大阪まち歩き大学。東成区玉津。松下幸之助起業の地碑。
大阪まち歩き大学。東成区玉津。松下幸之助起業の地碑。
この石碑は「此付近 松下幸之助起業の地」とあり、じつは「此付近」というのが画期的なことらしいw
行政が史跡銘板、石碑などを建立しようとすると、正確にその場所でないと石碑を建てない…というようなルール、決まり、こだわり(?)があるらしいが、民間はあまりそういうことに頓着しない。「此付近」で済ましてしまったのがこの石碑で、別に「此付近」でいいのではないかと思うw
大阪は日本でも有数の歴史都市であるが何度も何度も火災にあり、戦災にあい、大空襲にあい、なによりも戦後の都市開発がこれまた凄まじい。京都や奈良のように歴史的なモニュメントが残らない。残そうとしない。気がついたら破壊しとる。
「無くしたものが多すぎる」のが大阪で、だから史跡銘板とか石碑みたいなものをひとつでも残してくれないと、まちの記憶、歴史、文化、物語が継承できない。逆にいえば石碑ひとつあれば結構、いろんなものが伝えられる。僕のようなまち歩きの仕事には大いに助かるw 「此付近」でもいいからバンバン石碑を建ててほしいものです。
松下幸之助は「起業の地」以外にも「創業の地」が福島区大開にある。話としては、まずこちらの猪飼野で大正6年(1917)に起業して、翌年の大正7年(1918)に福島区大開に移り、そこで松下電気器具製作所を創業し、それが現在のパナソニックにつながるとか。
猪飼野時代の松下幸之助は本当に大変だったようで二股ソケットを作ったが全く売れない。貯金を使い果たし、妻むめのさんに「もうあかん。心中しよう」と持ちかけたが「うちは心中するために嫁にきたんやない!」と怒られるほどだったという。
しかし起死回生となったのは東京の扇風機メーカーの川北電気(大阪市瀬戸物町に事務所があった)から碍盤(絶縁体の器具)の発注を受けたこと。それが評判がよくて業績を上げ、なんとか持ち直して大開に移っていった。
なので大阪には松下幸之助の「起業の地」(東成区玉津)と「創業の地」(福島区大開)と2ヶ所、石碑があるわけです。なんか和菓子屋とかでよくある「本家」と「元祖」みたいな話ですなw まあ、両方とも正解ということです。