父・信一の遺品整理。陸奥家の戸籍を調べていると曽祖父・陸奥利宗の動向が気になって、いろいろと調査中。戸籍から高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田…と目紛しい人生で「もしかして官僚では?」と推測して『職員録』を調べてみたら、宇治山田市で書記、主事などをやっていた。大正7年(1918)~昭和2年(1927)の頃。
少し遡って、では函館時代(明治44・1911~大正2年・1913)は何をしていたのか?と、これまた『職員録』を調べてみたら、そこでも名前を発見。大蔵省函館専売支局で書記をやっていました。どうも若い頃は日本全国各地の大蔵省の専売局で書記をやり、40歳近くになってから宇治山田に出向…という流れだと思われます。そして宇治山田で生涯を終えた。
そうか。曽祖父は大蔵省のキャリアでしたか…。ということは三島由紀夫の先輩ですなw ようやく経歴がわかってきました。もしかしたら帝大卒だったりするのか?帝大の名簿を調べたいな。
ひとつ、謎が解けると、またひとつ、謎が増える…。
曽祖父・陸奥利宗から勘当された祖父・文夫は95歳の長寿を全うしたが、その最晩年になって「陸奥家の墓参りに行きたい」と言い出した。死期を前にして自分の父に謝罪したかったのかも知れない。
ところが祖父は曽祖父から勘当されているから、その墓の場所がわからなかった。父も一時期、陸奥家の先祖の墓が気になったようで、陸奥家のルーツである高知・池川村あたりを調べたことがあるが、よくわからなかった。
祖父の心残りは、おそらく、父の心残りでもあるだろう。曽祖父に勘当された祖父。その謝罪(墓参り)の機会を作ろうとした父。
父への供養として、祖父への供養として、曽祖父の墓の場所が、なんとか調べられないか?と今は考えている。曽祖父と祖父の仲違いも、さすがに時効であろうw
僕も正直、亡き父とはいろんな確執があり、父と子というのは、常にそういうものなのかも知れない。父が死んだから、ようやく僕の中で父との対話が始まったw
曾孫の僕が、祖父と父の名代として、曽祖父のお墓参りを果たして、それを祖父と父に報告したい。
父の遺品整理で戸籍が見つかって、曽祖父・陸奥利宗の謎すぎる経歴(高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田)から「もしかして官僚でもやっていたか?」と予測したのですが、当たりました。
国立国会図書館デジタル・アーカイブで戦前の官僚の『職員録』を調べてみたら、利宗は宇治山田市で書記、主事をやっていたということがわかりました。
大正7年(1918)に三重県の名簿に書記として登場し、翌年の大正8年(1919)にはもう主事に。大正11年(1921)には主事トップになってますが、そこからずっと主事の筆頭を務め、昭和2年(1927)を最後に、翌年から名簿に名前がありません。
東京から一般の人が宇治山田にやってきて、いきなり書記になるとか、そんなことは、なかなかありえないでしょう。キャリア官僚というか、そういう類の人間なんでしょうな。
昭和3年頃には宇治山田市役所を辞めたと思われますが、まだ利宗は48歳で、引退するには少し早い。何か違う仕事についたのかも知れません。代議士のようなことをしていたとか、赤福を助けたとか、ほんまか?というような伝聞だけが伝わってます。
宇治山田の図書館にいけば、なにかわかるかも知れない。行かなあかんなあ。
父・信一の遺品整理で、陸奥家の代々の戸籍が出てきて、いろいろと調べている。
祖父・文夫は若い頃は遊び人であったらしく、曽祖父・利宗から勘当されている。おかげで曽祖父・利宗の経歴がよくわからない。祖父や父の話では四国・高知で生まれ、その後、日本全国各地を転々とし、宇治山田で有力者となり、代議士か何かをやっていた…とのことだが、戸籍上でも波乱万丈(?)な人生の様相が伺える。
曽祖父・利宗は明治12年(1879)2月14日に宇和島伊達藩領であった高知県・吾川郡池川村に誕生し(陸奥家はだから宇和島伊達藩士の流れと思われる。このへんも伝聞だが。家紋は宇和島笹)、明治40年(1907)4月10日に元・薩摩藩士の小山田家の娘ヲカと結婚している。
この小山田家は薩摩藩の砲術指南役の家柄のようで、どういう経緯で利宗とヲカが出会ったのか?よくわからない。結婚当時の本籍は「鹿児島郡吉野村吉野497番」で、これは現在では鹿児島市になるようだ。当時、利宗は28歳で、同年11月4日には長男・武夫が同地で生まれている。
その後、明治42年(1909)7月16日に二男・文夫(僕の祖父)が出生しているが、これがなぜか東京市四谷区で出生届が提出されている。利宗は当時30歳。鹿児島から東京に移った経緯もよくわからない。
その後、明治44年(1911)10月10日に長女・八重子が出生しているのだが、これがこれまた不思議なことに北海道函館区で出生届が提出されている。利宗は32歳。文夫は2歳。
鹿児島(明治40年・1907)→東京(明治42年・1909)→函館(明治44年・1911)とはあまりにも人生が激動すぎる。利宗、一体、どういう人物であったのか?
また、この八重子は、悲しいことに大正2年(1913)1月にわずか2歳で北海道で亡くなっているのだが、その死亡届が「北海道函館区谷地頭町68番地」となっている。どんな場所か?と函館の古地図を調べてみたら函館公園の隣で「勝田温泉」という記載が出てきた。
「八重子は温泉地でなくなったのか?」と疑問が湧いて、さらに詳しく調べてみたら、この勝田温泉というのは正式には「勝田温泉旅館」というらしい。勝田弥吉という人物が開いたもので、函館初の旅館とか。
■二代目 勝田弥吉(1883年~1939年)初代・弥吉方ら鑛蔵そして2代目・弥吉へと引き継がれた函館第一号の旅館・勝田旅館。
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/02_ka/02-katsuta.html
上記ページによると『谷地頭の勝田温泉旅館は、昭和9年3月21日の大火で焼失。その後、再建して平成2年頃まで営業していた。勝田旅館は、明治11年の開業当時から、「各府県御旅館」「屯田兵司令部御定宿」「宮内省御定宿」「司法省御定宿」「陸軍省御定宿」「炭鉱鉄道会社御定宿」「北海道庁御定宿」等の一等旅館として繁盛した』とあった。
函館でも超一流の旅館であったらしい。そこで祖父・文夫の妹・八重子が亡くなってる。官僚などの定宿であったらしいが、曽祖父は官僚なのか?勝田旅館に住んでいた時代があるのか?
ちなみに八重子が亡くなった大正2年(1913)1月の翌月に利宗(34歳)と文夫(4歳)は東京市芝区高輪台町28番地の証誠寺に移っている。この後に宇治山田に移転したようだ。高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田。さすらってるなぁ。
北海道、函館は、一度、若い頃に、僕は観光で訪れたことがある。しかし、まさか自分の曽祖父、祖父が住んでいたとは知らなかった。勝田温泉旅館跡も、いつか、訪れてみたい。
父・信一の遺品整理で、陸奥家の代々の戸籍が出てきて、いろいろと調べている。
祖父・文夫は若い頃は遊び人であったらしく、曽祖父・利宗から勘当されている。おかげで曽祖父・利宗の経歴がよくわからない。祖父や父の話では四国・高知で生まれ、その後、日本全国各地を転々とし、宇治山田で有力者となり、代議士か何かをやっていた…とのことだが、戸籍上でも波乱万丈(?)な人生の様相が伺える。
曽祖父・利宗は明治12年(1879)2月14日に宇和島伊達藩領であった高知県・吾川郡池川村に誕生し(陸奥家はだから宇和島伊達藩士の流れと思われる。このへんも伝聞だが。家紋は宇和島笹)、明治40年(1907)4月10日に元・薩摩藩士の小山田家の娘ヲカと結婚している。
この小山田家は薩摩藩の砲術指南役の家柄のようで、どういう経緯で利宗とヲカが出会ったのか?よくわからない。結婚当時の本籍は「鹿児島郡吉野村吉野497番」で、これは現在では鹿児島市になるようだ。当時、利宗は28歳で、同年11月4日には長男・武夫が同地で生まれている。
その後、明治42年(1909)7月16日に二男・文夫(僕の祖父)が出生しているが、これがなぜか東京市四谷区で出生届が提出されている。利宗は当時30歳。鹿児島から東京に移った経緯もよくわからない。
その後、明治44年(1911)10月10日に長女・八重子が出生しているのだが、これがこれまた不思議なことに北海道函館区で出生届が提出されている。利宗は32歳。文夫は2歳。
鹿児島(明治40年・1907)→東京(明治42年・1909)→函館(明治44年・1911)とはあまりにも人生が激動すぎる。利宗、一体、どういう人物であったのか?
また、この八重子は、悲しいことに大正2年(1913)1月にわずか2歳で北海道で亡くなっているのだが、その死亡届が「北海道函館区谷地頭町68番地」となっている。どんな場所か?と函館の古地図を調べてみたら函館公園の隣で「勝田温泉」という記載が出てきた。
「八重子は温泉地でなくなったのか?」と疑問が湧いて、さらに詳しく調べてみたら、この勝田温泉というのは正式には「勝田温泉旅館」というらしい。勝田弥吉という人物が開いたもので、函館初の旅館とか。
■二代目 勝田弥吉(1883年~1939年)初代・弥吉方ら鑛蔵そして2代目・弥吉へと引き継がれた函館第一号の旅館・勝田旅館。
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/02_ka/02-katsuta.html
上記ページによると『谷地頭の勝田温泉旅館は、昭和9年3月21日の大火で焼失。その後、再建して平成2年頃まで営業していた。勝田旅館は、明治11年の開業当時から、「各府県御旅館」「屯田兵司令部御定宿」「宮内省御定宿」「司法省御定宿」「陸軍省御定宿」「炭鉱鉄道会社御定宿」「北海道庁御定宿」等の一等旅館として繁盛した』とあった。
函館でも超一流の旅館であったらしい。そこで祖父・文夫の妹・八重子が亡くなってる。官僚などの定宿であったらしいが、曽祖父は官僚なのか?勝田旅館に住んでいた時代があるのか?
ちなみに八重子が亡くなった大正2年(1913)1月の翌月に利宗(34歳)と文夫(4歳)は東京市芝区高輪台町28番地の証誠寺に移っている。この後に宇治山田に移転したようだ。高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田。さすらってるなぁ。
北海道、函館は、一度、若い頃に、僕は観光で訪れたことがある。しかし、まさか自分の曽祖父、祖父が住んでいたとは知らなかった。勝田温泉旅館跡も、いつか、訪れてみたい。
父・信一が亡くなり、遺品整理をしていると、陸奥家の代々の戸籍を発見。
いろいろと調べてみると僕の曽祖父の陸奥利宗は大正2年(1913)2月に「東京市芝区高輪台町28番地」に引っ越していたことがわかった。利宗は当時34歳で、祖父の文夫が4歳の頃。
この「東京市芝区高輪台町28番地」とは、今の東京のどのあたりか?と気になって古地図を調べてみたら、なんと浄土真宗本願寺派の証誠寺という寺院だった。今もちゃんと1913年から変わらず当地に現存している。
■證誠寺
https://shojoji.org/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%89%E8%AA%A0%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%AF%E5%8C%BA)
祖父・文夫が子供の頃に浄土真宗の寺院に住んでいた…というエピソードなど父から聞いたことがない。父は知っていたのか?なぜ曽祖父は寺に住んでいるのか?どういう関係なのか?経緯なのか?まったくよくわからない。謎すぎる…。
近くには忠臣蔵の赤穂四十七士の墓があることで有名な泉岳寺もある。泉岳寺は何度か訪れているが、証誠寺は行ったことがない。今度、関東入りしたさいはぜひとも訪れてみようと思う。
陸奥家は元々、何宗であったのか?よくわからない。
僕の祖父・陸奥文夫(次男坊だった)は若い頃は無茶苦茶をしていたそうで、曾祖父・陸奥利宗の怒りを買い、実家からは勘当されており、交流が断絶している。
おかげで祖父・文夫はまだ経歴がわかるが、曾祖父・利宗の経歴はよくわからない。陸奥家は宇和島伊達藩の流れで、利宗は藩の飛び地があった高知県吾川郡池川村で生まれ、その後、鹿児島、北海道、東京と転々としている。妻が鹿児島藩士の鉄砲師範役・小山田家の娘で、そうした由縁で明治新政府(薩摩藩は勝ち組だったので)の仕事に携わったのかも知れない。
要するに官僚かなにかであったのでは?と思われるが詳細は不明で、ただ晩年は三重県の宇治山田にいた。宇治山田では代議士?名士?であったらしく、伊勢の赤福のスポンサーだったという。祖父・文夫がこどもの頃に赤福にいくと「むつのボンがきた」というので赤福食べ放題だったらしいが、これも本当かどうかサッパリわからない。
結局、陸奥家の先祖は宇和島伊達藩だから四国で、江戸時代の陸奥家の菩提寺、墓などはおそらくは四国の方にあると思われる。
陸奥家の戸籍は、いろいろと母(霊友会は先祖供養を大切にするので虱潰しに調べた時期がある)が調べたので、曾曾曾祖父・藤吾(5代前、明治時代)が高知県吾川郡池川村(現在は仁淀川町)に、曾曾祖父・万太郎(4代前、大正時代)が高知県高岡郡越智町が出生地ということはわかっている。
一度、陸奥家の先祖の菩提寺がわからないか?とそのあたりをリサーチしてみたいが、そこそこ寺院も多いので取っ掛かりがなかった。
ところが今回の父の葬儀のことで、母と話をしていたら、祖母・陸奥ヨシエの位牌が出てきた。これは夫である祖父・文夫がお願いしたもので、上の梵字が真言宗か天台宗の戒名に使われるものだというのがわかった。
祖父・文夫は真言宗か天台宗に帰依していたか、陸奥家の本来の宗旨は真言宗か天台宗であった可能性が出てきました。まあ、祖父は無宗教で、葬式の時に、適当に真言宗か天台宗のお坊さんにきてもらって戒名をつけただけ…という可能性もありますがw
陸奥藤吾の出生地の仁淀川町(池川村)には真言宗寺院もあるようです。そこにいけば、もしかしたら、陸奥家の先祖の墓もあるかもしれません。過去帳とか。時期をみて現地リサーチしてみたいものです。
白河。鹿嶋神社。上方にいると鹿嶋さんというのがわかるようでわからない。春日さんの親神みたいなもの…というイメージだが、春日さんの方がしっくりくるw
紅葉が美しかった。反橋は神橋という。畏れ多くて神橋は渡らず、横の石橋を渡りました。
白河。鹿嶋神社。
白河の氏神。総鎮守。絵馬は達磨。達磨は本来、中国禅の人だが、絵馬になって神社に奉納されて、達磨大師もビックリであろう。
白河は達磨の名産地。これも松平定信公がデザインしたとか広めたとか。なんでもかんでもいつでもどこでも定信公。もう定信公がお忍びで町火消に居候する貧乏旗本の三男坊・徳田新◯助に姿を変えて町民と交流しながら世にはびこる悪を斬りまくっていた…とか聞いても驚かない。
白河。鹿嶋神社。磐座。
鹿嶋さんの御神体でしょう。本社の奥が山になっていて、そこを登っていくと磐座がある。これが神々しく、素晴らしかった。
宮司さんに話を聞いてみたら「じつは山全体が岩でできていて、樹木で覆われたが、露頭している部分が磐座として崇められ、古代の祭祀場であったろう」とのこと。
なぜか土器が置かれていて、これも宮司さんに尋ねたら「誰かが置いたもののようです」とのこと。神社側に承認(?)されて、そのまま奉納されているのも面白い。おおらか。