【大蓮寺ものがたり】去年の夏頃に大蓮寺の秋田光彦前住職から「大蓮寺の歴史、伝説、伝承などをまとめた小冊子を作ってほしい」というご依頼をうけて、約8か月ぐらいかけてコツコツと文献リサーチを積み重ね、纏めたのがこちらのPDFです。
https://drive.google.com/file/d/1aRYSSpLGsRG-fLTMjTOWXRyLF2oRc8-Z
リサーチをしながら出てくる大蓮寺エピソードがあまりに面白すぎて夢中になりました。じつに通好みというか、マニアックな一冊ですが、ぜひとも読んでほしい一冊です。大蓮寺サイトにて無料でPDFで公開されています。ダウンロードしてご笑覧ください。
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【『大蓮寺ものがたり』が発行されました】
このたび、観光家・陸奥賢の執筆による『大蓮寺ものがたり』が発行されました。秋田光彦老僧の「伝説、伝承の類も含めて大蓮寺にまつわる事績、人物、エピソードなどをまとめた小冊子を記念に作成したい」という長年の願いが実現しました。春彼岸法要に来られたお檀家さんにはすでにお配りしましたが、大蓮寺を知っておられる方も、そうでない方もきっと楽しんでいただける内容になっていると思います。大阪の古い歴史を紐解くような出来事から、全く知られなかったような出来事まで、大蓮寺ゆかりの物語が刻まれています。公開いたしますので、どなたさまも下記よりどうぞご一読ください。
https://drive.google.com/file/d/1aRYSSpLGsRG-fLTMjTOWXRyLF2oRc8-Z
↓大蓮寺HPはこちらから
https://www.dairenji.com/?post_type=informations&p=4891
この長屋と路地なくなります展@空堀
もうイベント時間は終了してましたが、梅山くんにメールしたらぜひ寄ってくださいとのことなので、ひとりで最後の客として訪問しました。
長屋は借家ですが、先だって應典院で「家じまい」をテーマにした写真展『キオクノキロク』 (写真家・藤田温さん)が開催されていて、僕も行きましたが、その影響もあって最近、よく「家じまい」について考えます。
団塊の世代(1946〜1949年生まれ)というのは凄い世代で、いろんなデータがありますが、なんと持ち家率が86.2パーセントとか。85パーセント超えでっせ?考えられないというか、信じられない。うちの父親(1942年生まれ)は団塊の世代より前の世代で団地住まい(借家住まい)でしたが、じつは珍しいパターンなんかもしれません。
たぶん日本の歴史上、これだけ「家」というのが建てられた時代はないし、空前絶後の規模でしょう。借家住まいの方が少ない世代。
江戸時代の大坂なんかは借家住まいだらけでした。家持ちになると税金を払わないといけないので、みんな嫌がった。そこそこの金持ちでも家は持たない。奉行所が「頼むから家持ちになって税金払て」とお触れ書きで何度も何度も依頼してるぐらい。それぐらい家持ちは珍しく、借家住まいだらけだった。
都市というのは基本的に流民であって、だから借家住まいというのがスタンダード。また昔の大坂は水害、天災も酷かった。地震、津波、高潮、洪水、台風など、なにかあると水が溢れて家が流される。鍋釜の家財道具なんかもどっかに流されていく。しかし流されても大丈夫。またどっかから流されてくるので、それをありがたく拝領して流用するわけですw 俗にいう「風呂屋のゲタ理論」ですな。
だからそこそこのモノを買う。一級品なんか買わない。甲乙丙の乙。甲はもったいない。流されたらえらいこっちゃですがな。丙は使えない。安物買いの銭失い。そこそこの乙がよろしい。乙な生活。都市流民の本道はそこです。都市民よ、乙であれかし。
乙な生活をするには、借家住まいでいいし、そこそこの長屋でよろしい。それは都市流民の知恵です。梅山くんはその実践者で、次も寺田町の長屋に住むとか。素晴らしいw
僕も昔はそこそこの長屋に住んだこともありますが、大体、長屋住まいの妙というのはネズミとの戦いですなw ネズミというのは実に聡い生き物で、自分の生活の安全圏、縄張りを確保するためにフンをする。
最初は部屋の隅っこにフンを落としていく。それを掃除するのを忘れると、次は、もうちょっと部屋に進出してきてフンを落としていく。慌ててフンを掃除すると、また最初の隅っこにフンをします。マーキングやり直しです。
ところがフンの掃除を忘れたり、見落としたりしていると、フンがどんどん部屋に進出して、最後は部屋のど真ん中のちゃぶ台の上でフンを落としていきます。発見した時は叫びますよ。ギャー!です。慌てて大掃除して、ネズミは、また部屋の隅っこからスタートです。それを延々と繰り返すのが長屋暮らしの嗜みですw
こういうネズミ問題は猫を飼うとあっというまに解決しますが、猫は猫で、どっかからヘンな虫を狩ってきて、バラバラに解体して、玄関先に並べたりしますから。これは狩猟の腕前、技術を誇っていたり、「君も食べてええよ」っていう猫なりの親愛の表現らしいんですが、残酷残虐すぎて、あれはあれで家に帰ってきた時のトラウマです。ギャー!です。
梅山くんが住んでいた築100年超えの長屋は潰されて、おそらく何の変哲もないマンションになるとか。この一角は珍しく長屋が連なっていて。わかっている不動産屋さんなら長屋全体をリノベして、長く活用しようとするかもしれないんですが。非常に残念なことです。
江戸時代の大阪七墓巡りは何度も禁令が出ている。幕末は毎年、出ている。毎年、でても、やめなかった。
七墓巡りに参加する女性は前垂れをかけたらしく、当時のお触書きに「七墓巡りに参加する女性は前垂れをかけるな」というのがある。じつは前垂れは遊女のサインであるから。そういう女性が多く出た。
前垂れは大体、赤色で、だから「赤前垂れ」とか「赤手拭」とかいう。大阪・桜川に「赤手拭稲荷」というお宮さんがあるが、あれはそういう遊女たちの信仰を集めたお宮さん。お参りに行くといまも新町講と刻まれた玉垣などが、ちゃんとあります。
なぜ前垂れをかけて歩くか?といえば、七墓巡りに参加して「色情のつみ」を重ねると「梅毒が抜ける」という民間信仰のようなものがあったから。
だから性病に悩む若者、女性たちが、性病を治すために、七墓巡りに参加した。交われば治るどころか、余計に性病は広まる。そういう知識が発達していない時代のことだからしょうがないが、なかなか凄い状況ではある。
【東京都】千代田区。神保町。PARAにて。5日間のリサーチであちらこちらからフリーペーパーやらチラシやらパンフレットやらを入手してきたので、それらを回し読んで、気になる情報、記事を切ったり貼ったりして『まわしよみ神保町』創刊号を発行!w
まわしよみ神保町を作るつもりなど、まるでなかったんですが、なんとなくまわしよみ新聞の手法でまち編集してみました。やってみるとまちリサーチの振り返りにめちゃくちゃいい。まわしよみ新聞、万能ですなw
PARA4階に貼ってます。観たい人はPARAにぜひw
小川町。三崎町。興武所跡。
黒船来航以降、幕府は国防に目覚め、その訓練場として開設されたという。明治維新後も陸軍練兵場として使われていたそうですが、その講武所跡地に出来たのが日本大学。
松下村塾門下の長州藩士・山田顕義が創設した日本法律学校が日本大学のはじまりとなる。山田顕義は皇典講究所も設立していて、これは国学院大学に繋がるとか。欧米を視察し、憲法草案なども作り、長州系であるし、長生きすれば総理大臣などもあり得たかもしれませんが、残念ながら生野銀山訪問中に卒中で倒れて横死した。享年49歳。
日本大学の大阪校が近畿大学となる。ご縁があって、ここ最近、近大で講師したりしてますが、僕は山田顕義の仕事(大学設立)の恩恵を受けているということですなw
神田。小川町。五十稲荷神社。
神保町界隈は江戸時代は武家屋敷ですが、その影響でか、どうもお稲荷さんなども少ない。
武家屋敷というのは町名もなかったという。町会がないということで、大体、地域の地蔵や稲荷というのは町会が維持管理するものだから、武家屋敷では結果として、そういったものは勧請されにくいだろうと思う。個人的に、屋敷神として勧請することはあるだろうが、町のものとはならない。
武家屋敷が町会を作らなかったというのも、結局、彼らは幕府とか藩に所属していて、それらは表面的には社交するが、腹の底では敵対しているからコミュニティなんてのも形成できなかったのだろうと思われる。幕府や藩の情報が他に渡ると大変ですからな。どこかで一線を引いた人間関係となる。
そういった武家屋敷の神保町(神保というのが、そもそも旗本の名前という)から東に向かうと小川町界隈に至る。こちらは江戸時代から町人エリアだったそうで、途端にまちのあちらこちらにお稲荷さんがいはります。
大阪はあちらこちらにお地蔵さんがありますが、江戸はあちらこちらにお稲荷さんがいる。東京の人は普通の感覚のようですが、大阪人からしたら不思議な現象で。よくわからない。
なぜこんなに稲荷神が多いのか?ですが、いろいろと諸説あるそうですが、田沼意次が篤く稲荷神を信仰したからという話があるそうな。
田沼家は紀州藩士で、しかし吉宗の将軍就任によって道が開けた。田沼意次はたかだか600石の旗本からどんどんと出世して老中にまでなる。
老中は本来ならば石高2万5000石以上の譜代大名から選ばれる。老中筆頭は幕政の全てを管轄するから、今でいうと総理大臣みたいなもの。江戸時代、初めて一旗本から老中まで成り上がったものは田沼意次以外にいなかった。
江戸庶民はその田沼意次の立身出世ぶりをみて、それに肖りたいと稲荷神を祀るようになったという。稲荷神というと農耕神というイメージがまずありますが、江戸の稲荷神の場合は、どうも農耕神というよりも開運、立身出世の神として祀られたというのが正解ではないかと思われる。だからまちなかにある。
田沼意次の政治は毀誉褒貶激しいが、江戸のまちの稲荷信仰の元祖かも?という説は、個人的にはいろいろと興味深いし、面白い。
神田。小川町。太田姫稲荷神社。大阪人にはまるでピンとこないが、東京人が愛してやまないのが太田道灌。東京界隈歩いてると、ほんまに、あちらこちらに太田道灌の銅像があります。銅像があると思ってみたら太田道灌で、どいつもこいつも、どこもかしこも太田道灌だらけ。それは言い過ぎか。
いや、しかし、ほんまに太田道灌にまつわる伝承、伝説は多く、太田道灌の姫さまの伝説がこちらの太田姫稲荷神社。姫さまが天然痘、疱瘡に倒れて、父親の太田道灌が京の一口稲荷にお参りしたら見事、完治したので当地に勧請したという。
一口は「いもあらい」と呼んで京都でも有名な難読地名のひとつ。天然痘、疱瘡は全身がイボだらけになるわけですが、イボを霊水で洗って治すので「いぼあらい」が訛って「いもあらい」になったとか、天然痘、疱瘡の身を浄める霊水、霊泉の取水口がひとつで「一口」と書いたとか、いろいろと語源の諸説がありますが、よくわからない。
天然痘、疱瘡、流行病というのが恐れられたというのはよくわかります。その疫病退散、厄病封じの神さまということでしょう。元はお茶の水あたりに元宮がありましたが、国鉄の総武線が拡張するというので昭和の頭に現在地に遷座したとか。無茶苦茶しまんなあ。国鉄は。
太田姫は天然痘、疱瘡が治ってから、どうなったのか?詳しい記述はなかったですが、調べたら、なんか出てきそうですな。
美しいお姫さまが天然痘、疱瘡によって醜い顔になって男に騙されて…なんてのは、まあ、鶴屋南北あたりが好きそうなお話でw 太田姫。気になる。
神保町。日本語学校の東亜高等予備学校ができた影響で神田、神保町は華僑が多く住んだ。若き頃の周恩来が来日して学んだのも神保町の東亜高等予備学校。美学校、PARAの隣にある愛全公園がその跡地です。
周恩来や、あと孫文なんかも訪れたというのが神保町の中華料理店「漢陽楼」。初代の方は中国から日本にやってきてロシア系の銀行の掃除夫をやっていたとか。ところが日露戦争の影響でロシア系の銀行が解散。失職してしまう。
これからどうして生活すればいいのかと途方に暮れていたら仲間うちから「お前が作る飯はうまいから料理屋でもやったらどうだ?」と勧められ、それで開業したら大成功したという。
戦後は普通の「まちの中華屋」という感じだったらしいですが、ある時、テレビ局がきて「周恩来の日本の滞在記、日記に漢陽楼という店がでてくるんですが、それはここの店ですか?」と取材がきて、店の人も誰もそんなことは知らずでビックリ仰天。調べてみると、まさしく間違いなく漢陽楼だった。以後、メディアにも数多く取り上げられて、神保町を代表する名店、老舗として、ますます繁栄したという。
周恩来が愛したという肉団子スープがありまして、注文してみたら、これがほんまに美味。唸りましたな…。周恩来!