和歌山。田辺市。高山寺。ここは植芝盛平の墓と南方熊楠の墓がある。
田辺は「三偉人」がいるらしく、植芝盛平、南方熊楠に、あと武蔵坊弁慶だという。弁慶だけいきなり平安時代、800年以上前の人で、いや、もうちょっと近代に偉人おらんのか?と思って調べたら片山哲がいた。ええやん。片山哲で。
この高山寺には、かつて猿神社があり、そこは熊楠の植物採集、菌類採集の場であったという。ところがこれが明治政府、西園寺公望内閣が1906年に発令した神社合祀令、一村一社令によって破壊され、無くなってしまった。激怒した熊楠は明治政府を猛烈に批判した。その後、反対運動が広がり、結局、神社合祀令は1920年に廃止されたが、後の祭りで、すでにそれまで日本全国に20万社あった神社が3分の1まで減ってしまったという。
明治政府の廃仏毀釈(神仏分離令)は、いろいろと地域コミュニティに禍根を残したが、この一村一社令も廃仏毀釈に匹敵する世紀の愚策であったと思う。西園寺公望とか、この一点で僕は好かんw
熊楠の墓には御供物はなかったが、盛平の墓には御供物があった。ミックスナッツ。なんで?w 合掌。
和歌山。田辺市。植芝盛平記念館。
合気道は日本の武道の中でも特異であろう。相手の力(気)を利用して、同化、受け流して相手を制する。他力の武道というと関係者各位からいろいろと怒られそうだが、自力で相手を捻じ伏せる空手や剣道、柔道といった武道とは、ちょっと方向性、ベクトル、思想が違うという気がする。
植芝盛平は大本(大本教)の出口王仁三郎と邂逅し、私淑して、その人生観、宗教観、生命観に多大なる影響を受けたという。ちょっとスピ入ってるというとアレだが、不思議の武道家である。
じつは僕はこどもの頃から空手をやっていて、これは、まあ、暗黒歴史でもあるから、あんまり人にいってなかったが、父がジャッキー・チェンが好きすぎて、それでいきなり僕に「空手をやれ」とムリヤリ道場に入門させられた。
ジャッキー・チェンはサーカス団上がりで、拳法の人であって、まったく空手とは違うが、父の理解では拳法も空手も同じで、たぶん本人が強い男になりたかったのだろう。父は身長が低く(160センチなかった)小柄であるが故に「男らしさ」「雄々しさ」に憧れたようなところがあった。その思いを息子の僕に託したという気がする。
託された僕は、まったく空手に思い入れはなく、道場通いは苦痛以外の何者でもなかったが、なんだかんだで中学までやり通して意外と頑健な身体になった。結構、若い頃からハードな仕事量をこなしてきたが、それが成せたのは空手のおかげではないか?と思ったりもする。若いうちに武道をやらせるのは大事なことかもしれない。押忍!
植芝盛平記念館は植芝盛平の人生が紹介されているが格言、名言のようなものが並んでいて「合気は愛気じゃよ」には笑った。親父ギャグやがなw 意外とユーモラスな人柄であったかも知れない。
きました。お手紙。前回、訪問してきた某キリスト教系新宗教の方から。
僕の母方の祖父母は霊友会に入信したが、新宗教の第一世代は自分たちで「この宗教(霊友会)を選択した」といった自覚がある。棄教や信教の経験がある。
しかし第二世代の母となると生まれた時から両親から霊友会の考え、教えに染まってきたから全く他の宗教と接点がない。新宗教の第一世代よりも第二世代の方が、ある意味、いちばん新宗教にはまりやすい。
僕は霊友会の第三世代(脱会者)となるが父が全く霊友会活動に無関心(ただの一度も題目を唱えたことがなかった)であったので、それが母の霊友会活動への疑問、違和感、不信に繋がっていった。これがもし父母、両親共に霊友会の信者であったならば、おそらく僕はなかなか霊友会の信仰から抜け出すことは出来なかったろう。
この聖書教育のボランティアの手紙を持ってきたのが母と娘の二人組でして(おそらく。顔がそっくりでしたから)。娘が話をして、母はじっと後ろに控えて娘の言動を監視しているかのように一言も喋らない。手紙も娘が書いているようですが、しかし、この手紙の後ろに母の影がチラチラと垣間見える。新宗教の世代問題は根深いです。
須く信仰とは個人のものです。家のものではない。先祖代々や自分が信仰しているといっても、その神仏を次世代や子々孫々に押し付けてはならない。先祖代々、自分と信仰が同じなら、それは幸せなことだが、ズレだって生じる。宮沢賢治は浄土真宗、念仏を捨てて法華を信仰した。父(浄土真宗僧侶)との確執は賢治の深い懊悩となった。
信仰心や宗教性もまた性差やジェンダーのようなものです。個人性、固有性がある。その人のスピリチュアリティを尊重しないと歪んだ家庭になってしまう。
45歳を振り返る。いわき時空散走がはじまったので、ほんまにいわき三昧でした。まさか自分がサイクルツアーのプロデューサーをやるとは思わなかった。人生は予想外のことが起きるが、しかし、ありがたいご縁です。深く感謝を。
46歳にもなると夢とか目標とか、そんな大袈裟なことは特になく。健康でありたいが、それは仕事をしたいから。目の前の仕事を全力に。公共財、社会財、コモンズを作っていく。淡々と、粛々と、やるのみです。
■3/30(土)13時:百年長屋にて歴史講談まち歩き「細川ガラシャ物語」
https://www.facebook.com/events/1054450578961682/
百年長屋さんにて歴史講談まち歩きです。細川ガラシャの講談を聞いたあとにゆかりの地を巡ります。第1部(13時30分~15時)の講談は旭堂一海、第2部(15時~17時)のまち歩きの案内人は陸奥賢です。
■会場:百年長屋
http://nagaya100.sblo.jp/
〒537-0025 大阪市東成区中道3丁目2−28
■参加費:3000円(1部・講談会のみの方は1500円)
■お申込み:080‐2535‐6937(百年長屋)
■お問い合わせ:info@sakai-sozoro.com(担当:ハマダ)
■企画・デザイン:濱田さち
【いわき時空散走】湯本リサーチ。旅館古滝屋さんの中にあるのが原子力災害考証館furusato。
■原子力災害考証館furusato(公式サイト)
https://furusatondm.mystrikingly.com/
古滝屋の里見 喜生さんとは一度、御相伴に預り、楽しくお酒を飲んだことがありましたが(その節は本当にありがとうございました!)湯本温泉の薬効や大阪のまちの話で盛り上がったりして考証館の話にはならなかった。モヒート最高に美味かったしw
それ以降も何度か個人的に考証館を訪れたりしているが、ここは何度きても言葉に詰まる。いや、いろんな思いや気持ちや想起するものがあるが、言葉にすると大事な核心の部分が零れ落ちるような気がしてしまう。
言葉ですべて伝わるものではない。言葉では伝わらないものがここにはある。だからでこそ言葉を尽くす必要がある。ここは過去、現在から未来に繋がる対話の場です。考証というのは、そういう意味でしょう。
去年からご縁があって、いわき時空散走のプロデューサーになり、いわきのリサーチを繰り返して、多種多様な人や歴史や風土や文化や物語に触れてますが、いわきというまちのコアのひとつは間違いなく湯本の、古滝屋の、原子力災害考証館furusatoでしょう。
いろんな人にここを訪れてほしい。ここにきて写真を眺めて、解説を読んで、展示品を直に指で触れて、佇んでほしい。そして語り始めてほしい。
※追記
とりあえず「来てほしい!」「訪れてほしい!」の一点なのですが、原子力災害考証館についてはやっぱり小松 理虔さんの「小名浜ピープルズ」の連載記事が秀逸です。これもぜひとも読んでほしい。
■温泉宿・古滝屋の原子力災害考証館
https://satoyamasha.com/series/onahama-peoples/02-furutakiya
大阪まち歩き大学!大阪市立公文書館へ。「博覧会と大阪」の企画展を拝見。
じつは大阪は博覧会が少ないのでは?というのが最近の気づき。明治、大正、昭和前期の博覧会の会場は京都か東京が多い。大阪人のメンタリティとして博覧会という形態はあっていないのではないか?と推測している。
やはり商都・大阪は展示(エキシビジョン)よりも売買(トレード)のまちであろう。日々、日常の中に店舗、商店街、市場、マーケットがあり、啓蒙的な博覧会なんて特に必要なかった。海遊館いって魚を見ても「あいつ、うまそう」とかいうんが大阪人であるw
博覧会をやるたびに大阪は大阪らしさを失っていったのでは?というのが僕の見立て。やるべきやおまへんw
生玉公園(生國魂神社前)のクスノキが三本伐採されてしまった。素晴らしい大木で、これは公園内にあるが実質的にはいくたまさんの社叢といえる。生玉公園自体、かつてはいくたまさんの社地であり、境内地であり、神域であったから。
個人的には行政予算をかけるなら万博よりも市内の緑地化を推進、拡大拡張してほしい。寺社仏閣の御神木、社叢の保全、保護を優先してほしい。
百年、二百年、三百年と大阪のまちを潤して地域住民の心の拠り所となるのは森林であり、樹木です。「木の都」であれかし。
大阪まち歩き大学。天王寺七坂のひとつ。源聖寺坂。
ここは昔、妖怪がでた。上町に住む住民が坂を降りて下寺町、黒門、なんばあたりで買い物をする。コンニャクを買う。そのあと、また坂を登って家に帰ると、なぜかコンニャクだけが無くなっている。住民は「あ!源聖寺坂のタヌキにやられた!」と悔しがったという。源聖寺坂にはタヌキがいて、そいつはコンニャク好きで、いつのまにか盗まれるとか。
戦後は坂の途中の、曲がり角あたりに猫婆(ねこばば)がいたという。これはほんまに実在する人間の老婆で妖怪ではなくてホームレスであったらしい。こどもたちがそうやって囃し立てて怖がった。昔は坂道にホームレスがよく住処にしていたという。
上町でもなく下町でもない。「坂の途中」の「曲がり角」はアジール空間が発生する。源聖寺のタヌキやネコババアのような妖怪伝説、都市伝説もスルリと生まれてくる。
天王寺七坂というのは、そういう都市の闇を内包していた場所です。人の世の闇。人間の闇。
鹿児島。吉野。鎮守神社。僕の曽祖父・陸奥利宗と曽祖母・ヲカが結婚して新居を構えたのが「鹿児島郡吉野村吉野497番」だった。現在の鹿児島市吉野町。
曽祖父・利宗は明治12年(1879)2月14日に高知県・吾川郡池川村に誕生し(陸奥家は宇和島伊達藩士の流れと聞いている。このへんは伝聞だが。家紋は宇和島笹)、大蔵省専売局の官僚となって全国を転々としていたが、明治40年(1907)4月10日に元・薩摩藩士の小山田家の娘ヲカと結婚している。
この小山田家は薩摩藩の砲術指南役の家柄で、どういう経緯で利宗とヲカが出会ったのか?よくわからない。当時、利宗は28歳で同年11月4日には長男・武夫が同地で生まれている。結婚の日と出産の日が近いので俗にいう出来ちゃった婚というやつであろう。僕は次男の文夫(東京生まれ)の孫になるが祖父の兄が武夫となる。
こどもが生まれるとなれば、おそらく、こちらの吉野の氏神の鎮守神社にお参りにきたのではないか?と推測している。何故ならば鎮守神社は安産の神様として有名らしいので。
安産の神様になったのは島津歳久の切腹事件が由縁という。歳久は島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の三男で秀吉と確執があった。最終的に秀吉の圧力から家を守るために長男・義久は断腸の思いで歳久を討伐することを決定し、歳久も覚悟して自害を試みた。
ところが酒を飲みすぎた歳久は中風で刀が持てない。しょうがないので石で腹を掻っ捌き、切腹を果たした。その際に「女性のお産もこの苦しみに匹敵する。だからお産の苦しみを癒す神となろう」と宣ったとされる。鹿児島では安産の神様=お石さま=島津歳久であるらしい。
吉野は狩猟の名所として知られたらしいが歳久もよく吉野にきて狩猟を楽しんだとか。憩いの場所、休憩ポイントとなったのが鎮守神社で、やがて安産の神様「お石さま」ゆかりの場所として信仰を集めるようになった。
苦しみや痛みや怒りが転じて、逆にその災難を除ける守り神となる。怨霊が御霊となる。残念さま信仰ですな。
しかし刀が持てないから石で切腹というのが意味不明で恐ろしい。刀よりも余計苦しいのではないか。ちょっと他に聞かれないエピソードであろう。薩摩隼人、おそるべし。
あと酒はほどほどに。中風、怖いw