七墓巡りは大阪、堺、河内だけではなくて愛知でも実施されていたという記録がある。
七墓巡りは大阪、堺、河内だけではなくて愛知でも実施されていたという記録がある。
面白いのが西尾張界隈の七墓で、村の若者たちが「七墓連中」という組織に所属して、新盆の家の前などで浄瑠璃を語ったという。そのお礼に金銭や米を受け取る。若者たちは年中、語りの練習をやっていたそうで、だから尾張の一部の地域では「語り、声、歌の名人」のことを「七墓やなぁ」といったりしたらしい。「七墓」というのが誉め言葉になっているw
大阪や堺で「七墓で浄瑠璃をやった」というような記録は僕が調べた中ではないが大阪だと「歌舞音曲」と共に練り歩いていたという記録はある。もしかしたら大阪でも浄瑠璃なんかも用いられたかもしれない。なんでもありだったかな。
西尾張の七墓で凄いのが浄瑠璃の台本を「七墓台本」というそうで、これが250冊ほど民俗資料として残っていること。大阪、堺ではそんな七墓関連の民俗資料はまるで残っていない。この手の古式の文化は、やはり都市ではアッサリと消滅しやすい。地方の方が濃厚に残るようだ。
七墓台本の中身は「源平盛衰記」とか「照手姫(小栗判官)伝説」とか「善光寺縁起」とか、要するに人気の浄瑠璃をそのまま使っているようで死者の墓前で若者が浄瑠璃を聞かせている光景は想像すると、なかなかシュールで面白い。
新作もあったようで「大塩平八郎」やペリー来航を題材にした「異国船」なんて台本もあるとか。当時最新の時事ネタであり、トップニュースである。浄瑠璃という形態で村々に伝えられ、それが西尾張では七墓台本として取り入れられたということだろう。死者も「最近の世の中はこうなっとるのか。世も末やのう」と知るわけですな。
記録では西尾張の七墓は明治時代以降も行われていたようで最新作としては「日清戦争」というのもあるらしい。近隣の村の出来事(大体、殺人事件とか心中事件)を語ったものもあるそうで、浄瑠璃はまさしく新聞的な役割を果たしていたことがよくわかる。
実際に西尾張から七墓(浄瑠璃)というメディアが衰退していくのは新聞というニューメディアの登場の影響だそうで、新聞が出てくることで七墓は消滅していったらしい。この辺も大変、興味深い。
また若者たちが七墓で家家を巡るが、その家には時には若い娘もいるわけで、そういうところでは若者も気合が違う。死者供養のための浄瑠璃といいながら、じつは若い娘を自慢の声で、語りで、口説いている…なんてことがあり、実際に七墓で出会って結ばれたというケースも多々あったという。歌垣やんw
七墓連中は若者で組織するが、村を巡る道中で他の七墓連中と出会うこともある。このときは名乗りをあげるそうだが血気盛んな若者たちなんで、時には衝突して派手なケンカになったりもするらしい。家を巡ると金銭や米をもらうし、かわいい娘もいますしな。そりゃ、そうなりますわな。
画像は西尾張で実際に使われていた七墓台本。これまた面白いのが「浪花組」という文字があること。じつは七墓連中のことを「浪花組」といっていたそうで、やはり七墓は大阪が盛んで、「七墓文化」が大阪方面から来ている…ということの証左らしい。
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【大阪七墓巡り2022】第一夜:8/13(土)18時より「梅田」「南濱」「葭原」を巡る
https://www.facebook.com/events/842966676662438
【大阪七墓巡り2022】第二夜:8/14(日)18時より「蒲生」「真田山陸軍墓地」「小橋」を巡る
https://www.facebook.com/events/1160028208118220
【大阪七墓巡り2019】第三夜:8/15(月)18時より「鳶田」「千日」を巡る
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9/4(日)12時より■堺七墓巡り復活プロジェクト2022
https://www.facebook.com/events/572906637742341