利を休む
茶人・丿貫(へちかん)がある日、友人の利休を早朝の茶会に誘った。利休が丿貫の庵にいくと東屋から煙が出ている。さらに露路に赴くと何やら地面の色が違う。しかし利休は平然と露路を歩く。すると色が違う地面はじつは落とし穴で、利休は穴に落ちて泥塗れになる。途端に丿貫がでてきて「なんでこんなところに落とし穴が!?御召し物が汚れましたな。ひとまず朝風呂へ」とそそくさと利休を風呂に入れる。そして利休が風呂から出てきて喉が渇いたところで、丿貫が極上の茶を入れて持ってくる・・・。伝説の域を出ないですが、こういう物語が巷間に伝えられているところが茶道の面白さでしょう。
茶道の極意は「おもてなし」。「表がない」という言葉の意味するところは、じつは「裏がない」ということです。事前の打ち合わせや談合や示し合わせが一切ない。そもそも茶道を発展させた堺のまちは、鉄砲や武器武具を売って儲けた「死の商人のまち」です。「裏」(事前の打ち合わせや談合、スパイ活動、戦争の情報など)は当然あって然りの世界だったでしょう。しかし、こういった血塗られた世界には、なかなか常人の神経では安住していることはできません。だからでこそ堺の死の商人たちは、「表」を無くし、「裏」を無くすことで、「一期一会」の奇跡を結実させようとした。赤裸々に自らの本心を提示して、他者との邂逅に全力を尽くすことで、なんとか「人間の心」を取り戻そうとした。裏社会の商人だからでこその逆転の発想と、限界的な美学が伺えます。
本心を提示するということは、受け取り手にも峻烈な緊張感を産みだします。「招く人」(丿貫)だけではなくて「招かれる人」(利休)も相手の本心を察しないといけない。事実、利休は「煙」や「地面の色」を見て「風呂上がりの茶ほど美味なる一杯はない。その一杯を飲ませたいがゆえに、丿貫は徹夜で落とし穴を掘って朝風呂を用意して待っていたのだろう・・・」と丿貫の本心を瞬時に見抜いたんですな。そして、わざと素知らぬ風で、落とし穴に落ちた。
また、丿貫が落とし穴を掘ったのは「最近の利休は増長している」という警告の意図もあったように思うんですな。利休は秀吉や三成とどんどんと対立していく。丿貫は「利休よ。そのままでは、いつか落とし穴に落ちるぞ」と諌めようとしたのではないか?と。「おもてなし」というのは、ただ相手が楽しかったとか面白かったとか、そういう体裁の良い結果を求めるのではなくて、それが真実、必要なことであるならば、時には客を泥塗れにして痛い思いさせることだって厭わない、厳しい精神や態度を指すと思うんですな。利休は、そういう丿貫の想いを受け止めながら、無言(本心には本心でしか答えられない。言葉は無用の世界です。態度で示すしかない)で穴に落ちたのではないか?
「秘密保護法」とか「裏ありまくり」の法律が制定される世の中で「おもてなし」が流行語になるというのも、ある種、強烈なブラックジョークやな・・・なんて気がしてた昨今やったんですが、さらにタイムリー(?)にも利休の映画をやるそうで。曰く『利休にたずねよ』。直木賞受賞作品の映画化とか。ちょっと気になってます。利休役が海老蔵(かっこよすぎる)で、そこがちょっと微妙なんですがw
「利休」とは「利を休む」と書きます。死の商人は、利を否定することで「茶道」「一期一会」「おもてなし」「わびさび」などの文化を生んだ。新しい価値観を切り開くには、まず自己否定が必要ということなんでしょう。なんでもかんでも資本に換算されて行き詰っている世の中。ちょっと利を休んでみましょう。そこから新しい美学が生まれてくるかも知れない。
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