八尾の広報誌『Yaomania』で「ヤオマニアック噺」の連載をもっています。今回は「八尾ミステリー モスクワで発見された久宝寺観音院の梵鐘?」
八尾の広報誌『Yaomania』で「ヤオマニアック噺」の連載をもっています。今回は「八尾ミステリー モスクワで発見された久宝寺観音院の梵鐘?」というわけで、奇しくもロシアネタになりました。
僕が記事を書いたのは今年の1月末。まだロシアのウクライナ侵攻(2022年2月24日)前でした。要するに偶然の産物。そういうことあるんですな。
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■YaomaniaバックナンバーVol.43 2022年特別号(2022年3月31日発行)
http://www.yaomania.jp/pdf/yaomania-vol43.pdf
■八尾ミステリー「モスクワで発見された久宝寺観音院の梵鐘?」
久宝寺・寺内町にある許麻(こま)神社は延喜式にも記載されている古社です。かつてはこの辺りは「許麻荘(巨麻荘)」といい、また「こま」は「高麗」の音と通じ、高麗の渡来人たちが集住したエリアといいます。社伝によると、それらの渡来人たちが自分たちの祖霊神を祀るために宮を建立し、それが許麻神社になったといいます。実際にいまでもご祭神として素盞嗚命、牛頭天王、許麻大神と並んで「高麗王霊神」という、なかなか他の神社では見聞きしない珍しい神さまが祀られています。
また当社界隈には、かつて聖徳太子が開基したという伝説の「久宝寺」がありました。河内随一の大寺だったそうですが、戦国時代に松永久秀の兵火で焼失していまい、しかし、その後継として久宝寺観音院が復興しました。ところが観音院も残念ながら明治時代の神仏分離令の影響などで廃寺となり、いまはご本尊であった十一面観音だけが寺内町の念佛寺に祀られています。
今回、注目したいのは、この久宝寺観音院に、かつてあったという梵鐘です。十里(約40キロ)先でも鳴り響く名鐘として有名であったようで、寛政(1789~1801)年間の久宝寺の南町の大火の時には、火災を警告する鐘の音が、なんと生駒の山を超えて、遠くは大和高田あたりにまで達したといいます。
久宝寺村自慢の名鐘でしたが、しかし、明治の廃仏毀釈の混乱で、いつのまにか、どこかにいってしまうという悲劇に見舞われます。村人たちがいろいろと探し回ったのですが、発見できない。心痛めていたところ、まったく予想もしない形で梵鐘の行方が知られることになりました。
事の経緯はこうです。明治37年(1904)に日露戦争が始まりましたが、その兵隊として第六師団(熊本・大分・宮崎・鹿児島など九州南部出身の兵隊で編成された部隊)に徴兵された清水重吉という男がいました。この清水重吉が大陸の戦闘でロシア軍の捕虜となり、首都モスクワまで移送されました。そして、そのモスクワで外出を許されたときに、とある「ニコライの寺院」(ロシア正教系寺院のことか?)に「澁川郡久寶寺村」と刻まれた梵鐘を発見しました。遠い異国の地で、日本・大阪の梵鐘を発見した重吉は吃驚仰天して、従兄の清水三吉に、そのことを伝える手紙を送りました。そして、それを読んだ三吉が、久宝寺村に問い合わせた結果、村人たちは自分たちが探し回っていた観音院の鐘が、なぜか遠くモスクワにあることを知ったというわけです。しかし当時の村人たちは取り戻す術などまったくわからずで、そのままにしてほってかれてしまったといいます。
一体、どういう経緯で「澁川郡久寶寺村の鐘」(これが本当に観音院の梵鐘かどうか確証はできませんが…)がロシア・モスクワの寺院に渡ったのか?さっぱりわかりません。清水重吉の手紙の話が本当かどうかも不明です。しかし明治時代の廃仏毀釈によって仏像、仏画、仏具などが海外に流出し、外国人の好事家などがそれを求めたといった事例は数多くあります。おそらくは「久宝寺の鐘」もそういった経緯で流れていったのではないか?と思われますが、詳細はわかりません。
謎めいた梵鐘伝説ですが、じつは許麻神社境内にある手水舎は、久宝寺観音院の鐘楼を移したものです。天井を覗いてみると、やたらと高く梵鐘を吊るしていたとわかります。許麻神社をお参りしたさいは、ぜひともご覧になってください。また「モスクワのニコライの寺院」に関しても全く詳細はわかりません。もしかしたら今もモスクワのどこかの教会に久宝寺の鐘が眠っているかも知れません。もし見つかれば八尾史上に残る大発見でしょう。いつの日か、発見されることを祈りたいと思います。