大阪まち歩き大学。勝山の浄念寺さんの北にある地蔵尊。1959年12月に「青磁」という方が書かれた地獄絵が掛かっている。これがなかなか味があって良い。
やっぱり地蔵堂には地獄絵図がないとねえ。
浄念寺さんは珍しい融通念仏宗の寺院。大阪市内ではちょくちょく見かける。融通念仏宗は「お血脈」の信仰を持ち、これは天海や等順(善光寺中興の祖)にも多大な影響を与えた。落語の「お血脈」の題材にもなっている。
大阪まち歩き大学。玉造まち歩き。玉造稲荷神社。
日本航空の朝田静夫社長が寄進した玉垣。大阪市出身で官僚となり、運輸省トップの事務次官になり、天下りで1971年に日本航空の社長になった。
しかし朝田時代の日航は日本航空ニューデリー墜落事故、日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故、ドバイ事件、羽田発那覇行きジャンボ機乗っ取り事件、ダッカ日航機ハイジャック事件と、事故、事件、不祥事のオンパレード。
当時はあんまりにも体制が酷いので国会で安全管理体制がなってないと追求されたりもしたが、朝田静夫は天下りのワンマン社長らしく、長く社長の座に君臨し続けた。
その後、1981年に社長から顧問となるが、次の高木社長時代の1985年に日航ジャンボ機墜落事故が起きてしまう。高木養根社長は事故の責任で社長を辞めて以後、毎年のように御巣鷹山に慰霊登山を続けていた。僕もこどもの頃にテレビのドキュメンタリーかニュース番組で、その様子を観たことがある。遺族にも謝罪の訪問を繰り返していた。
ヒヤリハットではないが、ああいう悲劇的な大事故が起きる背景には日航体質というか、組織的な問題があったろうと思われる。朝田時代の不祥事の数々がそれを証明している。そういう意味ではやはり朝田社長の責任は大きいだろう。
そういう組織の問題、組織の闇、組織の恐ろしさについて追求したのが山崎豊子の『沈まぬ太陽』。小説の中で登場する小暮社長のモデルが朝田社長といわれてます。
新潟市民のソウルフードらしいです。みかづきのイタリアン。
焼きそばにまさかのミートソース。これがですね。意外とイケるw
名古屋の方には大変、申し訳ないんですが、名古屋名物のあんかけスパよりかは、こちらの方が好きかもしれません。申し訳ございません。
まあ、新潟は焼きそばで、名古屋はパスタですから、比べるものでもない。
しかし新潟といえば万代バスセンターのカレーでしょ?といわれ、何度も何度も食べたいと思いつつ、タイミングが悪く行くたびに大行列で諦めてたんですが今回、ようやく人生初のバスセンターのカレー。
美味でした…。これは人気になるのも当然。大満足。新潟いったらバスセンターのカレーです。間違いない。ビックリした。
久しぶりに関西沖縄文庫の金城-金城(カナグスク-キンジョウ)馨さんに会う。ついつい話し込んでしまった…。
『沖縄人として日本人を生きる』をご恵贈頂く。中を開くと大阪あそ歩の大正区・平尾のまち歩きマップが。金城さんにいろいろと話を聞いて作ったマップ。たぶん2009年頃の制作で、もう13年前か。懐かしい…。
大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。
順徳天皇はある意味、最後の天皇といえる。百人一首では最後の100首目が順徳天皇(順徳院)。99首目が順徳天皇の父の後鳥羽上皇(後鳥羽院)。この二人は承久の乱で鎌倉幕府(北条政子、義時)に敗北し、遠島された。天皇家が初めて庶民に敗北した。この時、古代から連綿と続いていた天皇家の政治的権力は地に堕ちたといえる。
天皇、公家といった貴族が貴族たる由縁は「歌を詠む」ところにある。天皇は言霊の司祭であるが、その大いなる仕事は「勅撰和歌集」を編むことだった。中国の歴代王朝は散文の歴史書を編纂することで王権を継承したが、天皇家は詩文の和歌集を編纂することで、その系譜の正統性を証明した。
勅撰和歌集は『古今和歌集』(延喜5年・905年)から『新続古今和歌集』(永享11年•1439年)まで534年間に「二十一代集」が作られているが、特に初期の8つは「八代集」として和歌の世界の古典とされる。
この八代集の最後『新古今和歌集』の編纂を命じたのが後鳥羽院で藤原家隆、藤原定家などが編者となり、1216年頃に完成する。しかし完成の5年後に後鳥羽院は承久の乱(1221)で隠岐島に流される。
その後、後鳥羽院は隠岐島で19年間を過ごしたが、その間に何をしていたか?といえば、この「新古今」を一人で黙々と改定し続け、2000首ほどから400首を外し、1600首ほどに再編集した。俗にいう「隠岐本」でマニア(?)は「こちらこそ真の新古今!」と持ち上げたりする。
重要なのは後鳥羽院が隠岐島に流されたさいに、政治的な仕事は何もかもなくなり、しかし自分にできる仕事として新古今を編集し続けた…ということ。天皇は言霊(歌)を司るから、その天皇としての自分の存在証明として隠岐本を作成した。怨念めいているというか怖い本です。隠岐本。これ、完成した後、後鳥羽院は藤原家隆卿(定家ではない。定家はあっさりと武家政権に擦り寄った)に送ってますが家隆卿も後鳥羽院の執念に身震いしたんやないやろか。
後鳥羽院の息子である順徳天皇は佐渡島に流された。父の後鳥羽院は1239年に隠岐島で60歳で亡くなる。順徳天皇はその3年後の1242年に44歳で佐渡島で亡くなった。
順徳天皇も佐渡島で21年ほど過ごしたことになる。この黒木御所で一体、何をしていたのか?やはり和歌を作っていた。それが『順徳院御百首』。後鳥羽院、藤原家隆に送り、点(添削、批評)をつけてもらっている。
黒木御所跡に足を伸ばすと釈迢空(折口信夫)、与謝野寛、斎藤茂吉、松瀬青々など近代歌人の石碑に取り囲まれていた。近代天皇制が生まれて天皇の復権が成された結果、近代歌人たちが挙って古代の天皇に挽歌を贈った。なるほどなあ。