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2014 年 8 月 15 日 のアーカイブ

ひとはみんな、いずれ、無縁仏になる

2014 年 8 月 15 日 Comments off

終戦記念日。黙祷。

先だって、堺で、とてもお世話になっていた方が亡くなりました。人間、当たり前ですが、みんな、最後は死ぬわけで、死に方ってのは考えますな。

ぼくは311以降、「こりゃ、ほんまに、いつ死ぬかわからん。いつ死んでも悔いがないように」と死ぬ準備をはじめました。自分のやるべき仕事を、ちゃんとやっておきたいという思いがあって、この3年間ほどはそれに全力できてます。あと、これと、これと、これと・・・と、5つぐらいの仕事を完成させたら、自分として、悔いはないなとも思ってます。生きてりゃ、また、欲も出てくるかもしれませんが。

死んだら、どうなるのか?自分という存在はこの世から雲散霧消しますが、おそらくは自分の名前を記した墓ってのができるようです。墓も、しかし、いつまでもつかどうか?

よく墓参りにいくと、古びた墓があって、そこに「この墓地の関係者の方は名乗りでてください。何年何月何日までに名乗りがない場合は、無縁墓に改葬します」というような張り紙が貼ってあるのを見たことがありませんか?あれは平成 11 年 5 月に「墓地、埋葬等に関する法律」が変更された結果やそうで。無縁墳墓の改葬が公告されて、それに関係者が名乗りをあげないと、いつのまにか墓は粉砕され、捨てられ、無縁改葬することが可能になっています。なんでこんなことが起こっているのか?もちろんビジネスです。要するに、ここには古い墓を撤去して新しい墓地として売り出そう・・・というわけですな。

民俗学や人類学は、生者が死者をちゃんと鎮魂し、供養するということが、そのコミュニティの基礎的絶対条件であることを教えてくれます。これがないコミュニティはコミュニティとはいえない。死者を死者たらしめることで、生者は生者たりえるわけで、それを疎かにする集団は、恐ろしく不安定かつ無責任で、危険なヒステリー集団でしかありません。「死に方がわからんのに、生き方がわかるはずないやないか?」というわけですな。

無縁墓、無縁仏というのは、そんなに遠い存在ではないです。極論すれば、みんな、最後は必ず無縁化するといえます。事実、自分の父母や祖父母の墓まではわかりますが、3代前、5代前、10代前、30代前のご先祖さまになると、もはやどこに墓があるのかすらわからないという人が大半でしょう?それらは無残にも破壊されて改葬されている可能性は高いです(自分の先祖をずっとたどれるのは天皇家ぐらいです。天皇家ですら神武天皇の先祖というものをたどっていくと、やがて曖昧模糊なものになっていきます)自分の先祖がそうであるように、自分の墓や存在も、自分の子供や孫は記憶するかも知れませんが、それ以後は胡乱なものとなっていく。

要するに「ひとはみんな、いずれ、無縁仏になる」んですな。無縁が大前提。そして、これがわかれば、やがて「だから、無縁仏を供養しよう」という優しい知恵や慈悲は当然出てきます。人間は、みんな、やがて、無縁仏になる。ぼくも、あなたも。では、無縁仏を供養することで、自分も、あなたも、みんなも、一緒に供養できるのではないか?供養されない霊(残念さま)は怨霊化するという信仰も影響しているんでしょうが、しかし、こうすれば社会は無縁を畏れなくなる。その大阪的事例が「大阪七墓巡り」でした。

大阪七墓巡りは無縁仏を供養しようという祭礼です。無縁仏とはなにか?それは忘れられた民。過去の先人たち。それでいて、それは未来のぼく、未来のあなた自身でもある。人口減少時代。限界集落はやがて滅び、だれもいなくなる村やまちが出てくる。どんどんと無縁化していく社会だからでこそ、無縁のための祭礼が、知恵や慈悲が必要だろうと思ってます。

■2014/8/15(金)夜23時より「大阪七墓巡り2014」
https://www.facebook.com/events/1440548432877859


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『まわしよみ新聞のすゝめ』寄稿集より抜粋

2014 年 8 月 15 日 Comments off

『まわしよみ新聞のすゝめ』の魅力として寄稿がバラエティ豊かで豪華!!ってのがあります。続々、寄稿者のみなさんの原稿が集まってまして。これが読んでて、ほんまに面白いww ちょっと抜粋してご紹介します。

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『「まわしよみ新聞」のように既存の新聞を躊躇せずザクザク切り刻み、自分たちの新聞をつくるという発想は、なかなか思いつかないことだし、小気味よい。』
 下之坊修子

『言語芸術的な素材を含め、一つの紙面に編集するこのまわしよみ新聞の共同編集作業そのものもまた、限界芸術として捉えることができる。つまり、連句会の現代版である。』
 小暮宣雄

『陸奥やまわしよみ新聞は救世主にたとえられるべきではない。せいぜいのところ、洗礼者ヨハネであり預言のプロジェクトである。まわしよみ新聞は、次の世界の先触れが現れたるためにあるのだろう。』
 岸井大輔

『ちょうど、集団的自衛権行使容認に関する記事が一面になった日にまわしよみ新聞を行いましたが、参加学生はその記事に十分注意を払いつつ、あえて他の記事を切り抜き、新しいテクノロジーの話やヤンキー文化の展示会など様々な記事を切り抜きました。』
 吉村茜

『情報化が著しく進んだ今日の大学では、教員から学生に向けた垂直型の授業の有効性は限定的なものとなっています。そうしたなか、学生同士の学び合いを促進する水平型の授業の構築・充実が喫緊の課題となっています。新聞記事データベースを用いた「まわしよみ新聞」は、こうした水平型の授業のツールとして活用意義が高く、学生の「島宇宙化」した日常を異化するアプローチとして効果的です。』
 白波瀬達也

『そんな場所のすみっこで新聞を切り貼りしながら、ああだこうだと言い合ったあの時間は何だったのだろう。メディアの周縁か地図の裂け目か。いつのまにか大阪中で、日本中で行われるようになったけれど、その意図は場所により人によりさまざまだ。まわしよみ新聞はただ媒介となって、その場そのときに必要とされる言葉が交わされているのだろう。おや、これって市民メディアのひとつの理想なんじゃないか。』
 茂木秀之

『しかし、「まわしよみ新聞」は、単に新聞から得られる情報を共有しているのではない。読み手を編集者の側へと押し上げて、新聞を使って新聞ではないものを編み出していく方法論を共有しているのである。これはおそらく、新聞史上においてきわめてユニークなムーブメントだ。』
 杉本恭子

『これは結構、なんでもないようなことですが、かなり重要なことだと思っています。というのも、まわしよみ新聞の見落とされがちな点として、まわしよみ新聞は新聞記事を読んだり、情報交換したりする「メディア体験の場」として捉えることもできるのですが、じつは当初は「作品(新聞)を作って展示する」という「アート体験の場」として構想されたわけです。』
 釜中悠至

『まわしよみ新聞への理想はこんな風に高いわけだが、実際は鴎外の「椋鳥通信」のように人生のくねくね道の出来事を拾っては笑い、ケチな出来事を風刺し、風刺したからといって社会が劇的に変わるわけでもなく、でも乾いた笑い声で日常を転がしてゆくことで、今日を生き抜き、いのちをつなぎ積み重ねていくだけのこと。』
 上田假奈代

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良い本になりそうです。ほんまに。


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「大阪七墓巡り2014」レジュメその①「死生観光の旅」

2014 年 8 月 15 日 Comments off

■2014/8/15(金)夜23時より「大阪七墓巡り2014」
https://www.facebook.com/events/1440548432877859

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「大阪七墓巡り2014」レジュメその①

■死生観光の旅
アフリカのモシ族は、誰かが死ぬとコミュニティの中で公式に埋葬されるまで「クリタ」と呼ばれる女性がその死んだ人の代わりに生活をする。死んだ人の家で、その人の服を着て、その人として生活する。その後、「クレ」と呼ばれる埋葬の日にはクリタが頭をそり、儀式を終了する。

アイヌ民族は人は死んだら「下界」にいくと考える。下界は現世とそう変わらない世界で、しかし、現世が昼なら下界は夜、現世が夏なら下界は冬・・・とアベコベの世界。だから人が夏に死んださいは冬の恰好に。冬に死んださいは夏の恰好で埋葬する。

北欧のヴァイキングは戦争こそが最大の喜びであり、人間の価値、生きがいという思想が強い。だから死んでも戦場に行って、そこで永遠に戦えるという。また昼は戦い、夜は酒宴で大騒ぎ。その戦場のことを「ヴァルハラ」と呼ぶ。

『魏志倭人伝』によれば、3世紀の倭人は「人が死ぬと棺の中にいれ、土で封して塚をつくる。その後、十余日は肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく」とある。

古代エジプト人は人が死ぬと魂が抜け、死者の国にいくと考えられた。魂は永遠不滅で、いつか再生することが可能とも信じられた。だから「ミイラ」を作って、いつか魂が返ってきて再生することを願う。ちなみに「猫のミイラ」なんてのもあった。

ジプシーは人が死ぬと「そんな人間はこの世にいなかった」ということになる。名前も口にしない。思い出話もしない。遺品も残さない。つまり「誰も死なない」。この世には常に生きている人間しかいないとする。

アメリカ・インディアンは「肉体が魂を持っているのではなく、魂が肉体を持っている」と考える。死によって肉体がなくなることで、魂は新しい肉体を得て別の世界にいくと考える。また新しい死後の生のために、遺体のそばには、その人の生前の所持物や、大事にしていた道具や武器、料理の道具が置かれる。

チベット密教では人は死ぬと大空を舞う鳥に運ばれて魂が天に導かれるとする。だから死体は食べやすいように切り刻んで、鳥に食わせる。俗にいう「鳥葬」。

イスラム教では「審判の日」に大天使ガブリエルがやってきてラッパを吹くと死者は全員蘇ると固く信じられている。さらに復活後に「アラーの審判」があり、善行を積んだものは平安を。しかし悪行を積んだものは永遠の苦しみを与えられる。

ブラジルのヤノマミ族は、産み落とされたばかりの子供はまだ人間でなく「精霊」とされる。子供を人間として迎えるか、精霊のまま天に還すかを母親が決める。子供を天へ送るときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白蟻の塚に放り込む。蟻が子供を食べつくすのを見計らい、塚を焼いて精霊になったことを神に報告する。 寿命や病気などで民族が亡くなった場合も同じことが行われる。「蟻葬」ともいう。

オーストラリアのアボリジニは人が死ぬと、まず土葬をし、10ヶ月位して土を掘り返し、白骨化した骨に残った肉を削ぎ取り、森に持って入り、親族で焼いて食する。死者の残った肉を食することで、その人のパワーを引き継ぐと考える。

フィリピン・マノボー族は、死んでも何も変わらない。「イブー」という死の国があるが、それは現世の延長線上にある世界という。そこで結婚したり、子供を産んだり、仕事をしたりして、日常の生活が永遠に続いていく。

フランス・ブルターニュの民間信仰では、人が死ぬと魂が抜け、それはハエになる。アイルランド民間信仰では魂はチョウになる。フィリピン・スーロッド族はコオロギになる。

エスキモーのイヌイット族は肉体は滅びても魂は永遠だという死生観のもと、生まれてきた子に死んだ人の名前をつけ、死者の魂を再び宿らせる。

道教では人が死ぬと魂は抜け、残った肉体は「魄」(ぱく)となる。これが恨みを残したりすると魂のない魄の妖怪=「キョンシー」(僵尸)になる。

スイスでは遺灰を使ってダイアモンドにする会社がある。スウェーデンでは遺体を粉末にして堆肥にする会社がある。アメリカでは遺灰をカプセルにして宇宙に飛ばして流れ星にする会社がある。

アメリカには蘇生が可能になる未来まで人間を冷凍保存する会社がある。すでに70人ほどが冷凍保存されている。全体は12万ドル。頭部のみは5万ドル。

死生観光の旅_01


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