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「おもてなし」と「ほったらかし」のええ塩梅

2023 年 7 月 31 日 Comments off

福島県白河市。お試し住宅「まちなかベース」にて。関谷農園さん、有賀酒造さんもご参加頂いて交流会。

お試し住宅というのは白河移住を考えている方のために、文字通り、お試しで、ちょっと1週間ほど白河に滞在してみませんか?というもの。なんと1週間あたり7000円という破格のお値段で白河のまちなかに宿泊することができるという。

https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/page008274.html

東京、関東県ではコロナ禍の影響でリモートワークが増加しました。すべてオンラインの完全フルリモートの会社や労働形態も珍しくない。もはやそうなると、わざわざ家賃の高い東京に住んでいる必要がない。

白河は北関東・栃木県の那須の隣で、東北の玄関口(白河の関)だが、東京・上野駅から東北新幹線を使えば新白河駅まで約90分ほどで到着する。大阪から白河までは遠いが、意外と東京・関東圏から白河は近い。

いままでは地方に移住となると、ひとまず仕事を用意するということが絶対条件、必須条件だった。しかしリモートワークの時代には仕事は東京、大都市圏で賄う。地方移住の決め手は仕事の要件、条件ではなく、もっと生活者のインフラになってくる。

快適で安価な不動産物件があるか?新鮮な野菜や肉、魚が買えるスーパーマーケットがあるか?保育・子育て・教育の公的機関の充実、支援制度はどうか?週末に家族で楽しめる、遊べるレジャー、リラクゼーションの施設や空間があるか?いざという時のための病院、医療機関のインフラや防災体制は大丈夫か?そういうことが決め手になってくる。

しかし、なによりも都会人には地方の風土や人との関わり方の距離感が大事になってくると思われる。あんまり他者に対して遠慮がなく、馴れ馴れしく踏み込んでくるのも苦手だろうし、余所者に対して排外的で冷淡なのも困る。地方ではあるが、じつは都会的なものへのセンス、アンテナがあるというのが非常に重要な移住者の要素になってくる。

そして、そういうセンスやアンテナが結構ちゃんと備わっていてるのが白河ではないかと僕は睨んでいる。白河は歴史的には奥州街道の宿場町で、東北文化圏と関東文化圏の結節点のようなところにある。

また宿場町というのは旅人を常に受け連れて発展してきた。他者に開かれている。おもてなしができると同時に、じつはドライでもある。旅人や他者にそれほど過度に期待などしない。このおもてなしとドライさという匙加減が、じつは難しい。

これが単なる農村では、そういう他者との交流の文化的な背景が育たない。農村部はやはり(宿場町、商業都市などに比べれば)閉鎖的な集落で、人と人との交流は、人間関係が近すぎて、コミュニティが濃厚すぎて、都会人は、その距離感に戸惑う。

これは余談だが、いま日本全国各地で地域おこし協力隊などがトラブル(?)になったりしているが、これは結局は都会人と地方人の「他者との関わり方」「人との距離感」の相違によるコミュニケーション不全が問題の一因だろうと思う。

白河は、おもてなしをちゃんとしてくれる。でも、ちゃんと「ほったらかし」もしてくれるんですw

それは例えばコミュニティカフェ・エマノンにいけばわかります。ここは特に高校生たちが、自由に行き来してますが、エマノンのスタッフと高校生たちは、微妙な人間関係の距離感で成り立っている。近すぎず。遠すぎず。あつくもなく、つめたくもなく。

つまり、おもてなしをするし、ほったらかしもする。これが良い。これがないと、じつは僕みたいなシティボーイ(ま、僕は単なるコミュ障かもしれないがw)は困るんです。

ひとりになりたい時もある。そのくせ、さみしい時には、適度に相手してくれる。それができるか?できないか?じつは都会人の移住者を増やしたい時は、こういう塩梅が非常に重要なファクターとなる。

生活の条件とかインフラとか、そういったハードウェアは、ある程度は資本などで用意できるでしょう。でも「人との距離感」といったヒューマンウェアは、そんなのは一朝一夕には育たない。用意できない。簡単に作り上げることはできない。

こういうヒューマンウェアは教育でも難しい。風土や街場。歴史。文化。言葉。そういうものに培われてきた教養というものです。

おもてなしとほったらかしのええ塩梅。それが白河にはある。東京、関東圏、都市圏の移住者を増やしていく上では、これは非常に重要なアドバンテージやないかと僕は思ってます。


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平野郷の「横軸」(大念仏寺)と「縦軸」(杭全神社)

2023 年 7 月 14 日 Comments off

平野郷まち歩きにて。夏祭のだんじり。

平野郷は面白い。寺内町ではあるが、大阪にある多くの寺内町は浄土真宗の寺院がコミュニティの要として機能し、中心的な役割を果たしている。それに対して平野郷コミュニティの最大の要は大念仏寺で、これは浄土真宗ではなくて融通念仏宗の寺院だったりする。

融通念仏宗開祖の良忍さんは同じく念仏系の法然さん、親鸞さんの先輩的な存在で、その偈文は「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」という。この「一人一切人 一切人一人」は「わたしの念仏はみんなのための念仏で、みんなの念仏は、わたしひとりのための念仏である」というような意味だと融通念仏宗のお坊さんから教えてもらった。なんとなくラグビーの「One for all All for one」の合言葉にちょっと似ている。

また平野郷は坂上田村麻呂の息子・広野麻呂の所領地で開拓されたという。じつはこの坂上家の子孫がいまだに平野郷にいて「坂上七名家」として続いている。平野郷の氏神様の杭全神社は坂上一族が建立した神社で境内には坂上田村麻呂を崇め奉る田村社がちゃんとある。

ちなみに、この杭全神社には日本唯一の連歌所なんかもあり、いまも毎月、連歌の会が催されているという。所属メンバーはやはり坂上七名家のみなさんが中心的らしく、坂上一族という「血の連帯」と連歌という「文化芸術の連帯」によって繋がりを深め、平野郷を守護している。

融通念仏宗総本山の大念仏寺が平野郷の町衆の「横軸」のネットワークとするならば、坂上一族が建立した杭全神社こそが先祖代々から脈々と続く坂上七名家という「縦軸」のネットワークを形成しているといえよう。

この「横軸」と「縦軸」の微妙、絶妙なバランスが平野郷という大阪でも、いや、日本でも有数の自治都市を形作っている。

「まちづくりとは何か?」という問いは平野郷を探ることで答えの糸口が見つかる気がしてます。深い都市です。平野郷。


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堺大魚夜市

2023 年 7 月 3 日 Comments off

六月晦日は夏越の祓えであるが、昔は住吉大社の夏祭りもその時期に行われていた。現在は7月末から8月1日。要するに旧暦から新暦に移行して1ヶ月ズレた。

住吉さんの祭礼行列、神輿などが住吉から堺・宿院までやってくるが、堺の大浜では住吉さんの御祭礼だからということで堺はもちろんのこと、大阪湾、淡路島、小豆島、明石、瀬戸内、西日本各地から漁民たちがやってきて住吉大神への供物として新鮮な魚などを捧げたらしい。

しかし、そんなに大勢の漁民たちがやってきて魚をもってきても余りに大量なので捌ききれない。そこで供物の魚類はその後、「おさがり」として堺の町衆に売られることになった。新鮮な魚が安く手に入るということで「堺大魚夜市」は有名になり、堺の名物行事となった。

この堺大魚夜市が、いつから始まったのか?はよくわからないが伝承としては鎌倉時代ぐらいから始まったという。800年以上続く市場、祭礼ということになるが、まぁ、しかし、この辺のことは本当かどうかはよくわからない。なんせ堺の人(僕も含めて)はすぐ話を盛るというか大袈裟だから…w

堺大魚夜市は、だから「お祓い市」とも呼ばれた。夏越の祓えにあわせてやるから、お祓いの市というわけで、また魚市ではタコがよく商われたので「タコ市」とも呼ばれたとか。タコは「お祓いタコ」と呼ばれて縁起物でもあった。

面白いのが「夜市」であることで、これは夏の暑い盛りにやるものだから、自然と日が暮れた夜にやるほうが魚も傷まなくていいということだろう。また夜通し市をやるものだから堺の町衆の人たちは魚市の威勢のいい掛け声を聞きながら浜辺でゴロゴロ、朝まで寝たりしてたらしい。あんまりにもみんなが浜辺で寝ているものだから「堺の外寝」といって、それがまた名物でもあった。

もちろん若い男女が夜中にでてきてゴロゴロしてるわけで、だから浜辺のあちらこちらで風紀が乱れまくったりしたw いや、むしろ、それがメインかつ目的で、みんな堺大魚夜市に集まってきたといっても過言ではない。妓楼の女性も多かったようで商売繁盛すぎて過労で倒れたなんて話もある。

いまの世の中では到底ありえない公序良俗に反する堺の名物風俗行事であったが、こういうのはやはり戦時中に統制された。太平洋戦争中は堺大魚夜市は禁止されて、魚類の商いも国がコントロールする。公定価格が決められ、商い量も決められ、しかし堺の漁民たちは闇の魚商売をやって、それで当局に捕まったりしている。一般のマーケットには出回らないが一部の高級料亭などに魚を卸していたらしい。国のいうことなんか聞かない。自治都市・堺、万歳!w

この堺大魚夜市は戦後も続くが1960年代ぐらいから国の政策方針もあって堺の浜辺は工業地帯と化していく。『万葉集』にも歌われた白砂青松の美しい堺の浜辺が、どんどんとコンクリートの護岸に固められ、消滅していった。無念。

浜辺消滅に伴い、堺大魚夜市も、その存在意義が失われていく。海も見えない大浜公園の中で続けられたがアイデンティティ・ロストしてしまったので、どうにも盛り上がらない。結果として堺大魚夜市は1974年に中止となって、代わりに始まったのが「堺まつり(南蛮行列)」だったりする。この堺まつりも、いろいろとネタ話はあるんですが、まぁ、そのいろいろは割愛しましてw

結局、堺大魚夜市は一時期は中止だったんですが、いや、しかし堺の古くからの名物行事であるし…という声も多く出てきて、その後、また復活して現在も大浜公園で続けられております。

僕も若い頃は、ちょこちょこ遊びにいってました。ちょっと背伸びした中学生、高校生が浴衣きてやってきて楽しくやっております。時代の変遷と共に中身が変容してきておりますが、こういう祭礼があるのは珍しいし大切なことではないかと思います。

■堺大魚夜市

https://yoich.com/index.html


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なんばパークス9階。南海メモリアルギャラリー。

2023 年 6 月 17 日 Comments off

大阪まち歩き大学!なんばパークス9階。南海メモリアルギャラリー。

昔はなかったが、野村克也監督ことノムさんのコーナーができた。ノムさんが亡くなって、ご遺族が南海と和解するまで南海メモリアルギャラリーのどこにもノムさんの名前はなかった。ほんまに見事に名前、痕跡が不自然なまでに消されていて、あれはあれで見ものでしたが。噂によると南海はノムさんの名前をちゃんと刻もうとしたが、ノムさん側(夫人?)が許さなかったという。

僕は南海ホークスファンで、こどもの頃に被っていたギャップも南海のもの。地元、堺の子は南海ファン、近鉄ファンが多かった。阪急、阪神なんてのはキタの球団です。ぼくは、堺の子は、ミナミの球団を愛していた。

こどものころの刷り込みというのは凄い。南海ホークスはなくなり、しかし、いまだに、だからといって阪神タイガースファンにはなれない。南海ファンのまま。阪神、嫌いではないが、別に巨人も嫌いではないw ファンというのは南海ホークスだけ。

1988年に南海ホークスはダイエーホークスとなった。そこで我が野球ファン人生(?)も潰えたことになる。当時の僕は10歳。あまりに早い野球ファン人生(?)の幕引きであった。

僕はノムさんは南海の人というイメージがあり、だから好きだった。阪神の監督をやったときだけ、阪神を応援した。星野監督時代はとくに応援しなかったw

ノムさんは著書がこれまた抜群に面白い。「負けに不思議の負けなし」など名言すぎる。テスト生から三冠王。こんな野球人はいない。


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会津の男と、明石の男が、大阪名物を作った。

2023 年 6 月 17 日 Comments off

大阪まち歩き大学!本日もまち歩き。岸里から玉出まで。要するに旧勝間村。マニアックなまち歩きだが、おもろい。深い。

玉出には会津屋の本店がある。創業は、戦前は今里新地にあった。当初はラヂヲ焼の屋台だったとか。ラヂヲ焼はタコではなく牛のスジ肉を入れていた。ラヂヲがハイカラな時代。ラヂヲは時代の最先端の流行アイテムだった。その名前をとった。いまでいうなれば「スマホ焼」となるか。

タコ焼きは小麦粉で作る。小麦粉はメリケン粉ともいった。つまりアメリケン(アメリカ)の粉。お好み焼きなども、一銭洋食というが、西洋の醤油=洋醤(ソース)も使う。たこ焼きもお好み焼きも、じつは「西洋料理」「洋食」で、だから「ハイカラ」な食べ物だった。ハイカラな洋食なので、ハイカラなラヂヲ焼きの名前がつけられた。

今里の会津屋は、ある日、明石の男がやってきてラヂヲ焼きを食べ「なんや?大阪は牛かいな?明石はタコつことるで」と何気なくつぶやいたことで、たこ焼き発祥の店となった。

明石の男は謎で、名前などはわからない。場所が面白い。今里新地だから、明石の男もきたのだろう。今里新地は、昭和初期には松島、飛田を凌駕する最新の遊廓として繁栄を誇っていた。エロは強い。わざわざ明石の男が今里まで来る。

会津屋というのも意味深で。創業者は会津がルーツ。近代の会津は複雑な歴史を有している。どんな由縁があって大阪まできたのか。興味がそそられる。

会津の男と、明石の男が、大阪名物を作った。文化のダイナミズムというのはそういうもの。ミクスチャーから生まれる。ごった煮ですわ。


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トルク東大阪。古地図を用いてお地蔵さんを探してみよう!というプロジェクト。

2023 年 6 月 17 日 Comments off

トルク東大阪。古地図を用いてお地蔵さんを探してみよう!というプロジェクト。

旧村、集落の入口、出口、街道のクロッシング、二叉路、三叉路などには大体、お地蔵さんがいるので、古地図で旧村、集落、街道がわかれば、お地蔵さんも発見できる。それを六体発見して「マイ六地蔵」を探してみるw

新しい住宅地、戦後の開発では、お地蔵さんが勧請されない。お地蔵さんがいないということは地蔵盆もない。先祖も帰ってこない。死者がいない。祖霊がいない。

地蔵盆はこどもたちに「ご先祖さんが帰ってくるんやで」「いつも先祖さんが見てくれてるんやで」と教える死生観教育の場であると思うのだが、そういう自分という存在の中に流れる「イノチの連続性」が確認できない。

人間は結局、環境の生物だから。「今だけ。金だけ。自分だけ」という考え方は、お地蔵さんがいないような生活環境などが影響するかもしれない。

自分よりも大きい存在。形而上の、超自然的な、超越的なもの。そこへの「祈り」や「願い」の場があること。結構、そういうことは人間の成長に大事なことだと思う。


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大阪日日新聞が7月末で休刊に

2023 年 6 月 13 日 Comments off

大阪日日新聞が7月末で休刊に。昔はコラムも書きましたし、大阪あそ歩やまわしよみ新聞も何度も取材されて記事にしてくれました。ありがとうございました。

新聞消滅時代。新聞ジャーナリズムの低下、崩壊によって何が起こるか?といえば議会政治の劣化と専横。どんな議員がいて、どんな議案が話し合われているのか?それを伝える人がいない。権力の監視が及ばないから民主主義が機能不全に陥り、死んでしまう。

ネットメディアは成長、拡大していますが、しかし残念ながら権力を監視するという、そういうジャーナリズムの本道、社会の公器たらんとする大義で動く人は少ない。それにお金を出す組織もなかなか見当たらない。

ネットメディアは新しいようで「動画再生回数(広告CMの視聴者数)がお金になる」という実に古い収益構造モデルだから、ゴシップ的なYouTuberが跳梁跋扈して、どうでもいいコンテンツを大量生産し、悪貨が良貨を駆逐するが如くの現状となっている。

こういうのは「不快感を覚える」といったボタンがないものか。動画再生回数ではなくて、その動画を見た人の評価(「いいねの数」と「不快感の数」で相殺する)で収益を換算するようにしないと、いつまで経っても良質なネットメディアは育たない。迷惑系YouTuberなどは、これは結局のところ、YouTubeの管理の不手際、責任問題であろう。

大阪の話に戻す。大阪の地方政治(維新政治)が異常なのは、大阪の地方新聞の権力監視が脆弱であることが大いに影響している。大阪日日新聞は過去に経営難に陥り、結果、鳥取県の新日本海新聞社が親会社になりましたが、しかし発行部数は1万部もいかないという哀しい現実がありました。

大阪は新聞のジャーナリズムがないのに、しかし準キー局という日本でも特異な位置の在阪テレビがある。在阪テレビ(準キー局)はキー局(東京)ほどの権力はないが、かといって地方局ほど弱い存在でもない。

大阪にいるとよくわかりますが、大阪出身で東京に一瞬だけ進出したけど定着せずに帰ってきた芸能人や、東京では人気が低迷したタレントなどが大阪の番組で活躍する…というパターンが非常に多い。大阪の準キー局は、そういう受け皿的なポジションにあり、結果として、どこか東京に対してルサンチマン的な雰囲気がある。そういう番組を大阪のおばちゃん、おじちゃん、高齢者がよくみていて、自然と洗脳されて、アンチ東京を昂進させる。

新聞は文字(ラング)のメディアであるから、それなりにロジカルで論理的なメディアですが、テレビは言葉(パロール)のメディアで、情感的、情緒的、感情的で非論理的な特性を持っている。テレビの中では声が大きいものが場を制します。

どれだけいっていることが非論理的で、破綻していようと構わない。相手の言葉を遮り、煙に巻き、重箱の隅を突き、針大棒小でもいいから極論をいって場を支配すれば、視聴者はそういうものかと思い込んでしまう。そういう詭弁的テクニックでテレビメディアを制したのが橋下氏でしょう。橋下氏が悪いのではなくて、テレビというのは、そういうメディアだということです。煽情型メディア。劇場型メディア。

地方新聞が弱いのに地方テレビが強いというのは非常に歪なメディア環境で、これが大阪の維新政治の躍進にも繋がっている。この特異なメディア状況がわからないと、大阪の政治状況がよくわからない。

大阪日日新聞の休刊で大阪の地方新聞は本当にもう消滅してしまう。新聞が強い地方は、地元の議会・議員にも見られているという緊張感があり、地方の政治を糺す作用が働いている。それがなくなってしまった大阪は、ますますおかしなことになっていくだろうが、歯止めがない。つらいことです。

ちなみに大阪あそ歩プロデューサー時代に大阪日日新聞のK記者さん(この人は大阪日日新聞の良心だといまだに尊敬しております)に取材され、その発行部数を聞いたときに「8000部です」といわれて、その余りの少なさに衝撃を覚え、それが僕に「大阪に地方新聞を作らないといけない!」という高邁なる志(?)を抱かせたキッカケでした。

その高邁なる志(?)が結実したのが、じつは、まわしよみ新聞であります。新聞社を作ったり、新聞記者になったり、新聞を発行することは資本がない僕にはできないが、新聞の読者は、新聞を自由に語り、切り取り、再編集することができる。だから、どんな新聞でもいいから新聞を購入し、読み、政治や経済、社会の出来事を話し合う場を作れば、こういう形でも権力の監視が成せるのでは?…と考えたわけです。17世紀イギリスのコーヒーハウスのような、町衆のメディアを作ろうと考えた。

なぜ大阪から、まわしよみ新聞がでてきたのか?生まれてきたのか?は、地方新聞の消滅という危機意識からだったということです。何が物事を動かすか、生み出すか、わからしまへんな。


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京都府宇治市。ウトロ。名物の七輪焼肉。

2023 年 5 月 31 日 Comments off

京都府宇治市。ウトロ。名物の七輪焼肉。

ウトロ平和祈念館前は七輪焼肉ができるように広いスペースが作られた。コミュニティの要は食。食を囲むと、それだけで、仲間意識のようなものが芽生えてくる。

大阪にも同じような知恵があり、それが「たこ焼き」や「お好み焼き」だったりする。

僕は堺の団地住まいであったが、時々、団地のおばちゃんたちがたこ焼き器でたこ焼きの会を開いてくれた。団地のこどもたちが集まって、わいわいと楽しむ。たこ焼きやお好み焼きの味というより雰囲気や人が大勢いたりする、その場が楽しい。空気感が嬉しい。そういう人と人を結びつける接着剤の食べ物がたこ焼きであり、お好み焼きであった。

本来のたこ焼き、お好み焼きというのは、ウトロの七輪焼肉のようにコミュニティの要であって、みんなが一緒になって作って、みんなと一緒に食べるもんであって、出店で金出して出来合いのもんを買うんやおまへん。

それを大阪名物といって「大阪いったらたこ焼き食べな!」「お好み焼き食べなあかん!」とメディアが煽り、何も知らない大衆が洗脳されたことで、奇妙な食べ物になってしまったのが、たこ焼き、お好み焼きの哀しき運命。いまや一皿1000円とか値段も高騰しすぎて、断言しますが、大阪の人はあんなもん食べまへん。

大阪きてお土産買うんなら、たこ焼きやのうて「たこ焼き器」をこうて帰りなはれ(あと大阪の地ソース。これが味の決め手!!!)。それで地元で、みんなで、たこ焼きを作って食べるがよろしい。それが大阪の町衆のエネルギーの源泉であったことがよくわかります。タコパしなはれ。


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大坂本願寺と築地本願寺は佃・大和田漁民によって繋がるのでは?

2023 年 4 月 26 日 Comments off

名古屋の浄土真宗本願寺派の西念寺の岡林俊樹住職からメッセージが来て東京・佃島の見所をいくつかピックアップしたら巡ってくれました。いろいろと懐かしい。

江戸の佃島は大阪の佃(と大和田)の漁民が家康に請われて江戸に移住して作られたという。最先端の漁業技術をもっていた佃・大和田の漁民たちは江戸湾の漁業権を掌握して繁栄したとか。「佃煮」の佃島ですなw

また江戸時代の佃島の漁民たちは皆、本願寺の門徒衆であったそうで、だから築地本願寺が出来る際には土地の埋め立て工事などに尽力した。築地本願寺は佃島漁民の信仰に支えられて発展したという歴史がある。※だから築地本願寺の境内に佃島初代名主の佃忠兵衞報恩塔があったりする。

それで以下は僕の推論だが、江戸・佃島漁民のルーツとなった大阪の佃・大和田の漁民たちも、おそらくは本願寺門徒であったろうということ。そして彼らは実は信長の石山合戦の残党ではないかと思う。石山(現在の大阪城界隈)を追われて、近くの大阪湾岸の佃・大和田に集住した。

だから基本的に佃・大和田の漁民たちは反信長・反豊臣政権(秀吉は信長の継承者であるから)で、それで家康の江戸入府のさいに、わざわざ江戸に移って江戸開発を助けたのではないだろうか?

また石山合戦で敗北して佃・大和田に落ちぶれたが、そもそも佃・大和田にも先住の漁民がいたことだろう。後からやってきた本願寺門徒の残党はいまいち所在が落ち着かなかったのかもしれない。それで新天地を求めて江戸・佃島開発に乗り出した可能性もある。何かしらの事情がなければ、わざわざ大坂から遠く江戸まで赴くだろうか?

以上はあくまで推論であるが、大坂本願寺と築地本願寺は佃・大和田漁民によって繋がるのでは?と僕はなんとなく直観している。全然、ちゃうかも知れんけどw

以下は岡林住職の記事のシェアm(_ _)m

驚いたのは佃島の門徒は渡邉さんというらしい。おそらくは渡辺党(渡邉、渡邊、渡部)の末裔ということだろう。摂津一宮・坐摩さんのご神官一族に繋がる大阪の名族中の名族である。

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東京に行って、築地本願寺から佃島までまち歩きしてきました。観光家の陸奥 賢さんに見どころを教えてもらったので充実した旅行でした。徳川家康に気に入られて大阪の大和田・佃から東京の佃島に移住して、江戸の漁業・文化の発展に多大な貢献をした人々と本願寺との関係を体感するためのまち歩きでした。浅草で焼失した江戸の本願寺は、現在の築地に再建されるのですが、もともと海だったところを埋め立てるという大事業だったそうです。佃島の人はその事業に多大な貢献をして、本願寺を支え続けてきました。月島にある佃島の説教所を建て替えた築地本願寺佃島分院にも参拝してきました。それを調べていると説教所を支えてきた門徒講の渡邉信夫さんの動画を発見しました。大阪の渡邉一族から雑賀孫一、村上水軍の掛け声のある盆踊りなど歴史・伝統の豊かさと、きっぷのいい江戸っ子気質の深さとたくましさを感じました。大阪と江戸と本願寺の接点について、深い学びを得ました。単に信仰ということでは理解できない、自然と寺院・神社と共同体の構造を垣間見させていただきました。佃の人々に自然やいのちと真摯に向き合い、神仏を中心に絆を深め、濃密でいながら、あっさりと財産を共同体に提供するような、しなやかな生き方、その深みを感じるとともに、そういった精神を汲みだしてきた、真宗の教えを深く探究していこうと思います。東京をより身近に感じつつ帰路に着きました。これで寿司の味わいも変わります。ありがとうございました。称名


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【日本NIE学会】デジタル版の機関誌『NIEフォーラム』が創刊され、その記念すべき第1号にまわしよみ新聞の実践が紹介されています。

2023 年 4 月 24 日 Comments off

【日本NIE学会】デジタル版の機関誌『NIEフォーラム』が創刊され、その記念すべき第1号にまわしよみ新聞の実践が紹介されています。

『生徒―新聞―生徒のつながりから知の幅を広げるNIE実践』(“NIE” Practice ~Broaden Students’ Knowledge through the Link between Students and Newspapers~)という広島国際学院中学校・高等学校の為重慎一氏の論文です。

詳細は以下リンクからPDFのダウンロードができます。ご興味ある方はぜひともご覧ください!m(_ _)m

https://jssnie.jp/files/FORUM/No.1.pdf


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