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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

堺・七道。水野鍛錬所さん

2024 年 6 月 5 日 Comments off

堺・七道。水野鍛錬所さん。久しぶりのまち歩きでの訪問。5代目に工房で和包丁の制作過程や日本刀の構造、水野鍛錬所の歴史など、いろいろとご説明を頂きました。

堺は「ものづくり1600年」の歴史を誇る(と堺の人はすぐいうw)。古代、古墳時代から鉄生産に携わり、中世の鋳物、刀、鉄砲、近世の包丁や近代の自転車と、ものづくりの歴史は連綿と続いている。水野鍛錬所さんに来ると、そういう堺のものづくりの歴史や遺伝子が、いまだに現役で、現在進行形で、生きていることがリアルに体感できる。わかる。ほんまに堺の宝ですな。素晴らしい。ありがとうございました!


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■大蓮寺ものがたり~第一章 大蓮寺の伝説~

2024 年 4 月 8 日 Comments off

【大蓮寺ものがたり】大蓮寺の秋田光彦前住職から「大蓮寺の歴史、伝説、伝承などをまとめた小冊子を作ってほしい」というご依頼をうけてコツコツと文献リサーチを積み重ね、纏めたのがこちらのPDFです。

https://drive.google.com/file/d/1aRYSSpLGsRG-fLTMjTOWXRyLF2oRc8-Z

■第一章 大蓮寺の伝説(PDF)

第一章大蓮寺の伝説_01

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第一章 大蓮寺の伝説

■行基が東大寺・大仏造営の勧進で小庵を建てる
浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺の縁起については明治維新の廃仏毀釈や明治45年(1912)のミナミの大火、昭和20年(1945)の大阪大空襲などで関係資料が失われ、残念ながら詳細はよくわかっていません。しかし今から約100年前に書かれた『大阪府全志』(著者:井上正雄/大正11年・1922年発行)によると「聖武天皇の天平15年(743)閏3月、僧正・行基が諸国を行脚していた際に小庵を結んだ」ことが大蓮寺の始まりであると記述されています。

 上記は『大阪府全志』の著者・井上氏が当時の大蓮寺第26世住職の秋田貫融師に取材して書いた記事です。あくまで「寺伝」であって実際のことはよくわかりません。わかりませんが、少なくとも貫融師は「大蓮寺は行基ゆかりの寺院で大阪有数の古刹である」という矜持を持っていたことでしょう。

ちなみに天平15年(743)に行基が諸国行脚をしたのは歴史的事実です。聖武天皇から奈良・東大寺大仏造営の詔が発布されたさいに行基は勧進役に起用され、それで諸国を巡っていました。行基やその弟子たちが浪華の地を訪れたことは確かにあったろうと思われます。

■菅原道真が大宰府左遷の折に訪ねる
続いて『大阪府全志』には延喜元年(901)、菅原道真が大宰府左遷のさいに行基ゆかりの小庵に立ち寄って名残を惜しみ、祈願を籠めたと書かれています。

 なぜ菅原道真が行基ゆかりの小庵を訪れるのか?と疑問に思いますが、菅原道真の先祖は土師氏(野見宿禰→土師氏→菅原氏)で、その土師氏集団を率いていたのが行基でした。行基は庶民に仏教を広めるために溜池や架橋など社会福祉事業に邁進したことはよく知られていますが、そうしたさいの土木工事を担った豪族が土師氏でした。

また菅原道真は藤原氏の讒言によって失脚し、明日をも知れぬ左遷の身となりましたが、朝廷に疎まれながらも民衆を教化しようと諸国を放浪したのが行基です。行基の小庵に足を運び、どこか自分の境遇と重ね合わせて気持ちを鼓舞するようなところがあったのかも知れません。

■足利将軍家の祈願所となる
行基ゆかり、菅原道真ゆかりの小庵はその後、鎌倉・南北朝・室町と武士勢力による戦乱の時代に突入すると、全く見る影もないほどに荒廃したといいます。それを嘆き悲しみ、復興を志したのが室町幕府12代将軍・足利義晴(1511~1550)の三男・晴誉上人でした。

この晴誉上人が一体、どのような人物であったのか?詳細はわかりません。寛政年間(1789~1801)に江戸幕府が編修した大名や旗本の系図集『寛政重修諸家譜』にはその名前はないようです。

足利義晴の子には足利義輝(13代将軍)、覚慶(のちに還俗して足利義昭・15代将軍となります)、周暠などが記録されていますが、長子の義輝以外は皆、出家しています。足利将軍家は家督相続者以外の子は仏門に入ることになっていました。晴誉上人もそのような足利家の伝統的な慣例に従って仏門に入ったのだろうと思われます。

晴誉上人は自ら諸国を巡化して浄財を集め、また家祖・足利尊氏の追善供養も込めて天文19年(1550)3月5日、一大伽藍を創建しました。その境内は頗る広く東西5町、南北4町に及び、塔中8ヶ寺、直末175ヶ寺を有し、堂頭は雲に聳え、足利家の祈願所として近畿の名刹となったといいます。しかし戦国時代の動乱に巻き込まれ、兵火にかかって烏有に帰しました。

■應蓮社顕誉魯道泰純による中興
再度、寺院を復興したのが應蓮社顕誉魯道泰純(?~1632)です。『浄土宗全書』によると顕誉上人は当初、大阪・宝泉寺の願誉上人の弟子でした。その後、下総国(現・千葉市)生実(おゆみ)の大巌寺二世の虎角上人(1539~1593)の下で数年間、修学しました。その学識の深さは他の学徒がひれ伏すほどであったといいます。その後、帰国し、堺・宗泉寺に入りました。この宗泉寺は『堺市史』によると訓蓮社願誉不捨順宏の開基とありますので、最初の師匠である願誉上人が堺に開基した寺を継いだのかも知れません。

その後、いよいよ文禄3年(1594)に大阪・備後町4丁目(現在の本願寺津村別院・北御堂の北側あたり)に足利家祈願所の大蓮寺を再興します。ところが、この寺の敷地が大蓮寺の寺格に対して小さすぎるということで、顕誉上人はなんと駿府まで赴き、徳川家康に直訴しました。

じつは徳川家は代々、熱心な浄土宗の信者でした。また家康が桶狭間の戦いで敗北したさいに逃げ込んだのが浄土宗寺院の大樹寺で、迫りくる織田勢を寺の閂(かんぬき)で蹴散らしたのが七十人力の怪力僧・祖洞上人でした。まさに家康の命の恩人ですが、この祖洞上人の曽孫弟子(祖洞→貞把→虎角→顕誉)が顕誉上人となります。

家康は顕誉上人の直訴に対して感じ入るところがあったのか、書付を小出播磨守に送り、その結果、顕誉上人は慶長6年(1601)に鞴町(天満?)にて大屋敷を給わったといいます。以上は『浄土宗全書』『大阪府全志』『徳川実記』に記載されている大蓮寺の変遷です。これに対して『摂陽奇観』(浜松歌国著、天保 4年・1833年刊行)では、最初は備後町ではなくて三津寺のあたりに寺院が復興され、その後、家康の命令で西横堀あたりに移されたとあります。場所に相違はありますが、家康の命令によって大蓮寺が移転したということは間違いないようです。

また大阪の夏の陣後の元和年間(1615~1623)に現在の高津の地に移転したと『難波丸綱目』に記載されています。おそらく大阪夏の陣で大蓮寺もなにかしらの戦災を受け、戦後復興の一環で下寺町の整備が成され、幕府の命令で大蓮寺は現在地に移転したと推測できます。

その後、顕誉上人は京・浄福寺の法雲上人が知恩院第30世に昇転するさいに「徳行純固」たる僧侶として抜擢され、補佐として浄福寺の第4世住職となりました。この法雲上人は元は今川氏で、家康が三河・法蔵寺にいた頃からの友人で、度々、家康に召されて思い出話に花を咲かせたといいます。従来、知恩院住持の進退は青蓮院門主の令旨によってなされていましたが、法雲上人以後は、すべて将軍の台命によって沙汰されることとなり、これは幕末まで継続されました。いわば江戸幕府による知恩院支配のような側面もあったのですが、そこに顕誉上人も携わっていたことになります。

ちなみに大蓮寺の塔頭寺院・應典院は大蓮寺3世住職・誓誉在慶の隠棲所として建てられたものですが、それは『浄土宗寺院名鑑』では慶長10年(1605)、『大阪府全志』などでは慶長19年(1614)のことと記載されています。夏の陣前に建立されたことになりますので、應典院も夏の陣後に大蓮寺と共に高津の現在地に移ったということになります。

■家康の身代わりになった大蓮寺の僧侶?
徳川家康と大蓮寺関連の伝説には以下のような面白い話も残されています。大阪夏の陣のさいに真田幸村に追い詰められた家康が草むらの中に身を隠しました。幸村は火縄銃で草むらをかき分けて探しましたが、そのとき草むらの陰にちらちら動くものがありました。幸村は家康だと思い込んで撃ち込んでみると家康ではなくて一人の僧侶でした。僧侶は絶命しましたが、そのあいだに家康は無事に逃げ出すことができました。

戦が終わった後に家康が身代わりになった僧侶は一体だれであったのか?と調べると大蓮寺の僧侶ということがわかりました。それで家康は僧侶の供養のために大蓮寺に釣鐘を奉納したというものです。その鐘を作るさいに用いられた水が二つ井戸であったといいます。

昭和2年(1927)に出た大阪趣味研究会による『大阪叢書』「鐘を吹いた二つ井戸」という記事で、もちろん史実だとは思えませんが、今の我々が想像する以上に、かつての大阪の人々には家康、江戸幕府と大蓮寺はさまざまな因縁があり、「徳川方のお寺」と目されていたのかも知れません。

■大蓮寺の鐘は大阪市中最大の釣鐘だった
話が大蓮寺の釣鐘伝説に及んだので、釣鐘の話にも触れておきます。『大阪金石史』(大正11年・1922年刊行)によると江戸時代、大阪市中最大の釣鐘は、この大蓮寺の釣鐘だったといいます。総高6尺8寸7分(約208センチ)で寛永19年(1642)に丸屋善太郎・丸屋五郎八(兄弟?)が父(名前不詳)の菩提のために寄進したものといいます。鐘には「摂州大坂如意山大蓮寺第二世典譽信阿」上人の名前と冶鋳大工として「摂州大坂住人藤原朝臣高瀬吉左衛門尉正次」、丸屋一族58名の法名が刻まれていました。

江戸時代には大蓮寺といえば大釣鐘の寺と連想するほど有名であったようで、大蓮寺に通じる東西道(現在の大阪市立高津小学校の北側)は「釣鐘筋」(または鐘筋)と呼称されました。千日前や黒門市場方面から大蓮寺に至る参詣道として認識されていたようです。大阪ミナミ界隈の町衆は大蓮寺の釣鐘の音と同時に寝起きしたということでしょう。

のちに享保18年(1733)に高津新地ができたさいは、高津新地は幕府から茶屋32株、湯屋2株が許可され、その一角として釣鐘筋も遊所になりました。この遊所は明治時代に廃絶しますが、大正13年(1924)の『大阪独案内』には「十の日」には「高津釣鐘筋」に夜店が出たという記録などもあります。毎月10日、20日、30日ともなると釣鐘筋には夜店が出て、大蓮寺の門前市のような光景が展開していたようです。

この大釣鐘は残念ながら昭和17年(1942)に太平洋戦争の金属供出によって失われてしまいました。


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岸和田七墓巡りを土生から始める町歩き(陸奥賢さんを迎えて)

2024 年 3 月 25 日 Comments off

土生郷のまち歩きのあと、土生神社の社務所でまち歩きの参加者や氏子のみなさんと懇親会。交流会。

土生郷の歴史は古い。条里制の跡もあれば土生神社も式内社である。熊野街道も通る。地元には豪族の土生氏が長く統治者として君臨していたらしい。

いまは「岸和田市土生」であるが、かつては「土生郷岸和田」といわれた。岸和田よりも土生の方が山手で、古くから発達していて、だから岸和田よりも土生の方が名が通っていた。

山手にあるから当然のことながら田畑の水利権も土生郷が牛耳っていた。山の土生郷から海の岸和田に水を流す。それで岸和田に田畠が作られて人が住めるようになった。いまも岸和田の農業関係者は水の利用料を土生の水利関係者に納めているとか。
 
栄光の土生郷であるが、それが没落するキッカケになったのが岸和田藩が出来て岡部公がやってきたこと。岡部公は、かなりの重税を強いたらしく、それに反発して地元側が強訴した。その強訴の主唱者のひとりが土生氏だった。結果として土生の一族は反逆者として逮捕され、処刑される。

土生郷のために!と立ち上がった義民であり、処罰されたが、地元では悲劇の英雄である。岡部公の目があるから大っぴらに墓などは作れなかった。そこで供養の塚は作ったが、それを「歯神さま」として伝承して密かに村の中で祀っていたらしい。

歯神さまだから歯に効く。歯に悩む村人が歯神さまにお参りして痛い歯には歯神さまの石を当てて「治りますように」と願掛けした。霊験あらたかであったのか、一時期は老人の集会所も出来たという。

僕がとくに面白いと思ったのが「岡部公に歯向かった」から「歯神さま」になった?という親父ギャグみたいな由縁であろうか。いや、非業の死を遂げた土生氏の残念無念の歯噛みを思って、単なる虫歯の痛みぐらい我慢しろ!ということなのかも知れない。虫歯の痛み、超つらいがw

ちなみに没落した土生氏の頭領だが、子孫の方がいて、それは岸和田から和歌山方面に落魄れていったらしい。土生郷ではその御恩を忘れずに和歌山の土生氏の方に長くお米などを贈ったりもしたそうだ。いまは交流がないという。残念なことです。後裔の方に会えたりしたら面白い言い伝えのひとつやふたつ、聞けるかも知れないが…。

岡部公の土生郷に対してのイヤガラセ(?)はこれだけに留まらない。土生郷の村人の墓をじつは強制的に移転させた。土生郷内に泉光寺という臨済宗の寺院があるが、この寺院の檀家が岡部公だった。泉光寺には歴代藩主の墓があり、毎月、岡部公が月参りをする。そのさいに土生郷を通行するが、その途上に土生郷の墓地があり、邪魔であるということで下松の方に移したという。

土生郷の墓であるから、もちろん長く豪族をしていた土生一族の墓もあったに違いない。しかし、もはや土生氏の時代ではなくて岡部公の時代であるというのを土生郷の住民に判らせないといけない。墓の移転は、明らかに岡部公の権力を見せつけるためのデモンストレーションではないだろうか。

基本的に岸和田では岡部公は名君として褒め称えられて顕彰されている。しかし物事はそんなに単純ではない。温度差、地域差は当然ある。土生郷から眺めてみると岸和田、岡部公の物語もこういう風に語られるのか…と興味深かった。


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越境のための道具

2024 年 3 月 14 日 Comments off

昔は大家族だったから親・兄弟・親戚一同の中に「いろんな人」がいた。「エリート」や「出世頭」もいれば「どうしようもない奴」や「大変な人間」もいたりした。一つ屋根の下で暮らしてるから、そういう人間になる「事情」も見ていて、察していて、よくわかっていた。そういう複雑な家庭に育った人たちが世の中に出て社会を作るから、社会にも、ある種のキャパシティがあり、寛容さが担保された。

いまは少子化、核家族化で「身内」に「いろんな人」が必然的に少ない。ある意味、平穏・平安な家庭で暮らして世の中に出るから、そこで初めて「いろんな人」に出会って衝撃を受け、拒絶反応が出てシャットダウンしたりする。理解が及ばない。自分の中にはいない「他者」と遭遇してクラッシュしてしまう。そういう人たちが増えていくと必然的に社会そのものから寛容性が失われていく。

平穏・平安な家庭に生まれ育ったことは、とてもいいことです。それがダメなことだとは全く思わない。ただ、だからでこそ「いろんな人」「他者」に触れる(触れてしまう)機会をどのように担保するか?が非常に重要になってくる。そして、それは結局のところ、自分の環境、世界観からの「越境」ということになる。

越境のための道具がアートだったり、観光だったり、逍遥だったり、巡礼だったり、遊びだったりする。そういう道具をたくさん持っている人は、やっぱり、人間に幅がありますわ。おもろい。そして、やさしい。


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堺市役所。21階にて。さいとうたかを展

2024 年 3 月 13 日 Comments off

堺市役所。21階にて。さいとうたかを展。いつまでやってるんやろう?ずっとやってますが。

さいとうたかをの自伝などによるとゴルゴ13ことデューク東郷のモデルのひとりは堺の福泉町立中学校の恩師・東郷麿智夫という。近所でも評判の悪ガキだったさいとうたかをは、ある日、学校のテストを白紙で提出した。東郷先生はそれを一瞥して「これは君の責任で提出するのだからちゃんと自分の名前を書きなさい」と諭したという。

無回答の白紙を咎めるのではなくて記名することで覚悟を求めた。「人間社会の約束事」「世の礼儀」を初めて教えてくれたのが東郷先生であったと、のちにさいとうたかをは述懐している。

さいとうたかをの故郷の福泉の近くには信太山があった。ここは戦前は帝國陸軍の演習場であったが戦後は米軍が接収した(現在は自衛隊の駐屯地となっている)。信太山は米兵だらけとなり、その中の誰かが10セントブックスを山の中に捨てた。

10セントブックスは前線で戦う米兵のストレス解消、憂さ晴らしを目的としたもので単純明快なストーリーでアクション、バイオレンス、エログロが詰め込まれている。要するに頭を空っぽにしても読めるような低俗低級安価なペーパーブックであった。それを拾ったのが若き頃のさいとうたかをだった。

さいとうたかをは絵が描きたくて、しかし戦後間もない頃で家は貧しく、腹も減るし、紙もないので、もし米兵に見つかったら殺されるかも知れないという命懸けの思いをしながら信太山に密かに忍び込んだ。そして食べるものや紙を探したりしているうちに偶然、10セントブックスを拾い、その世界観に衝撃を受け、魅了された。

その後、さいとうたかをは、こども向けの漫画ではなくて青年、大人をターゲットにした「劇画」の作家としてデビューし、ついにはギネスも認める世界最長の漫画『ゴルゴ13』の作家として大成功を収める。その劇画の萌芽が、じつは信太山の名もなき米兵が捨てた一冊のペーパーブックだったというのは歴史の皮肉というべきか悪戯というべきか滑稽というべきか…。

アメリカの漫画文化の代表はディズニーだが、その薫陶を受けたのが手塚治虫。手塚治虫は祖父は司法官、父は住友のエリート社員で毎年、正月になると家族で朝日会館(朝日新聞の文化施設)でディズニー・アニメを観て高級レストラン「アラスカ」で洋食を食べていた…というような洗練されたブルジョワジーであった。さいとうたかをとは、大違いの出生である。

手塚治虫は戦後、日本の漫画文化の第一人者となるが、その手塚漫画に「あんなのはこどもの遊びですよ」とアンチを唱えたのが、さいとうたかをらの劇画集団であった。結果、手塚は虫プロの失敗・倒産などもあり、「終わった漫画家」扱いをされて辛酸を舐める。しかし青年漫画に活動の舞台を移し、「ブラックジャック」「火の鳥」「ブッダ」といった「劇画」で奇跡の復活を果たす。

手塚作品の初期の「アトム」「リボンの騎士」と、後期の「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などを見比べると、全くタッチが変わっていることに気づく。必死になって劇画の手法を学び、取り入れて自身の表現を進化させた。この辺が手塚の凄いところで、さすが「マンガの神様」ですな。

ディズニーと10セントブックスというアメリカ文化のハイカルチャーとローカルチャ―が手塚治虫の漫画とさいとうたかをの劇画の源流にある。ふたりとも大阪人であるが、手塚はキタの人(豊中、池田、宝塚)で、さいとうたかをはミナミの人(堺、和泉)で、大阪の郊外都市文化圏のコントラストがまた面白く、興味深い。


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堺・シマノ自転車博物館。博物館では散走の取り組みに詳しい神保さんにご案内頂き、いろいろとお教えいただきました。

2024 年 3 月 7 日 Comments off

堺・シマノ自転車博物館。博物館では散走の取り組みに詳しい神保さんにご案内頂き、いろいろとお教えいただきました。

散走の話よりも自転車の歴史、文化の話が主でしたが要するに散走という概念もポッと出てきた言葉ではないということでしょう。200年に渡る自転車の開発、発展、紆余曲折や試行錯誤、可能性の追求があり、その流れの中に散走という自転車文化の提唱があり、位置付けられている。博物館を巡って、よくわかりましたなあ。

いろいろと話をお聞きして、また、こちらもいわき時空散走の取り組みをご紹介させて頂きましたが、神保さんからは「面白い!」と太鼓判を押されたので、よかったなあと思いますw

堺といわきと。散走ネットワークで繋がりを模索したいし、新しいプロジェクトも起こせるのではないか?と思ってます。またオモロイことはじまったらいいますんでw お楽しみに!


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堺。シマノ自転車博物館へ!

2024 年 3 月 7 日 Comments off

堺。シマノ自転車博物館へ!

去年、ノレル?さんからご依頼を受けて、いわきで自転車によるコミュニティ・ツーリズムのプロジェクトを始めました。プロデューサーとしてプロジェクトにネーミングをつけましたが、それが「いわき時空散走」。

FAROのみなさんが「いわき平時空マップ」という取り組みをやっていて、さらに「散走」という言葉があるとノレル?のみなさんに教えられて、それを融合させたわけですが、この「散走」という言葉の出処が実は堺が誇る自転車メーカーのシマノさん。そこで散走について本家本元のシマノさんからお教え頂きたいということでノレル?の権丈さんと一緒に表敬訪問しました。

昔、大仙にあった自転車博物館はこどもの頃からよく通っていたのですが、リニューアルされたこちらのミュージアムは僕は初訪問。充実の展示で圧巻でした。自転車の未来は可能性に満ち溢れてますな。勉強になりました。


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玉水教会の裏手にある荒光稲荷大明神さん

2024 年 2 月 20 日 Comments off

大阪まち歩き大学。肥後橋を歩く。

肥後橋といえば金光教の玉水教会(そうなのか?)。いや、しかし玉水教会は奇跡の教会で、何が奇跡か?というと大阪大空襲で周りは完全に焼け野原になったのに、なぜか教会だけは無事であった。「新町から北はすべて焼け野原なのに、玉水教会だけがポツンと建っていた」という新町芸妓さんの回想の手記を読んだことがあります。

この奇跡を起こしたのが玉水教会の裏手にある荒光稲荷大明神さんという。ここのお狐さんは大空襲の時にやってきて見事に鎮火してくれたという。ほんまかいな?であるが実際に荒光稲荷さんの奉納画にその時の様子が描かれている。決して上手い絵ではないが味のあるテイストで好きですなあ。こういうの。

大阪大空襲だから当然、近代戦争ですが「空からお狐さんが飛来してきて救済してくれた」なんて不思議の話があるから面白い。


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中之島香雪美術館にて。刀と拵の美。

2024 年 2 月 20 日 Comments off

中之島香雪美術館にて。刀と拵の美。

村山香雪こと村山龍平は朝日新聞を日本有数の大新聞に発展させた最大の功労者であるが、元は和歌山・田丸藩士。武士出身者なだけに刀剣に対する思い入れは強い。本人の嗜好、趣味が走っていて美術品というよりも実用性を重視しているようなところがあって面白かった。

香雪はまず刀剣のコレクターとなり、やがて仏教美術、茶道具への興味関心に繋がっていったという。香雪美術館の原点として興味深い企画展でした。


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去年12月に「堺のことを教えてください」とON THE TRIPさんに取材をお願いされて「黄金の日日」をテーマにまち歩きをして、それが音声ガイドになりました

2024 年 2 月 20 日 Comments off

【ON THE TRIP】去年12月に「堺のことを教えてください」とON THE TRIPさんに取材をお願いされて「黄金の日日」をテーマにまち歩きをして、それが音声ガイドになりました。僕の名前は出てませんがw よろしければご視聴ください~m(_ _)m


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