小選挙区制は死票が多い。今回の衆院選では自民党の絶対得票率は26.9%だったが、議席占有率は86.2%となった。選挙結果をみて首を傾げる人が多いのも当然だろう。SNSで「自民圧勝おかしい」という人。それはエコーチェンバーやフィルターバブルではありません。小選挙区制の弊害です。
現在の衆議院465議席の内訳は小選挙区289議席、比例代表176議席だが、シミュレーションで、もし仮に全て比例議席となると自民党は173議席、中道は85議席となる。今回、0議席だった社民党は6議席、保守党は11議席に。要するにそれだけの民意が蔑ろにされている。国政の場で国民の声が消されている。届かない。これはやはり問題だろう。
消費税導入(竹下登内閣の1989年・平成元年)よりも小選挙区制導入(1994年・平成5年の公職選挙法改正)こそが日本失政の根源ではないだろうか。民意が正確に反映されずに、2割3割の支持に過ぎない自民党による独断、専横的な政治が30年近くも続いている。
「失われた30年」は経済だけの問題ではない。「民意が失われた30年」と言い換えてもいい。これは日本を迷走させる。日本の民主主義の機能不全を是正していかねばならない。
【いわき時空散走】南相馬で「ふくしま浜通りサイクルルート推進協議会」の総会があり、入会すると同時に、少しだけ、いわき時空散走についてお話する時間を頂きました。みなさま、貴重なお時間を頂戴して本当にありがとうございました。
10分ほどの時間でしたが時空散走の熱が伝わったかなぁ。伝わってたらいいなぁ…。
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「何やあの店、長いことやってて、よう潰れへんなあ」と謎に長命な店というのが世の中にはありましてw
こういう店は大体、新しいお客さんが入ったら「うわ。珍し。マスター、客やでー」と常連客が注意喚起したりする。常連客は勝手におしぼりと水とメニュー表を出したりして、一体、誰が店の人か?客か?よくわからない。それでいて「気がつけばもう半世紀、店をやってました」と時代の荒波をサバイブしていたりする。
常連客、リピーター、古参の客などが平気でカウンター内に勝手に入っていく店。客がなぜか差し入れを持って行くというような店は強いんです。店と客の関係性が、主客が逆転している。「コミュニティ化している店」といってもいい。
新しいお客さん、初めてのユーザー、新規顧客を常に開拓し続けるという商売のスタイルは、非常に大変で、しんどいです。なんせ、その手のお客さんは、流行的で、雰囲気で、胡乱で、目新しさを求めていて、移ろいやすく、無責任で、次の消費行動が読めなくて、予測不可能なので。要するに「一過性」なんです。
観光でいうと、やはりインバウンドのお客さんは、どうしても再訪率は低い客になりがちです。いろんな国、地域、外国から訪れてくれるのは嬉しいですが、また再訪してくれるか?というと、それはかなり確率としては低いものになるでしょう。
これは自分自身に置き換えてみるとわかりやすい。仮に海外旅行するとして同じ都市に行くことは、なかなか、ないです。ベルリンを訪れたら次はパリ、ロンドン、ニューヨーク、エジプト、上海、シンガポールと新しい都市に行きたがる。二度、三度、四度と同じ都市を再訪する人は、ほぼいないのが現状でしょう。
外から人やお金を呼ぶ「外需の観光」は、それは観光を盛り上げる、涵養するために非常に大事なことなんですが、しかしそれと同等以上に、僕は内の人、身内、地元民、コミュニティ内部の人たちを喚起する「内需の観光」の開拓、充実、発展こそが、観光のもうひとつの可能性であり、最重要課題であろうと思って活動してきたわけです。
いわき時空散走は日本で最初の「コミュニティ・サイクル・ツーリズム」を標榜しています。コミュニティ・ツーリズムとは何か?というと、もう簡単に、一言でいってしまうと「地産地消の観光」ということです。
「いわきの人(サポーター)が、いわきの人(ツアー参加者)と一緒になって、いわき(地元)を巡る」という構造です。また従来のツアーと違う点として、ガイドではなくて「サポーター」という形でツアー同行者がいます。
その道の専門家、プロ、有識者、学者、知識人、研究者、郷土研究家といった方がガイドをするのではなくて、「コミュニティのひと」「地元民」「まちの住民」がサポーターとしてツアー同行します。このサポーターの役割は「交流」です。ツアー参加者のみなさんの話の「聞き役」「促し役」「ファシリテーター」になってもらってます。
いわき時空散走のツアー参加者が、ツアーで訪れた場所について、その場ですぐにアーダコーダと話ができるのは、これは「地元民」だからです。いわきの人たちだから、いわきのどの場所にいっても「思い出話」ができます。
「いまもよく訪れる」「実は店主と同級生で」「昔、友人と来た」「昔はじつはこうだった」「親戚が知り合いで」「噂話を聞いたことがある」「ここがそうだったのか」といったように、何かしらの「まちと自分の関係性」「携わり方」があって、それを参加者全員で話をしてシェアすることが可能なわけです。
こうやって参加者が口々に、銘々、ワーワーと話をするもんだから、すぐにツアーは収集がつかなくなるんですがw これはガイド(店)とツアー参加者(客)という固定的な関係性から「どっちが店の人で、どっちがお客さんかわからない?」というツアーへの変容です。
実際に、いわき時空散走に参加してもらうとわかりますが、サポーターよりもツアー参加者のみなさんの方が圧倒的にあちらこちらで話をしてくれて、ほんまに誰が主催者なのかサッパリわからないw
また、この時空散走(コミュニティ・サイクル・ツーリズム)が優れているのが、ツアー参加者が地元民なので一度、地元を回って「新しい店」「推しの人」「お気に入り」を発見したりすると、そこに何度も通い詰めてリピーター、常連客、固定客になりやすいこと。再訪可能性がめちゃくちゃ高いんですな。
これが「一過性の遠方からきたインバウンドのツアー参加者」であると、二度三度四度の再訪はなかなか難しいのですが、おなじいわき市内在住だったりするので、じつに容易に再訪が可能です。
いわきは市町村合併で、かつて「日本一広い市」になったことがあるほど広域ですが人口規模でいうと30万人以上の人がいます。地方都市でも中核市レベルの規模です。
30万人もの経済圏、商圏があるというのはスゴイことで。また調べると、いわき市の「生産年齢人口(15〜64歳)」は約18万人ほどですが、もし、この18万人が、仮に、月に1回でも、いわき市内を自転車で巡って遊んでくれたら、それだけで途轍もない経済波及効果が望めます。18万人×12ヶ月で年間216万人もの観光交流人口の発生です。※ちなみにいわきの観光名所といえば湯本・スパリゾートハワイアンズですが来場者は年間100万人とか。また、いわきFCのホームゲーム入場者数は年間8万3000人です。
実際に、いわき時空散走をキッカケにして、いわきの人たちが、いわき市内の店や場や人を知って、そこからいろんなネットアークや関係性やプロジェクトが生まれてきています。
地元、地域、コミュニティを活性化するには、外需の力だけではなくて内需の力が必要不可欠です。むしろ内需を喚起して掘り起こししないと本当の意味で地域活性化は成せません。インバウンド(外需)とコミュニティ(内需)と、両輪必要なんです。その内需の観光、地産地消の観光、コミュニティ・ツーリズムのプロジェクトが、いわき時空散走です。
また、ありがたいことに、いわき時空散走は7割がいわき市内の人なんですが、じつは3割はいわき市外からのお客さんです。内需で盛り上がっていますが「いわき、おもろいぞ」「時空散走、よかったよ」という声が、徐々に、いわき市外にも蔓延していって、外からのお客さんもやってくる。
熱は真ん中がアツいです。真ん中がアツいから、それが外に伝播して、外側もアツくなってくる。コミュニティ・ツーリズムは、その中の、中心の熱を高める観光の手段です。
地元、地域、ふるさとを巡るから、そこから地域愛、地元愛、郷土愛が目覚めて、「自分のまちは素晴らしいんだ。もっとよくしたいんだ」という意欲を高めることにもつながって、まちづくりのプレイヤーになる人まででてきます。
いわきでいうと、こどもたち、若者たちのいわき市外へ出る人口流出が大変な地域課題になっていますが(これは地方都市のどこでも共通課題だと思いますが)、なぜ流出するのか?ということの一因として地元愛、郷土愛、コミュニティ意識の低さもあるだろうと思います。※もちろん学びたい学校がないとか、働きたいと思える会社がないとか、いろんな事情があるんでしょうが…。
いわきは車社会だから、本当に、いわきを巡っている人が少ないんですよねぇ。時速50キロ、60キロみたいな車移動の生活を繰り返していても全く、いわきのこと、地域のこと、足元のことは見えてきません。
地方から人口が流出するのは問題だと思ってますが、しかし個人的には、実は、地方都市から一度は「外に出る経験」はした方がいいと思ってます。地縁と切り離されて、無縁の人たちの集まり(大学や都市や企業など)を経験するのは非常に大切なことだとも。
ただ無縁の環境で生き続けることは非常に厳しいので、セカンドキャリア、サードキャリアを再構築する場として、自分のふるさと、わがまち、郷土が候補として上がるようにはしておきたい。そのためには若いうちに郷土、ふるさと、わがまちを知っておかないといけない。ふるさとの自負や郷土愛の種子を、ちゃんと受け継いでもらいたい。
そういう意味でもコミュニティ・ツーリズムは重要な地方都市のインフラといえます。観光振興のみならず、地方の教育、産業、経済の活性化にも繋がる重要なインフラです。
…なのに意外と、やってるところは少ないんですよねぇ。地域観光、地域経済の基本として、これをやらない手はないと思いますが…。
僕はなんだかんだでコミュニティ・ツーリズムのプロデューサーも、もう18年ほどやってきてますが、この熱が、徐々にでも、世の中に、世間の人に知られて行って、伝搬していってほしいなぁと常々、思っています。
衆院選の結果はほぼ各社、大手新聞の予想通り。オールド・メディアの矜持。新聞はオールド(老成)ではなくてスタンダード(基本)なんだと思いますがね。スタンダード・メディアの矜持。
衆院選の結果をみて思いましたが
①都合のいいタイミングで解散総選挙できる首相特権(憲法違反疑惑あり)
②公示から投票まで短すぎる選挙期間(有権者に正常な政治的判断をする時間を与えない)
③野党公約を上書きするフェイク公約(今回でいうと消費減税。そして選挙に勝つとあっさりと公約返上)
④首相推しのショート動画を莫大な資本力で1億回再生(まさかの米津〇師越えw しかも官房機密費を選挙対策に使っている?違法疑惑)
⑤小選挙区の勝者総取り構造(比例票では自民支持3割+非自民系支持7割だが議席では逆転して自民7割+非自民系3割となる)
…などの合わせ技で、いくらでも与党は議席を獲得できるということなんでしょう。
なんといいましょうか。選挙のたびに思うんですが日本の選挙制度、メディア・インフラなどの欠陥性によって日本の民主主義が衰弱、機能不全に陥っているのではないか?
そして「民意や民主主義を適切に反映せねばならない!」と、以上のような政治的瑕疵を是正しようという大義(公心)が、さて、いまの与党にあるかどうか?というと僕には誠に残念ながらあるようには見えない。むしろ自分たちに都合のいい選挙制度やメディア・インフラを絶対的に維持、堅守しようとしているように見える。
与党に大義(公心)がない以上、この「不毛な選挙ゲーム」は、これからも延々と続くことでしょう。民意を誠実に反映しない政治は独裁であり、権威主義であり、悪政そのものですが、その帰結は亡国であります。つらい…。
誰が憂国の士はおらんのか。国士はどこにいる?
国、公、共は同義ではない。国益、公益、共益を考えればいい。国益は国家を超えない。公益や共益は国家を超越する。地球温暖化対策は公や共の精神に立脚する。多くの国や企業が共に助け合う共心でCO2削減に努力する。CO2を大量排出する国、企業はより多くの努力で削減に取り組む。それこそが公心です。
共は相互に互恵的な関係。助け合いのコミュニティ。公は自身のリソースや利益を自己犠牲にしてまでも社会や他者のために尽くす高い倫理観から発露される。国はその公や共を担保するための社会システムであったが、いまや極一部の政治家や大企業が牛耳って公金を搾取するだけの構造に変容してしまった。
国が、そういう極一部の政治家や資本家に乗っ取られて搾取的な支配構造のシステムに変容してしまった時代に一体どうやって「公」や「共」のセーフティネットを担保すればいいのか?国を立て直すことが出来ればそれに越したことはないが、その取り組みをしつつも新しいアプローチも必要になってくる。
一つ必要なのは「国」と「公」と「共」を混同しないことで。いまやこの国で「国のために」という謳い文句は、もはや「極一部の政治家や大企業のために」と同義語だったりします。そういうことを曰う政治家はかなり注視して疑ってかからないといけない。本当にそこに公や共の精神があるのか?
常に疑え。
日本列島は100~150年周期で地震活動期が訪れるとか。実際に300年前の18世紀初頭の宝永大地震は富士山が大爆発し、元禄・享保バブルを崩壊させました。また150年前の19世紀中期の安政大地震も幕藩体制を弱体化させ、これは明治維新の呼び水となりました。
おそらく21世紀初頭ぐらいから日本列島はまた地震の活動期に入っていて、阪神淡路大震災、中越地震、熊本地震、東日本大震災、胆振地震、能登震災など震度7レベルの大地震が日本列島を襲い続けている。いつまた新しい震災が起こるとも知れない。
人間中心主義的な西欧社会では、人間さまが思うように自然をアンダーコントロールして制御して支配するという思想が強い傾向にありますが、これはやっぱり日本の国土、風土には合わないように思うんですなあ。なんせ日本列島はあまりにも天変地異が多い。地震、津波、洪水、台風、高潮、火山噴火などが多発する。
江戸時代の大坂はしょっちゅう洪水やら高潮で浸水があり、町衆はだから何かあると「とりあえず高台に逃げる」を大前提に生活スタイルを構築していたそうです。家財道具なんかは持ち運びできる量のみ。家もどうせ流されるんだからと当然、持ち家などではなくて賃貸であるし、そもそも建築物(長屋)も流されてもいいように簡易なプレハブのような作りでしかなかった。蓄財はない。流されることを前提に生活や暮らし、コミュニティ、まちを構築する。
例えば堤防(ハード)で地震の大津波を防ぐというのは、結果として津波の体験や経験を奪うことに繋がります。数年に1回ほど起こる津波なら防げる堤防も、100年に1回訪れるような大津波には対応できない。ハードによる防災には限界があるんです。いつかそのハードを超越するような天変地異が起こったさいに、何の経験も体験もない人々は大パニックを起こしかねない。
震災や津波、天変地異は確かに嫌だし、困りますが、それがあることを大前提に、天変地異を織り込みながら、生活や暮らしやコミュニティを、柔軟に、しなやかに構築していく。自然を支配下にコントロールするのではなく、自然の中で、なんとか共生してサバイブする方法論を我々、日本人は発見して日本列島に合う社会を築いてきたのではないのか。
伊勢神宮や住吉さん、春日さん、香取、鹿島、下鴨、上賀茂、諏訪大社などは、定期的にご神殿を建て替える「式年遷宮」を長らくやってきました。日本はなにせ天変地異が多いですから。また建物の多くは木造建築であるから焼失の可能性が高い。ハードを残すということは非常に難しい風土、国土である。だから百年、千年のハードではなくて、式年遷宮というカタチで、わざわざ立て直すことで、それを作る大工集団、技術者たち、テクニック、技を残そうと考えた。ハードは残らない。しかし、ソフトならば残るという発想です。この民族の「やわらかい知恵」は、なかなか僕は、素晴らしいものだと思う。
欲望肯定の人間価値中心主義の近代資本主義文明のベクトルは、もはや限界に差し掛かっております。自然をアンダーコントロールするなんてことは、人間さまの傲慢であると自戒して、自然を畏れ、敬いながら共生する、やわらかい知恵を、もっと現代社会に実装してほしいと思っております。
もう、なんちゅうか、いろんな危機的状況が差し迫っていて、完全に文明は曲がり角に来てますから。既存社会のシステムの限界と崩壊を感じる。世界は混沌と混乱と混迷の度合いを増してますが、しかし、それだけに面白い時代といえなくもない。新しい文明の萌芽が、そうしたカオスモスの中から生まれてくるのだろうと僕個人は淡く期待している。パンドラの箱の底には、希望があるのだと、信じたい。
阪神淡路大震災から31年目。そうか。もうあれから31年か…と思い返してからの、とりとめのない雑感。
高知県高知市。高知師範学校跡地。大膳町公園の中にある。
高知師範学校は現在でいえば高知大学に当たるが、ここに入学して明治30年(1897)に卒業したのが陸奥利宗(曽祖父・3代前)。卒業生の名簿に名前があるのだが(1枚目の画像がそれ)、同期に大野勇と宮地美彦がいる。
大野勇はのちの高知市長(17代、18代)。太平洋戦争時代の市長で、戦後は公職追放されているが、回想録などがあり、高知師範学校時代のことも書いている。なにか同級生の陸奥利宗のことが書かれていないか?と読んだが、残念ながら記述はなかった。
宮地美彦は土佐弁の研究者として著書なども多く出しているが、面白いのが父親が海援隊士の宮地彦三郎であること。
宮地彦三郎は元・土佐藩士だが、坂本龍馬に影響されて脱藩、海援隊に入隊した。また龍馬が暗殺された近江屋事件の当日に、近江屋を訪ねている。彦三郎は大阪の仕事を終えて龍馬と中岡慎太郎に挨拶に訪れ、そのさいに2人から一緒に酒を飲もうと誘われたが、大阪帰りなので一度、旅装を解きますと自分の宿に戻り、そのあいだに2人は刺客に襲われた。
龍馬死後、新海援隊を結成して幹部として活躍し、明治新政府でも出仕していたが病気で官を辞して故郷・高知で教育者として余生を過ごした。
利宗と美彦とで交流があったのか?なかったのか?同級生だから、多少は話をしたこともあったかも知れないが、何も記録などはないので、詳細はわからない。海援隊の話や龍馬の話なんかを聞いていたら、面白いが。
高知県高岡郡佐川町。佐川地場産センター。佐川町の模型作家・栗田眞二さん作成の町並み模型が展示されている。精巧な作りに驚く。
佐川町の偉人を紹介するコーナーもあった。ここに紹介されている伊藤蘭林の息子を伊藤徳敦というが、この人が庄田・宮ノ原寺(宮ノ原塾)で学校を開いて、それを「温智館」(のちの庄田小学校→黒岩小学校)と称したという。おそらく陸奥龍彦は、この「温智館(元・宮ノ原塾)」にて伊藤徳敦の講義を受けたのだろうと思う。
伊藤蘭林→伊藤徳敦→陸奥龍彦→結城有→明神健太郎という知の系譜。
高知県高岡郡佐川町庄田の宮ノ原八幡宮へ。ここは宮ノ原寺の跡地でもある。
この宮ノ原寺は『佐川町史』によると「佐川町黒岩地区の庄田、宮ノ原集落は中世から明治維新まで邑主・深尾氏の城下町・佐川に次ぐ深尾領内唯一の文教の地として栄えた」とある。
元々、宮ノ原には深尾家が入植する以前から黒岩領主の片岡氏が君臨していて、その片岡氏が創建した宮ノ原八幡宮と別当寺・宮ノ原寺があって中世から栄えたエリアであったとか。この片岡氏は戦国時代には長宗我部氏に仕えていたが、主家の没落もあって武士は辞めて、庄屋や神官などになって地域で活動していくことになる。
しかし中世以来からの集落であるので土佐藩・深尾家にとっても重要な拠点であったのだろう。宮ノ原寺は藩政時代には代官役所も兼ねていて、また近郷の子弟を集めた「宮ノ原塾」が作られたという。
佐川の城下町には郷校「名教館」があったが、その隣の庄田地区にも「宮ノ原塾」があった。名教館の講師が宮ノ原塾の講師をやったりと交流も盛んにあったらしく、じつは陸奥龍彦が学んだのが、この宮ノ原塾だったりする。佐川・名教館の文教の隆盛には刮目瞠目させられるが、その余波、余熱は庄田・宮ノ原塾にまで及んでいたということだろう。
また陸奥龍彦の弟子で、郷土研究家・結城有氏の蔵にあったという門外不出の幻の歴史書『八幡荘伝承記』の写本は、元々は庄田・宮ノ原寺の亀鳳法印という方が幕末の頃に写した…という話らしい。
現在の宮ノ原寺跡は草生した石垣の他には何もなく。何もかもが夢の跡でしたな。
高知県高岡郡佐川町。土佐藩といえば山内家であるが主席家老・筆頭家老に深尾家がいる。この深尾家は北条・小田原攻めや大坂の陣などで武勲を挙げ、さらに山内家に先行して長宗我部の残党がいる土佐に入国して難儀な交渉ごとを見事に纏めたとか。それらの功績が認められて特権的に佐川1万石を拝領して自治が許されていたらしい。
具体的には土佐藩の家老のほとんどは土佐城周辺に屋敷を持ったが、深尾家だけは佐川に住むことが許されていたという。おかげで江戸時代から佐川町は深尾家の城下町として繁栄を誇った。
山内家と深尾家は基本的には主従ではあるが、血縁関係も非常に色濃く、時には藩政のことで緊張や対立もあるという独特の関係性であった。こんな複雑な関係性で統治されていた領地も珍しい。だからでこそ深尾家はかなりクレバーな立ち回りが要求されたと思われる。
佐川1万石の領地、主席家老の地位と名誉を守るために、深尾家は必死のパッチで教育に全力を注ぎ、有用な藩士の登用、人材育成に努めた。そのために作られた郷校を「名教館」といい、いまも建物が保存されて名教館、深尾家、佐川の歴史、文化を伝えるミュージアムとなっている。
この名教館からは特に明治以降にいろんな人材が輩出していて田中光顕(宮内大臣)、牧野富太郎(日本植物学の父)、西谷退三(英文学者・博物学者)、広井勇(日本近代土木の父)、水野龍(ブラジル移民の父)など綺羅星の如くの偉人たちがいる。まさに驚異的です。
深尾家も近代以降は男爵家となり、そこから深尾隆太郎が出ている。大阪商船副社長、日清汽船社長、南洋拓殖社長、日本サッカー協会会長など実業家として活動し、貴族院議員でもあった。
やはり教育しかないんでしょうな。日本の礎は教育です。