1500年前の大阪は、日本橋筋あたりまで大阪湾が侵食していました。日本橋筋は港で、大陸からの交易船が行き来して、そこにやってきたのが呉の国の織姫たち。羽呉神社は、その名残です。
彼女たちはその後、飛鳥や伊勢に移って機織りの技術を全国各地に伝えました。とくに伊勢の機織りは江戸時代になると越後屋呉服店を産み、現在の三井、三越のルーツとなっています。
また現在の日本橋筋は秋葉原と並ぶ電気街。中国人が大勢やってきて、家電・・・炊飯器や冷蔵庫、現代の機織り機=ミシンなどを大量に購入して帰ります。
1500年経って、機織り技術が逆輸入されている。大阪のまちの歴史いうんは、不思議なもんですな。
大阪は「敗北者のまち」です。河内王朝、物部氏、聖徳太子、孝徳天皇、菅原道真、南朝、北畠顕家、大坂本願寺、豊臣家、淀殿、真田幸村、豪商淀屋、大塩平八郎、大村益次郎・・・と、みんな大阪で敗北していってます。幕府崩壊の象徴も鳥羽伏見の戦いの余波による大坂城炎上でした。江戸城は無血開城で無事だったのに、なぜか大坂城は紅蓮の炎に包まれて灰燼と化す。大阪城って歴史のターニングポイントとなるとよく燃えるんですな(笑)
そのせいかどうかはわかりませんが、大阪では敗北者を「残念さま」(残念さん)といって篤く崇拝した時代がありました。要するに怨霊信仰の一種です(大坂はある意味で怨霊の宝庫といって良いです)。とくに江戸時代に、大坂庶民のあいだで流行った「残念さま」は、大坂夏の陣で享年23歳の若さで亡くなった木村重成でした。いまは無名に近い武将ですが、豊臣秀頼の幼馴染です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E6%88%90
木村重成は、河内の若江堤というところで戦死したんですが、その墓参りが爆発的に流行った年が何度もあるんです。その爆発ぶりは大坂庶民が集団発狂したか?というほど凄まじいもので、大坂城の玉造口から若江の約7キロほどの街道に、庶民がびっしりと集まって、昼どころか朝も夜も提灯を持って「残念じゃ!残念じゃ!」と言いながら、木村重成の墓に参ったといいます。
この「重成詣り」が大流行するたびに、幕府は「なにしとんねん!?」と弾圧。守らない人間は逮捕して投獄までしたそうで、大体、3ヶ月ほどで騒ぎは終わったそうですが、忘れたころに、また「残念さま信仰」が巻き起こって、奉行所はそのたびに頭抱えたそうです。木村重成は、幕府に逆らって死んだ武将ですから、そんなのを「残念さま」といって神さまにして参るなんてのは、けしからんどころの話ではないんですな。江戸では到底、ありえない話で、大坂ならではの現象でした。
ちなみに、この「重成参り」が流行る年というのがあって、大体、物価高騰とか不況の年やそうです。要するに大坂庶民の鬱屈のガス抜きだった。幕末、明治の混乱期に東海道や伊勢で流行った「ええじゃないか!」と似てますが「ええじゃないか!」は現状肯定の言葉。「残念じゃ!」というのは現状否定の言葉。ちょっとニュアンスがちがいます。同じような狂乱騒ぎでも、大坂という都市の特性が出てるといえるかも知れません。
雪鯨橋をご存知でしょうか?大阪府大阪市東淀川区の瑞光寺境内の弘済池に架かる橋で、地元では「くじら橋」とも呼ばれています。
江戸中期の宝暦6年(1756)に瑞光寺4代目住職の潭住知忍が南紀太地浦(現・和歌山県太地町)に行脚したところ、捕鯨の不漁に困った村人から豊漁祈願を依頼されました。そこで住職が祈願をするとたちまち豊漁となり、後日、村人は黄金30両とクジラの骨18本を寄進。住職もクジラの供養のためにクジラの骨を使って橋を造ったことが、雪鯨橋の始まりといわれています。
長さは約6m、幅は約3mで、欄干がクジラの骨。何度か架け替えされていて、現在の橋は2006年に架け替えられた6代目。「クジラの骨で作られた」なんて橋は日本唯一はおろか世界でも唯一無二のものでしょう。江戸時代から浪華名所として有名となり「難波一州の名奇(めずらしきもの)」と呼ばれました。「浪速の名橋50選」に選定され、また「日本百名橋」の「番外」にも選定されてます。
クジラは古代には「イサナ」(鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚)と呼ばれ、『万葉集』にも登場してきます。
鯨魚取り 浜辺を清み うち靡き 生ふる玉藻に 朝なぎに 千重波寄せ 夕なぎに 五百重波寄す 辺つ波の いやしくしくに 月に異に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻れる 住吉の浜(万葉集931番)
やすみしし 我が大君の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を清み 朝羽振る 波の音騒き 夕なぎに 楫の音聞こゆ 暁の 寝覚に聞けば 海石の 潮干の共 浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響む 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲りする 御食向ふ 味経の宮は 見れど飽かぬかも(万葉集1062番)
「住吉の浜」や「難波の宮」といった地名が出てきますが、古代には大阪湾(住吉津・難波津)にもクジラが押し寄せて、それを取った漁民(いさなとり)がいたということでしょう。「鯨一匹捕れば七浦潤う」とよばれたように、クジラを一匹とれば7つの村々の飢えが救われました。また漁民たちはクジラのことを「えびす」とも呼んでいました。クジラはもはや海の神そのものとして信仰の対象として崇めていたわけです。住吉大社の古文献によると住吉夏祭には毎年、必ずクジラが住吉浜に見にきて、それを漁民は住吉神の化身として崇め、さらに捕獲して有難く食べていたそうです。神様を食べるところが、いかにも大阪的ですな(笑)
また日本人はクジラの肉はもちろんのこと、舌(セセリ)、尾びれ(オバ)、肝臓(カラギモ)、肺(フクロワタ)、男根(タケリ)、睾丸(キンソウ)、女陰(ヒナ)といった部分まで徹底して食用(薬品用)に利用しました。さらに骨やヒゲは装飾具などに加工され、クジラの皮からは鯨油が採取され、それでも残った肉・骨・皮などは石臼で粉砕して「鯨肥」と呼ばれる海産肥料として使用されました。クジラ利用率100%。捨てるところなんて、なにひとつとしてありません。それほどクジラを大切に尊重したのが日本人でした。
捕鯨問題に関して素人、門外漢のぼくが何かいえることはありませんが、日本の捕鯨は決して自然や生物に対する冒涜行為、残虐行為などではなく、深い歴史と文化、信仰があるということは毅然と主張するべきやと思ってます。
当たり前のことなんですが自由主義が浸透すると、結婚率は下がるし、子供も産まなくなります。国家が「産めよ増やせよ!」とやらない限り、人口は増えません。つまり人口増という現象は近代国家の国策です。
そもそも人口が増えるのは人類史の中でも「異常」「イレギュラー」な事態でして。過去の長い人類の歴史において人類の人口は、ほとんど増えていません。江戸時代の大坂は250年間、常に30万から40万人で推移してました。増えたり減ったりを繰り返した。それが「普通」なんです。
ではなぜ近代国家が「生めよ増やせよ」をやったか?といえば、これは徴兵制度の浸透によります。国民=兵隊で戦力になったから。これをはじめたのが天才ナポレオンです。
中世までのヨーロッパは「傭兵」による戦争でした。兵隊というのは専門家、プロがいて、それを金で雇って戦争をしていた。しかしナポレオンは「愛国心」を訴えて「国民兵」を作ったんですな。国民兵はお金がかかりません。「無料」で、いくらでも、できます。ナポレオンの強さはそこにありました。それを象徴するのがフランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」。これ、ほんとに、すごい歌詞ですよ。例えば「市民らよ 武器を取れ 軍隊を 組織せよ 進め! 進め! 敵の汚れた血で 田畑を満たすまで」といった調子で、こんな曲歌ってええのんか?と思うぐらい、戦闘的で情け容赦ない(笑)
こういう国民兵の残虐さと比べると「傭兵同士の戦い」は決着がつきません。お金で雇われていますし、お互い、稼業ですんで「命あっての物種」「まぁまぁ」でやるわけです。ヨーロッパの中世の歴史は戦争の歴史ですが、やたらと、その期間が長い。百年戦争(英仏戦争)は文字通り、100年間以上やってます。100年も戦争をやれたのは、傭兵同士だからです。本気やなかったんですな。
そして本当に恐ろしいのは「国民兵同士の戦い」で、これは愛国心に駆られて、やる方が本気ですから。「国家のためなら命すら惜しくない!」と思い込んで、限度がありません。最終的には「○○民族は劣等民族だ!全滅させろ!」という根絶やしの戦争になります。人類がはじめてそれを経験したのが、第一次世界大戦と第二次世界大戦。それぞれ4年と6年やりましたが、信じられないほどの大量虐殺の恐ろしい大戦争になりました。変な話ですが、傭兵同士の戦争であれば、こんなことはなかったでしょう。国民兵同士の争いだから、こういう結果となった。ナポレオン(近代国民国家)の罪であり、愛国心の恐ろしさです。
しかし、もはや近代国家の国策に盲目的に則る時代ではありません。また地球資源も有限です。これからの人類には人口増加ではなく、人口調整、人口抑制が求められます。いまの日本は先進国では唯一、人口減少国家となってます。これが進むと日本はどうなることか?・・・と悲観する学者もいますが、それほど悲観的なことでもないと思ってます。
また子供がいないと消費は増えます。財産を残していてもしょうがないですから。いまの団塊の世代がケチといわれるのは、子供や孫にお金(家や土地)を残そうとするからです。親心なんですが、団塊の世代は数が多いですから、そうやって全員が全員、お金を溜め込んだ結果、日本全体がデフレとなっています。
大量生産、大量消費の時代は終わりました。戦争も必要ないし、貯蓄も必要ない。自由主義を浸透させて、人口を調整することで、物事をまるく治める。そういう知恵を発揮するべきやないか?と思ってます。近代国家の「産めよ増やせよ」ではなく、近代以前の、人類の自然な歩みに習おうということなんですが。温故知新です。
中世大坂で活躍した渡辺党。
この渡辺党が日本の渡辺姓(渡部、渡邉、渡邊なども同じく)の元祖で、坐摩神社は、その氏神様で境内地だけは、いまだに「渡辺」という地名が残っています。
渡邉恒雄、渡辺満里奈、渡辺直美、渡辺謙も、みんな、坐摩さんがご先祖さま、ルーツ。そう考えると不思議ですなぁ。
大阪日日新聞「澪標」のコラムです。
大阪あそ歩’10春(http://www.osaka-asobo.jp/)がスタートしています。6月6日まで大阪市内で105コースのまち歩きを実施。パンフレットをご希望の方は大阪あそ歩事務局までお問い合わせください=電話06(6282)5930。
さて、前回のコラムでは大阪あそ歩は「まちの物語を体感するツーリズムだ」という話をさせていただきましたが、今回は、大阪のまちの物語の豊富さと、その可能性について話をしましょう。
最近、大阪あそ歩に参加した、神戸の方から「105コースは凄(すご)い! なんでこんなに沢山(たくさん)あるの?」とお声を頂きました。確かに105コースというのは驚異的な数ですが、これはなにもむやみやたらに数を増やすことを目的としたわけではなく、大阪あそ歩のガイドさん、サポーターさんにまち歩きコースをご提案いただき、「大阪という都市の物語を体感しよう」と思って作成していくと、必然的にこれだけの数になった-というのが本当です。
ご存じのように、大阪は戦災で焼けてしまい、また戦後の高度経済成長の乱開発やモータリゼーションによって、市中の堀川は埋め立てられて高速道路となり、「水の都」の景観は徹底的に破壊されてしまいました。奈良、京都の神社仏閣、神戸の異人館、長崎の中華街といった美しい景観エリアは残念なことに、あまり残っていません。
しかし、大阪というのは非常に歴史が長い都市です。例えば平城京(710年)、平安京(794年)よりも古いのが難波宮(645年)です。歴史が長いということは、それだけ物語が豊富ということです。実際に難波宮の時代には上町台地に沿って「難波大道」が造られましたが、いまもそのライン上に「大道町」があります。大道自体は跡形もありません。その痕跡として大道町という地名が残っている。ハードはないけれど、ソフトとして語り継がれている。
ここのところが非常に重要で、大阪あそ歩は「失われた大阪のまち」をガイドさんの語りによって再現します。ハードウエアの観光ではなく、ソフトウエアの観光なのです。豊かな想像力やイマジネーションが必要で、だから大阪あそ歩を楽しめる参加者は、非常に知的レベルが高いといえます。
しかし、よくよく考えると、もともと大阪人は、こうした「形がないもん」を扱うのが非常にうまい集団なのです。この世に存在しない帳簿米を扱った堂島米市場を開いたのは大阪人でした。様々(さまざま)なグルメ料理を生み出したのは、大阪人の鋭敏かつ優れた味覚です。浄瑠璃、落語といった芸能文化を花開かせたのも大阪人でした。大阪人にソフトウエアを扱わせたら、これはもう天下一品で、どの他都市にも負けません。
大阪あそ歩の最大の強みや可能性というのは、この大阪人の卓越したソフトウエアの活用能力といえるでしょう。ハードウエアではなくて、ソフトウエアの観光、まちの物語を体感する観光というものが、もっともっとクローズアップされれば、大阪が日本最大の観光都市になることも十分に可能性としてありえます。
元々、大阪という土地柄は政治家を生みません。近代政治とはイデオロギー闘争。ところが大阪人はそもそもイデオロギーを信用してません。もっと実質的な、現実的なものに価値をおきます。算盤を弾く。民主主義?なんやそれ?食えるんかいな?食えるんやったらよろしい。そういう態度が人生の根底の部分にあります。幕末の動乱期でも「やれ攘夷だ」「開国だ!」「倒幕だ!」「公武合体だ!」なんてやってたのは薩長土肥会津といった田舎もんでして。大坂人は一切知らんぷり。鳥羽伏見の戦いも大坂の町衆は弁当もって高みの見学してました。幕末時に緒方洪庵や福沢諭吉といった偉大なる学問家、書生を生みましたが、彼らは志士でも政治家でもないです。
日本の歴代首相を見てもそうです。大阪出身の首相はわずか2名だけ。鈴木貫太郎と幣原喜重郎。この2人も非常に特殊な事業で日本国首相になりました。鈴木貫太郎は、日本の敗戦濃厚の時期に、昭和天皇から「頼む。もう鈴木しかいない。ぜひとも総理大臣になってくれ」と懇願されて、いやいやながら首相になったという人物。昭和天皇から頭を下げられて首相になったのは日本の歴史上、鈴木貫太郎のみといわれてます。鈴木貫太郎がやったことは和平交渉であり、連合国のポツダム宣言の受諾。「進め!一億火の玉だ!」「一億総玉砕!」なんて物騒なことを叫ぶ軍部の暴走をとめて日本を敗戦に導きました。終戦記念日を題材にしたドキュメンタリーブック『日本のいちばん長い夏』(半藤一利)なんかを読めば、鈴木貫太郎の仕事は、まさに命がけの仕事だったことがよくわかります。
幣原喜重郎も昭和天皇から請われて成立した敗戦処理の臨時内閣です。幣原はすでに政界を引退していましたが、どうも近々、首相に任命されそうや・・・と鎌倉に引越して逃げようと荷物をまとめていたところで昭和天皇から呼び出されて直々に説得され、しぶしぶ首相になった・・・という人物。鈴木貫太郎も幣原喜重郎も首相になろうとしてなったのではなく逃げ回っていたわけで、こういうとこが、じつに大阪人的ですなw 幣原喜重郎は戦前から「幣原外交」と呼ばれる平和外交で有名でした。幣原路線でいっていれば日本は太平洋戦争を回避できたかも知れませんが結局、戦争拡大路線の田中義一派(長州出身。俗にいう田中外交)にやられて日本は破滅への道をひた走りに走ってしまった。また幣原はしぶしぶ首相になりましたが、一世一代の奇策を編み出しまして。それが「日本非武装中立宣言」。これが憲法9条に結びついて戦後日本の「重経済・軽軍備路線」が確定しました。最近は9条に対して「時代にそぐわない。改憲すべき」といった論調も数多くみられますが、幣原が「非武装中立」なんて言い出したときは現在の比ではなく「理想論」「狂気の沙汰」「非現実的」「老人の世迷言」「日本が滅ぶ」と散々に貶されました(なんせ当時は米ソ冷戦の幕開け時代でしたから)。しかし、この幣原の「非武装中立宣言」がなかったら、今日見られるような、戦後日本の空前絶後の経済的繁栄はなかったと断言できます。日本が戦争に負けてボロボロだったからでこそ編み出された、幣原外交の奇策中の奇策。じつに超々高度な政治的判断でした。
鈴木貫太郎が1945年4月から8月の4ヶ月間。幣原喜重郎が1945年10月から1946年5月までの7ヶ月間。ふたりあわせても1年にも満たないですが、この2人の大阪出身の首相が在任中にやったことは戦後日本にとって非常に大きい。太平洋戦争という歴史の大きな流れを個人の責任に帰結するのは横暴な話ですが、しかし開戦前夜の首相・・・近衛文麿(京都・公家出身)や東条英機(東京・軍人出身)がやった愚かしい太平洋戦争の尻拭いを大阪の首相2人でやったというのは紛れも無い歴史的事実です。日本という国が、ボロボロでどうしようもなくなったときに、さっと登場して、やるだけのことをやると、すぐに首相をやめていった。「大阪の首相」が登場したのは日本という国が非常に特殊な事情であっただけで、完全にこの2人の存在は大阪という政治家不在の風土からすれば「イレギュラー」であり「異分子」です。大阪はアンチ政治家の風土であり、ほんまは首相なんて出てくる土地柄ではないですから。時代のどうしようもない要請で、たまたま、偶然、そうなっただけ。大阪人が首相をやる時は、日本がおかしなったときですw
そういう馬鹿馬鹿しい時代が再び来ないことを祈りますよ。大阪人は政治なんてやるほどヒマやないんです。人生は短い。もっと有意義に、実質的に、一所懸命に、楽しまないといけない。
デンマークは原則6歳になるまで、子供に読み書きや算数を教えないとか。では一体なにをするのか?「遊び」をするそうです。遊びを通して社会性や集団行動、自由、責任を体感させる。さらに義務教育では試験も通知表もないそうで、高校、大学、専門学校では、入学試験も、入学金も、授業料も一切必要ないとか。さらにさらに仮に高校、大学などの高等学校を卒業しても、まったく「資格」がなく、職業はどれでも自由に選択できるそうです。職業適性というのは、実際に仕事の現場に出て、そこで初めて、合うか、合わないかが問われる。資格がないから、どんな人間でも、あらゆる職業に挑戦できる。ダメな奴はダメ。才能のある人は成功する。非常にシンプル。そんな教育で大丈夫なんやろか?と思いますが、じつは教育指数:0.993で世界一位。世界最高峰の教育大国です。そして自由教育世界1位のデンマークは、また「国民の幸福度」でも世界1位だったりします。自由教育、無試験制度、資格ビジネス、権利ビジネスの撤廃、職業選択の自由、誰でもチャレンジできる機会均等の市民社会が成熟している。要するに「失敗しても何度でもやりなおせる社会」なんです。リスタートができる。どんな人間にも、可能性がある。だから、みんな、幸福なんでしょう。ガチガチの管理教育で縛りつけて、たった一度でも失敗したら「負け組」に転落して、そこから容易に抜け出せない。「失敗が許されない日本」とは大違いです。こんなに過酷で、辛い、人生はないです。今後の日本の教育をどうするか?の答えとして、デンマークの自由教育に、ぼくは可能性を感じています。
「あんた江戸っ子だってね?食いねぇ食いねぇ!寿司食いねぇ!」といえば任侠者・森の石松の名セリフ。
ところで、この森の石松が薦めた寿司は、じつは江戸前ではなく、押し寿司、箱寿司の大坂鮨だったということは案外、知られてません。石松は金毘羅参りの帰路で、大坂・天満八軒屋浜から京に向かうさいに、江戸っ子を見つけて、上記のセリフを吐いたんですな。江戸っ子に大坂鮨を薦めるところが森の石松の愛嬌ですな(笑)
そもそも当時の旅では江戸前は携帯できませんでした。日持ちしませんから。その点、大坂鮨はネタも酢で締めているので日持ちします。また揺れに揺れた淀川の船旅では江戸前はひっくり返って、ネタとシャリがバラバラになります。大坂鮨は押し寿司なんで、そういう事態も防げる。旅の携帯食として、大いに利用されたのが大坂鮨やったそうです。道頓堀の芝居観劇にも定番メニューでした。
江戸前にはない大坂鮨の良さ。智恵。文化。それを大阪人は誇って、大切にしたいですな。