いちょうカレッジ(大阪市生涯学習まちづくり市民大学)!
天保山の水上消防署へ。いちょうカレッジの受講生のみなさんがチームを作り、今回のまち歩きツアーをコーディネイトしました。水上消防署もアポを取って訪問することに。いろいろとお教え頂きました。
海上保安庁は「海猿」らしいですが、大阪の水上消防署は淀川やら大川やら木津川やらの出動が多く「川猿」というそうですw
昨日も訓練で大川に潜ったそうですが、水深は3〜4メートル。水温が6〜7度ほどで水風呂よりも冷たい(!?)とか。大川はやはり濁っているので、全く前が見えない状況らしく、ロープなどで合図を送りながら行動するそうで仕事とはいえ大変そうですな…。
年間120件ほど出動があるそうで海難事故、川難事故というのは結構な頻度であるんですなあ。その辺も勉強になりました。
船で橋の下を通行するんですが、大阪は大量に地下水を汲み上げて、地盤沈下が起こり、やたらと桁下(水面と橋の間)が低い。船のマストなども折りたたみで収納できるようになっていて、その様子を実演してくれました。なかなかこんなのは観れない。水上消防署さん、本当にありがとうございました!m(._.)m
大阪港、天保山まち歩き。築港高野山へ。昭和6年の浪曲塔。当時の親友派の浪曲師、小屋がわかる。なかなかマニアックなモニュメントですw
千日前 愛進館
新世界 光月
天満 國光席
松島 廣澤席
神戸 大正座
京都 福眞亭
港区は当然、港湾労働者が多い。かつての港湾労働者は文字が苦手という人間も数多くいた。活字、新聞などは読まない。しかし世間のことがわからないと困る。そこで浪曲に通った。
浪曲は当時の世相、時事、政治問題、経済問題、事件、事故、男女の醜聞、スキャンダルなどを題材にして物語る。いまでいうところのニュース番組やドキュメンタリー番組のような役割を果たしていた。結果として、それが港湾労働者の知的水準を向上させ、社会性を涵養することに繋がった。
浪曲やら漫才やら近代大阪から生まれたニューメディアは労働者、大衆に向けての啓蒙的なメディアでもありました。ただ単に面白おかしいというだけではなくて、時代の要請があり、結果として大衆教化の役割も果たしていた。漫才作家の秋田實大先生などは東京帝國大学のインテリですからw 左翼活動にハマって中退して、しかし「労働者にこそ娯楽が必要だ!」と漫才の台本、脚本を書くようになった。
浪曲は、だから、かわいい女の子が多かったりもしますw 女浪曲師たち。いまでいうアイドルみたいなもんですな。それが労働者たち(男性)にウケた。北野武監督の祖母、北野うしさんもそのうちのひとり。北野武監督の芸能の血は浪曲師(正確には女義太夫ですが)の祖母から来ている…というのは北野武監督自身がいうてはります。
【えびの時空散走】「西の桶狭間」「九州の桶狭間」といわれたりもする木崎原合戦。日向の伊東氏と薩摩の島津氏が争った合戦で、圧倒的不利の戦力差を覆して島津義弘公が伊東軍を撃ち破ったものですが、負けた側の伊東氏の慰霊、供養を担ってきたのが池島集落。
江戸時代に伊東氏の子孫、後裔の方が、戦死した祖先たちの慰霊、供養をして欲しいと池島集落の方に寄付をして頼んだそうで、そこで伊東霊堂が建立されました。小さい木のお堂ですが、かつては集落の家々が持ち回りで、伊東霊堂の供養会を行っていたそうですが、ちゃんと祀らないと、その家によからぬことが起こるそうで、なかなか大変だったとか。
いま現在は時代の趨勢もあり、集落の若い人には伊東霊堂のことが失念されていたりするそうで、そこで集落のHさんのお宅が伊東霊堂を預かっています。なんと今年で93歳になるお母さんが毎朝毎日、伊東霊堂を拝んで守っていてくれているとか。お母さんは伊東霊堂のおかげか、めちゃくちゃ元気だそうで、畑仕事にも精が出るそうです。ありがたやありがたや。
えびの時空散走のリサーチで、いろんな方のご協力とご縁があって、今回、伊東霊堂をお参りさせて頂くことが出来ましたが、本当にHさんのお宅の神棚で大切に大切に安置されておりました。素晴らしい。地域の歴史を、地域の方が、ちゃんと守り、伝えようとしてくれている。頭が下がります。
再開発著しい梅田の中でもちょっとエアスポット的に昭和レトロ感を残しているのが牛丸町界隈。中でもカフェ・モンシェリーこそは心のオアシスです。
北ヤード開発とかグランフロントとか個人的には全く文化的な香りを感じない。人間味がない。ヒューマンスケールではない。
モンシェリーであーだこーだいうてるムダな時間が人生の醍醐味、華、至福であります。
恵方巻は元は大阪の節分の風習ですが、あれは申村(大阪市此花区)が発祥で、花柳界に伝わり、戦後、海苔業界のキャンペーンなどで広がったものという(諸説あり)。大阪の北の方で盛んやった。
大阪の南、堺の人間からすると節分というとあびこ観音さんの厄除饅頭。酒饅頭、黒糖饅頭に「厄除」と文字が焼き入れられているだけ。これがまた素朴な味わいですが、うまい。ぼくはこどもの頃から食べてきた。恵方巻なんて大人になるまでやったことがないし、聞いたこともなかった。
恵方巻は日本全国のコンビニやらスーパーやらでやたらと喧伝され、大量に生産され、売れ残り、廃棄されて社会問題になっている。これはしかし経済とか環境の話であろう。
恵方巻というのはそれだけに留まらず、節分文化の均一化、画一化という文化破壊という側面も持っている。
節分の風習、慣習にもほんまはいろんな地域独自のもの、地域色、地域特性がある。知られていないだけで。そういうものが恵方巻の一大販売キャンペーンで淘汰されていく。
じつに度し難いですな。恵方巻は。いや。人間が度し難いのか。恵方巻は悪くない。人間は、つくづく、度し難い。
あびこを巡る。あびこ観音さんはいまは節分厄除大祭の真っ最中。人の多さに驚いた。しかし今年は屋台が出ていない。去年、なにかしらの不祥事があったらしく警察の指導が入ったのか、屋台が見送られたらしい。残念。
こどもたちは屋台や縁日が楽しみで祭礼にくる。楽しみ自体は俗なものです。しかし、その最中に大人たちの厳粛たる神事、祭事の光景を垣間見る。敬虔さを横目に感じる。その漫然と触れていた、漠然と見聞きしていた宗教的経験が自然と身体に蓄積され、やがて自分が大人になったさいに信仰が、敬虔が、篤信が涵養され、継承されていく。
言葉やないんです。場に来ることで、そこに身を置く事で、伝わるものがある。屋台、縁日は次世代を神事、祭事へと導く大変、重要な役割があるんですわ。なくなってほしくないなあ…。
ぼくは1978年2月生まれ(1977年世代。戦後最低の大卒就職率63.7パーセント。なんと3人に1人が正社員就職できなかった…)で、まさしく就職氷河期真っ盛りのロスジェネレーション世代。まあ、ぼく自身は中卒の学歴社会アンチテーゼのドロップアウト組なんで、大卒の就職率とかあんま関係ないんですが。
しかし周りの知人、友人たちはほんまに大変そうやった。折角、大学までいったのに働き口がない。正社員になれない。派遣労働者やフリーターになる。ブラック企業に勤めて消耗してしまい、鬱とか失踪とかで社会復帰できなくなる。いまだにひきこもりが一番多い世代が我々世代らしいですから。中には自死、自殺とか悲劇的な最期を遂げてしまった人も少なくありません。僕の知り合いにも何人かいます。まさに死屍累々の世代です。
国や企業や社会から見捨てられ、棄民された世代で、過酷な生存競争に晒された世代なんですが、その中でも勝ち抜いた人間ってのは少数いて、これがしかし「余裕のない勝ち組」というか、自分が勝ち組になれたのは自分自身の血も滲むような努力の結果であり、周りの無様な敗者と比較して、自分の才能や実力に自惚れてゴリゴリの自己責任論者であったりする。
負け組、落ちぶれた奴、ドロップアウトしたような人間は弱い人間でダメな人間で社会不適合者で、そんなのは救済する価値も存在意義も省みる必要などもない…と、棄民された世代であるがゆえに、誰よりも棄民が当然と考えるような弱肉強食的な思想の持ち主が多い気もしています。
イジメられたものが、それで人をイジメなくなるか?というとそうではなく、自分より弱いものを見つけると、より徹底してイジメたりする。哀しいかな。暴力が暴力を産み、憎しみが憎しみを増幅させる。なかなかこうした「イジメの再生産」「暴力の再生産」「憎しみの再生産」の構造から人間は抜け出すことが出来ない。それと同じように棄民された者が、最もよく棄民する人間になってしまう訳です。
同世代で勝ち組、成功者となった人がテレビやSNSで、その手の自己責任論、弱肉強食論を強弁しているのを見るたびに、「この世代、ほんまに世知辛いなあ…」と自己憐憫に陥ったりしてます。そして、この手の世代の勝ち組が政治的権力なんかを持つと、ほんまにろくでもないな…という恐ろしさも感じてます。
いま氷河期世代、棄民世代は50代前後なんですが、あと10年ぐらいすれば、日本の政治の世界(この世界は60代、70代でようやくトップに君臨する遅れた老人社会ですから)では、おそらく主流になって行くと思われます。社会的弱者に対して最も苛酷、峻烈、冷厳で情け容赦ない棄民政治をやるんではないか?と僕なんかは今から非常に危惧しております。
杞憂に終わればええんですが…。
堺の実家に帰ると、なぜか「SAKAI賞・未来賞」の受賞記念プレートが飾られていた。平成19年ということは西暦でいうと2007年。僕は29歳でした。
当時はテレビ業界を辞めてフリーでライターをやったり、イベンターをやったり、アートNPO法人を作ったり…とあちらこちらに顔を出してフラフラしていたが、まち歩きという方法論、手法の面白さ、可能性に気づき、自分なりに試行錯誤をしていた時代だった。
自分の考えるまち歩きプロジェクトをなんとか世の中に出したい、カタチにしたいと考えていたが、なんせこちらは最終学歴中卒で、学歴もなければ、金もなければ、実績もなければ、コネもない。しかし毎日新聞社さんがスポンサーで堺商工会議所がビジネスコンペをやることを偶然、知り、これや!と堺のまち歩きプロジェクトの企画書を書いて提出した。
企画書は無事に一次審査を通り、最終審査で審査員の前でプレゼンをすることになったが「こりゃ一発かましとかなあかん」と、千利休のコスプレ(和装に利休帽を被る)をして、さらに他の企画者はみんなプロジェクターでパワポでプレゼンするから、こっちはアナログでいったれ!と紙芝居を使ってまち歩きプロジェクトの企画を伝えたら審査員から面白がられて奇跡の受賞に繋がった。
そもそも当初は「未来賞」というのはなくて、しかし僕のプレゼンが評判が良かったらしく特別枠として「未来賞」というよくわからない賞(失礼!)が急遽作られて受賞することが出来た。当時の審査員、誰一人として覚えていないが(申し訳ございません)、ありがたいことです。
また毎日新聞さんがスポンサーだったから受賞式の様子などが毎日新聞に掲載され、これがたまたま堺市観光部のS部長の目に止まり、連絡がきて、そこから堺市観光部とのおつきあいが始まった。S部長は国交省から堺市に出向していたキャリア官僚で、さすがに素晴らしい先見の明の持ち主で、いろんな業界関係者を紹介されて、いまもご恩を感じている。
さらには、その関係者の中に大阪市役所の観光関係者がいて、僕の受賞した企画書を読んだ方から会いたいとコンタクトがあり、じつは大阪市もまち歩きプロジェクトを始動するつもりであるというので、そこのプロデューサーに就任することになり、これが大阪あそ歩となった。あそ歩は関係者各位のご協力もあり、ありがたいことに大成功して、2012年にコミュニティ・ツーリズムのプロジェクトとしては日本初となる観光庁長官表彰を受賞した。翌年の2013年に僕はあそ歩をやめるが、まあ、まち歩き自体は、ずっと僕は野良で、アウトサイダーで続けている。
それなりに長くなってきた僕のまち歩き人生(?)であるが、振り返ってみると最も大きい影響と効果を与えてくれた受賞が、この「SAKAI賞・未来賞」だったように思います。記念プレート、大事にせなあきませんな。ホコリかぶってるけど。なんでか僕の部屋やのうて弟の部屋に飾られてたけど(オカンが設置した)。
このあいだFBにノートPCが動作不安定でやばいと書いたらいきなりFBの広告がノートPCだらけに。
勝手に僕の記事や検索履歴からトラッキングで僕の個人情報を抜き取ってアルゴリズムで広告が変わる。狙い撃ちにされる。俗にいう「ターゲティング広告」「追跡型広告」「パーソナライズド広告」であるが、資本主義とは兎角、度し難い。
アマ●ンで本を買うと「この本(商品)を買った人はこんな本(商品)を買っています」というコピーがでてくるが、あなたはこういうジャンルのものが好きで興味関心があって嗜好性があって、だから同ジャンルのものを買いなさいもっと買いなさいと煽ってくるわけだが、これ、ケーキが好きやからといってケーキばっか与えていたら栄養バランス悪くて死ぬみたいなもんで、ある種、非常に無責任なマーケティングといわざるを得ない。
人間は結局、「他者」と出会わないと世界観を広げられない存在ですから。自分が好きなもの、興味関心あるもの、嗜好性にあうものだけでは、全く成長がないのですよ。自分の世界観を広げられない。自分を超えない。社会性を獲得できない。フィルターバブル、エコーチェンバーでしかない。
ネット・マーケティングの殻を破り、いかに「他者」と出会う空間、場所、時間、機会を作りうるか?閉鎖的で偏狭的なネット社会に抗う知の実践のひとつはこれでしょう。
よくわからないもの、意味不明なもの、言語化できないもの、アッチョンブリケなものとの邂逅。人生にセレンディップな体験を。