとするならば、巡礼は時間的な体感だといえる。

何度も何度も巡礼することで「過去の自分」と出逢う。それは転写すれば「未来の自分」と出逢う事でもある。「5年前の自分はああだった。今年の自分はこうだ。では次の5年後の巡礼の時、自分はどうなっているだろう?どういう自分であるだろう?どういう自分になっていたいか?」と考える。

巡礼の思考は、そのうち「自分」というものを飛び越える。お遍路などは数百年の歴史を有する。いま歩くこの道は、かつて、誰かが歩いた道。自分とまったく同じような悩みや苦しみを抱えた人間も過去にいたはず。「自分の元型」のような他者。それは遠い遠い先祖ともいえる。そのような存在と出逢う。

巡礼することで感じられる「自分と似た先祖的存在」は、さらに嵩じると超自然的な存在へと昇華されていく。お遍路ではそれが「空海」であるし、七墓巡りでは「無縁仏」がそうした存在となる。また過去への想いを突き詰めると転写されて「自分と似た子孫的存在」へ想いを馳せることにも繋がる。

巡礼は時間を変容させ、歪ませる。巡礼の意識の中ではかつての先祖・先人といまの自分と来るべき子孫・後人が同列的に並ぶ。永遠の過去と永遠の今と永遠の未来を出逢わせることができる。観光(サイトシーイング=観る行為)の先には巡礼(ツーリズム=巡る行為←これを観光と訳すのは間違い)がある。

「自分と同じような悩みや苦しみを抱えた人」が過去にもいたし、これからも出てくる。いたからといって、なにか物事が解決するわけではない。ただシンパシーやエンパシーが産まれる。同じ苦しみや悩みによって、「共苦」によって、人は繋がれるし、繋がると錯覚することによって、救われる魂はある。

巡礼にはだから救済性がある。宗教は観光ではなくて巡礼のもの。聖地観光はおかしい。聖地巡礼でないといけない。そして巡礼と呼ぶ以上、そこは何度も何度も何度も訪れる(訪れてしまう)場でないといけない。それだけの大いなる「物語」を内包する稀有な場(それを聖地という)でないといけない。


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