フラフラ歩いていたら発見した絶滅メディア博物館。大手町近く。おもろそう。気になるなあ。
小川町。三崎町。興武所跡。
黒船来航以降、幕府は国防に目覚め、その訓練場として開設されたという。明治維新後も陸軍練兵場として使われていたそうですが、その講武所跡地に出来たのが日本大学。
松下村塾門下の長州藩士・山田顕義が創設した日本法律学校が日本大学のはじまりとなる。山田顕義は皇典講究所も設立していて、これは国学院大学に繋がるとか。欧米を視察し、憲法草案なども作り、長州系であるし、長生きすれば総理大臣などもあり得たかもしれませんが、残念ながら生野銀山訪問中に卒中で倒れて横死した。享年49歳。
日本大学の大阪校が近畿大学となる。ご縁があって、ここ最近、近大で講師したりしてますが、僕は山田顕義の仕事(大学設立)の恩恵を受けているということですなw
神田。小川町。五十稲荷神社。
神保町界隈は江戸時代は武家屋敷ですが、その影響でか、どうもお稲荷さんなども少ない。
武家屋敷というのは町名もなかったという。町会がないということで、大体、地域の地蔵や稲荷というのは町会が維持管理するものだから、武家屋敷では結果として、そういったものは勧請されにくいだろうと思う。個人的に、屋敷神として勧請することはあるだろうが、町のものとはならない。
武家屋敷が町会を作らなかったというのも、結局、彼らは幕府とか藩に所属していて、それらは表面的には社交するが、腹の底では敵対しているからコミュニティなんてのも形成できなかったのだろうと思われる。幕府や藩の情報が他に渡ると大変ですからな。どこかで一線を引いた人間関係となる。
そういった武家屋敷の神保町(神保というのが、そもそも旗本の名前という)から東に向かうと小川町界隈に至る。こちらは江戸時代から町人エリアだったそうで、途端にまちのあちらこちらにお稲荷さんがいはります。
大阪はあちらこちらにお地蔵さんがありますが、江戸はあちらこちらにお稲荷さんがいる。東京の人は普通の感覚のようですが、大阪人からしたら不思議な現象で。よくわからない。
なぜこんなに稲荷神が多いのか?ですが、いろいろと諸説あるそうですが、田沼意次が篤く稲荷神を信仰したからという話があるそうな。
田沼家は紀州藩士で、しかし吉宗の将軍就任によって道が開けた。田沼意次はたかだか600石の旗本からどんどんと出世して老中にまでなる。
老中は本来ならば石高2万5000石以上の譜代大名から選ばれる。老中筆頭は幕政の全てを管轄するから、今でいうと総理大臣みたいなもの。江戸時代、初めて一旗本から老中まで成り上がったものは田沼意次以外にいなかった。
江戸庶民はその田沼意次の立身出世ぶりをみて、それに肖りたいと稲荷神を祀るようになったという。稲荷神というと農耕神というイメージがまずありますが、江戸の稲荷神の場合は、どうも農耕神というよりも開運、立身出世の神として祀られたというのが正解ではないかと思われる。だからまちなかにある。
田沼意次の政治は毀誉褒貶激しいが、江戸のまちの稲荷信仰の元祖かも?という説は、個人的にはいろいろと興味深いし、面白い。
神田。小川町。太田姫稲荷神社。大阪人にはまるでピンとこないが、東京人が愛してやまないのが太田道灌。東京界隈歩いてると、ほんまに、あちらこちらに太田道灌の銅像があります。銅像があると思ってみたら太田道灌で、どいつもこいつも、どこもかしこも太田道灌だらけ。それは言い過ぎか。
いや、しかし、ほんまに太田道灌にまつわる伝承、伝説は多く、太田道灌の姫さまの伝説がこちらの太田姫稲荷神社。姫さまが天然痘、疱瘡に倒れて、父親の太田道灌が京の一口稲荷にお参りしたら見事、完治したので当地に勧請したという。
一口は「いもあらい」と呼んで京都でも有名な難読地名のひとつ。天然痘、疱瘡は全身がイボだらけになるわけですが、イボを霊水で洗って治すので「いぼあらい」が訛って「いもあらい」になったとか、天然痘、疱瘡の身を浄める霊水、霊泉の取水口がひとつで「一口」と書いたとか、いろいろと語源の諸説がありますが、よくわからない。
天然痘、疱瘡、流行病というのが恐れられたというのはよくわかります。その疫病退散、厄病封じの神さまということでしょう。元はお茶の水あたりに元宮がありましたが、国鉄の総武線が拡張するというので昭和の頭に現在地に遷座したとか。無茶苦茶しまんなあ。国鉄は。
太田姫は天然痘、疱瘡が治ってから、どうなったのか?詳しい記述はなかったですが、調べたら、なんか出てきそうですな。
美しいお姫さまが天然痘、疱瘡によって醜い顔になって男に騙されて…なんてのは、まあ、鶴屋南北あたりが好きそうなお話でw 太田姫。気になる。
神保町。日本語学校の東亜高等予備学校ができた影響で神田、神保町は華僑が多く住んだ。若き頃の周恩来が来日して学んだのも神保町の東亜高等予備学校。美学校、PARAの隣にある愛全公園がその跡地です。
周恩来や、あと孫文なんかも訪れたというのが神保町の中華料理店「漢陽楼」。初代の方は中国から日本にやってきてロシア系の銀行の掃除夫をやっていたとか。ところが日露戦争の影響でロシア系の銀行が解散。失職してしまう。
これからどうして生活すればいいのかと途方に暮れていたら仲間うちから「お前が作る飯はうまいから料理屋でもやったらどうだ?」と勧められ、それで開業したら大成功したという。
戦後は普通の「まちの中華屋」という感じだったらしいですが、ある時、テレビ局がきて「周恩来の日本の滞在記、日記に漢陽楼という店がでてくるんですが、それはここの店ですか?」と取材がきて、店の人も誰もそんなことは知らずでビックリ仰天。調べてみると、まさしく間違いなく漢陽楼だった。以後、メディアにも数多く取り上げられて、神保町を代表する名店、老舗として、ますます繁栄したという。
周恩来が愛したという肉団子スープがありまして、注文してみたら、これがほんまに美味。唸りましたな…。周恩来!
九段下・竹本正雅屋敷から護持院ヶ原に「蕃書調所」が移った事の経緯について何かわからないか?と思ったら東京外国語大学の論文を発見。ちゃんとまとめられていた。さすが。わかりやすい。
面白かったのはまず「蕃書」という名前。当初は「洋書」にしようという案もあったらしいが洋学など笑止千万という江戸幕府上層部の攘夷思想があり、夷狄蕃族の「蕃書」となったらしいw
さらに蕃書調所では軍事的な目的が強く、蕃書をみながら西洋式銃や火薬について調査したり、訓練したりということが行われていたという。それで火器を扱うので火災避けで水辺・川端でないと設置が許されなかった。
九段下・竹本正雅屋敷も護持院跡地も江戸城の外堀、堀川に隣接していて、場所にやはり意味があった。単に蕃書、洋書を改めていたわけではなくて、西洋式銃の調査、研究という軍事的な拠点でもあった。なるほど。納得。
ちなみに論文には洋学、西洋式銃の研究機関として水辺がよろしかろうというので石川島寄せ場に設置するという案もあったとか。洋書は貴重で高いし、国家機密なので、盗まれると困るという事情もあったらしい。島ならば安全。
もし、こんなところに「蕃書調書」「洋書調書」ができて発展していたら、石川島、佃島、月島にいろんな大学が出来て、今頃、学生たちが学割もんじゃを大量に食べまくってたかも知れない。古書店街も神田ではなくて月島古書店街に。んなわけない。
画像の3枚目は東京外国語大学のルーツである東京外国語学校の場所。隣に東京大学があり、その隣に学習院もあった。この3つとも護持院跡地、護持院ヶ原となる。
画像下に元蕃書調書というのがあり、こちらが竹本正雅屋敷。移転の距離感もよくわかる。
神保町界隈を歩いていて気づいたのが、神保町には寺社仏閣がない。元々、武家屋敷で、町名もなく、寺社仏閣もなかったらしい。武士は神仏に頼むことが少ないのか、お稲荷さんも少ない。
氏神さまはどこなんやろう?と思ったら、神田明神。要するに平将門公。神保町、神田界隈をリサーチするんやから、これは将門塚、首塚にお参りしとかないかんと思い、フラフラといってみた。えらいキレイになってて驚いた。
前に来た時は将門塚は改修工事中であった。首塚は動かすと祟りに襲われるという都市伝説が有名だが、大丈夫かいな?と思っていたら案の定、コロナが流行り、東京五輪が延期になり、政治家が兇弾に倒れたりした。下手に改修工事なんかするもんではない。これ、僕がいってるんやなくてネット上でそんなことが言われている。
お参りすると、なぜかカエルちゃんがいた。なんやろか?
将門塚はしかし皇居を睨んでいるようにも見えて、新皇と天皇が向かい合っているのは、いろいろと考えさせられる。
PARAの講義で、ただただ神保町、神田を逍遥してリサーチするという5日間。
江戸(東京)の都市構造は江戸城(皇居)を中心として渦巻き状に町割が展開していく。上から見ると「の」とか「@」みたいな都市が江戸。
江戸城の周りは武家屋敷で、大手門(東)からスタートするとまず親藩、譜代、外様といった大名屋敷がぐるっと江戸城の周り(東→南→西)に配置され、江戸城北側の田安門(九段下)を超えた神田エリアから旗本、下級武士のエリアとなる。この辺は幕末の古地図などをみても小さい武家屋敷が所狭しと密集している。
神田が面白いのはこの土地柄で。ここは武家屋敷であったが、最も禄は少ない。だから江戸幕府が倒れたら、最も生活に困り、ダメージが多かったエリアだろうと思われる。武家屋敷から泣く泣く零細の武士は去り、土地利用がしやすくなった。
そこで、その空いた武家屋敷跡に明治新政府の主導で、いろんな新しい学校、大学が置かれていく。そして近代教育の先駆、パイオニアの地となった。
親藩、譜代、外様と違って旗本はまた将軍直参のプライドがあったから、彼らは生活苦で貧しいとはいえ、封建社会を支えた元エリートとして近代教育にかける熱意と努力もあったろう。いち早く近代文明を身につけ、近代のエリートにならないと生きていけない。
彼らは大名家、藩主がそのままスライドして華族となったような、そんなエスタブリッシュな特権階級ではないので、ひたすら実力主義でのし上がるしかなかった。※明治維新が近代革命でもなんでもなく単なる薩長藩閥の徳川憎しの遺恨に過ぎないのがこの事実だけでもわかる。特権階級はそのまま温存されたままだった。そこに近代の意志、理想などない。
神田、神保町の古書店街は大学の教科書の再利用から始まったという。新しい教科書なんて贅沢で買えない。古い教科書を再利用して学ぶ。質屋なんかも多い。若者たちの苦学を支え、近代を支えたのが神田、神保町といえる。
まだ歩いて3日目だが、神田、神保町の特殊性はよくわかった。近代日本を揺籃した文教の都市がココ。PARA、ほんま、すごいとこにあるなあ…。
護持院跡地、護持院ヶ原跡地をさらに北上すると瀟洒な洋館が見えた。覗いてみたら博報堂であった。旧本館を復元したものらしい。どうりで建物の部分、部分が妙に新しい。
この博報堂は幕末には安中藩板倉家の江戸藩邸屋敷があったとか。面白いのが、ここの藩邸で生まれたのがなんと新島譲。安中藩の下級藩士の子だった。新島譲はこの安中藩の江戸藩邸でアメリカの地図や洋書を読んだという。そして海外渡航、アメリカに大いなる憧れを抱いた。
その後、1864年に新島譲は国禁を犯して密航でアメリカに渡り、現地でキリスト教の教えに感動して洗礼を受けた。帰国後、同志社大学を作ろうと奔走し、その実現の最中に47歳の若さで病没した。
面白いのが新島譲が江戸藩邸で読んでいたのがロビンソン・クルーソーの漂流記らしい。漂流記を読んで、ほんまに密航しようと企むのは正気の沙汰ではないが、無責任に想像を逞しくすれば、このロビンソン・クルーソーの漂流記は、洋書調所からの流出ではないか?という気がする。
1862年に護持院ヶ原に洋書調所ができて、まさにその頃に新島譲は安中藩邸にいた。洋書調所と安中藩邸は目と鼻の先です。
洋書調書から流出した一冊の本が、一人の若者の人生を狂わし、それが同志社大学となり、日本の近代教育の萌芽に繋がったのだとしたら実に愉快な話ではあるw