大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。
大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。
順徳天皇はある意味、最後の天皇といえる。百人一首では最後の100首目が順徳天皇(順徳院)。99首目が順徳天皇の父の後鳥羽上皇(後鳥羽院)。この二人は承久の乱で鎌倉幕府(北条政子、義時)に敗北し、遠島された。天皇家が初めて庶民に敗北した。この時、古代から連綿と続いていた天皇家の政治的権力は地に堕ちたといえる。
天皇、公家といった貴族が貴族たる由縁は「歌を詠む」ところにある。天皇は言霊の司祭であるが、その大いなる仕事は「勅撰和歌集」を編むことだった。中国の歴代王朝は散文の歴史書を編纂することで王権を継承したが、天皇家は詩文の和歌集を編纂することで、その系譜の正統性を証明した。
勅撰和歌集は『古今和歌集』(延喜5年・905年)から『新続古今和歌集』(永享11年•1439年)まで534年間に「二十一代集」が作られているが、特に初期の8つは「八代集」として和歌の世界の古典とされる。
この八代集の最後『新古今和歌集』の編纂を命じたのが後鳥羽院で藤原家隆、藤原定家などが編者となり、1216年頃に完成する。しかし完成の5年後に後鳥羽院は承久の乱(1221)で隠岐島に流される。
その後、後鳥羽院は隠岐島で19年間を過ごしたが、その間に何をしていたか?といえば、この「新古今」を一人で黙々と改定し続け、2000首ほどから400首を外し、1600首ほどに再編集した。俗にいう「隠岐本」でマニア(?)は「こちらこそ真の新古今!」と持ち上げたりする。
重要なのは後鳥羽院が隠岐島に流されたさいに、政治的な仕事は何もかもなくなり、しかし自分にできる仕事として新古今を編集し続けた…ということ。天皇は言霊(歌)を司るから、その天皇としての自分の存在証明として隠岐本を作成した。怨念めいているというか怖い本です。隠岐本。これ、完成した後、後鳥羽院は藤原家隆卿(定家ではない。定家はあっさりと武家政権に擦り寄った)に送ってますが家隆卿も後鳥羽院の執念に身震いしたんやないやろか。
後鳥羽院の息子である順徳天皇は佐渡島に流された。父の後鳥羽院は1239年に隠岐島で60歳で亡くなる。順徳天皇はその3年後の1242年に44歳で佐渡島で亡くなった。
順徳天皇も佐渡島で21年ほど過ごしたことになる。この黒木御所で一体、何をしていたのか?やはり和歌を作っていた。それが『順徳院御百首』。後鳥羽院、藤原家隆に送り、点(添削、批評)をつけてもらっている。
黒木御所跡に足を伸ばすと釈迢空(折口信夫)、与謝野寛、斎藤茂吉、松瀬青々など近代歌人の石碑に取り囲まれていた。近代天皇制が生まれて天皇の復権が成された結果、近代歌人たちが挙って古代の天皇に挽歌を贈った。なるほどなあ。