高知県高岡郡越知町から横倉山を遥拝す。
越知町の西方に位置するのが横倉山。ここは安徳天皇が生き延びて暮らした…という伝説のある霊峰で安徳天皇の墓もあり、それは宮内庁がちゃんと管轄していたりする。何かしら信憑性が高いと宮内庁も判断したのだろうか?
越知(おち)という町名からして意味深ではあり、平家の落武者、安徳天皇の落ち延びの「おち」からきている…というような俗説もあるようだ。そんなわかりやすい地名、町名つけへんやろと思いますが。
町役場の手前に越智新兵衛という謎めいた人物の墓があり、大事に守られている。越知村の開拓者らしいのだが、南北朝時代の落武者だとか戦国時代の落武者だとか、モノの本で書かれていることが違い、情報が錯綜している。正体がよくわからない。
Googleマップで池川や越知、横倉山を検索してもらうとわかるが、確かにとんでもない山間にある集落で、人が住むには難所であろうと思う。何かしらの事情がなければ、なかなかここに移り住み、開拓しようとはならないのではないか?上方、畿内の政争、戦争に敗れて「おち」てきた人というのも確かにいるのだろう。
しかし明治維新以降は流通もよくなり、越知は商業都市として発展して、隣の佐川町(土佐藩筆頭家老の深尾家が治めていて地域有数の城下町だった)に負けず劣らずに栄えた時代もあったという。
陸奥万太郎、陸奥龍彦が暮らしていた時代がまさにその時代で、池川村土居の集落から越知町に至って近代日本の発展ぶりを如実に体感したのではないかと思う。ここで陸奥龍彦は国学者として活動していたらしい。
毎朝毎夕、横倉山を遥拝して暮らしていたのかも知れない。
高知県高岡郡越知町。吾川郡池川村出身の陸奥万太郎(4代前の高祖父)、陸奥龍彦(3代前の曽祖父の兄)の親子だが大正時代には越知町にいたことが戸籍から判明している。戸籍では大正7年(1918)に「越知甲1617番地」で陸奥万太郎が死去したと記録されていて長男の龍彦が同居していて死亡届を役所に出していた。大正時代の番地なんか残ってないよな…と調べたら、そのまま令和の今にも番地が残っていた。驚いた。
写真の1枚目がその場所で、天理教の越知大教会の裏側にあたる。石垣はあったが、すでに更地で家などは残っていなかった。
土佐藩もかなり明治初期の神仏分離令(廃仏毀釈)が酷かった地域で、高知県内の寺院の7割近くが廃寺されたとか。池川村や越知村もその影響で寺院が破壊された。その後、幕末新宗教の黒住教、天理教などが入ってきて隆盛を誇ったという。高知を巡っていると、あちらこちらに天理教、黒住教の教会がある。「陽気ぐらし」「ご日拝」の教えと南国土佐は相性も良さそうではあるが。
高知県吾川郡仁淀川町の大崎玄蕃大神へ。かつては大崎村というのがあり、その大崎村の開発者が大崎玄蕃という人物らしい。信州・長野は諏訪大社の御神官だといい、戦国時代の天正年間に当地に住み着いたという。
じつは地元・仁淀川では大崎玄蕃の正体は武田信玄の後継の武田勝頼で、織田軍との天目山の戦いに敗れた後、香宗我部氏(元は甲斐源氏に繋がる)を頼って土佐に逃げ落ちて、大崎玄蕃に改名した…という伝説・伝承になっている。勝頼が伝えたという「玄蕃踊り」という手踊りの伝統芸能もあり、なんとこれが「よさこい」の源流のひとつという。「武田勝頼土佐の会」という郷土研究グループもあり、武田勝頼ゆかりの地などを発掘、調査、検証している。
また仁淀川町大崎では長生教という新宗教の教祖がいて、この教祖が武田勝頼公の子孫であるともいう。この教祖さまの名前は岡林氏というが高知県では岡林姓は非常に多い。大崎玄蕃は、地元の有力者で御神官一族の岡林氏の娘と繋がったということになっている。
陸奥万太郎(4代前)の妻が、じつは大崎村の岡林貞四郎の娘・定(ジョウ)という女性で、要するに僕の曽祖母(ひいひいばあちゃん)となる。大崎村の岡林一族の娘ということで、もしかしたら武田勝頼の子孫に当たるのかもしれないw
おお。おれ、武田の血が入っていたのか。知らなかった…。
高知県吾川郡仁淀川町。旧・池川村は松山街道(伊予街道、土佐街道、宇和島街道)の宿場だった。その街道から少し高台に登ると石垣がいくつも残っている。池川村の古地図などを見ていると「ヤシキ」と記載されていて屋敷の跡地であろうと推測できる。
陸奥家は明治の戸籍には「吾川郡池川村土居四番屋敷」にあったと記録があるので、これらの石垣のどれかが陸奥家の石垣なのだろうと思う。
途中で門構えが残っているところもあった。まさしく屋敷である。貴重な遺構といえよう。
高知駅吾川郡仁淀川町の池川神社へ。池川村の氏神さまで、また土佐三大神楽のひとつで、400年以上前から継承されている高知県最古の神楽・池川神楽が有名とか。
400年以上続いている神楽とは畏れいる。池川村土居在住の陸奥藤吾、万太郎、龍彦・利宗・巌雄の三兄弟も見ていたことだろう。もしかしたら舞手、奉仕者をやったとがあったかもしれない。Youtubeなどで検索すると、いろいろと動画はあるが、機会があれば、いっぺん現地で見てみたいものです。
高知県吾川郡仁淀川町の池川集落。安の河原にある「天明逃散集合の地」の史跡。
江戸時代、吾川郡池川村は土佐和紙の名産地として知られていた。ところが土佐藩は悪化する藩財政をなんとか改善しようと池川村の和紙の自由売買に禁止令を出して、藩の専売にしようと目論んだ。折悪しく天明の大飢饉にも襲われて池川村の村民たちの生活はすこぶる困窮し、ついに天明7年(1787)2月16日、池川村の農民601人の男子が、藩境を越えて隣接する伊予松山藩領(現・愛媛県久万高原町)の菅生山(すがおやま)大宝寺へ逃散(駆け込み)を決行したという。
結果として30日近くも山に立て籠り続け、土佐藩が折れて池川村の和紙は元通りに自由販売が許可された。「池川紙一揆」といわれて、土佐藩政史に残る大事件として記録されている。
陸奥家の祖先が、この池川紙一揆に参加しているかどうかはわからない。一応、陸奥家の家紋は宇和島伊達藩の宇和島笹と一緒で、家の言い伝えでは宇和島伊達藩の武家の子孫ということになっている。
なんで宇和島藩士の子孫が土佐藩領の池川村にいるのか?と疑問に思うが、池川集落は松山街道の宿場で、土佐と松山を結ぶ重要な拠点でもある。松山から南に下ると宇和島なので、松山街道は宇和島街道にもつながる。宇和島、松山、土佐の藩士の行き来もいろいろとあったろう。何かしら街道に纏わるような仕事をしていたのかもしれない?と推測したりもしているが、よくわからない。
高知県吾川郡仁淀川町の池川集落へ。明治初期は吾川郡池川村であった。ここの「池川村土居4番屋敷」で産まれたのが陸奥万太郎といい、僕の4代前の高祖父=曽曽祖父になる(戸籍には前戸主として5代前=玄祖父の陸奥藤吾の名前もある)。4代前の万太郎が何をしていた人か?というのはよくわからないのだが、万太郎の息子3人(龍彦、利宗、巌雄)は多少、経歴がわかっている。
長男の陸奥龍彦は土佐清水市のいくつかの小学校(宗呂小学校、下ノ加江小学校)で校長先生をやったり、司法省(広島県加計出張所)で書記として働いたりしていた(明治32・1899年頃)。しかし妻と離縁したことをきっかけに高知県高岡郡越知町に移住し、そこで教育者、国学者、郷土研究家として生涯を終えたらしい。
龍彦の弟子には結城有(たもつ)氏がいて、この結城有氏と明神健太郎(この人も郷土研究家で結城氏の弟子。陸奥龍彦からすれば孫弟子)氏が発表したのが『八幡荘伝承記』。結城氏(佐川の大庄屋の一族)の家の蔵にあったという土佐の南北朝時代を記録したという歴史書の翻訳本だが、なぜか結城氏が原本を世間に公開しなかったので「幻の歴史書」といわれている。偽書疑惑もあるが、この原本を読んで「素晴らしいものだから大事にしなさい」と結城氏にアドバイスしたのが師匠の陸奥龍彦だったりする。公開をアドバイスしておれば中世土佐の歴史に光が当たったのかも知れないのに…。惜しい。いつか世間に出てきてほしい。
次男の利宗が僕の曾祖父(3代前)で高知師範学校(現・高知大学)を卒業して大蔵省専売局の書記をやり、その後、退官。しかし大蔵省専売局の先輩OBの渡辺新太郎が、かつての上司で、その渡辺新太郎が宇治山田市(現・伊勢市)の市長になったときに(渡辺を招聘したのが宇治山田出身の元大蔵官僚で衆議院議員の池田敬八)、宇治山田に移住して市役所主事を務めた。渡辺新太郎の右腕のような存在だったと思われる。
三男に巌雄という人もいて、この人も大蔵省専売局の書記を長く勤め、叙勲(従七位勲八等)されている。面白いのが晩年に「釣魚用被せ玉」の特許を取得して、昭和12年・1937年の発明推進協会に記録されている。同じページに松下幸之助が「電燈ケース」で名前が載っていたりもした。釣り好きだったのかも知れない。
池川村(池川町)は仁淀川町になり、仁淀川は清流で知られ、「仁淀ブルー」というと、海外でも有名らしい。集落を訪れて、あまりの川の美しさに絶句した。陸奥家はこんなところから出てきたのか…。
国内主要都市の自転車の分担率。我らが「いわき時空散走」のメインステージとしている、いわき市はなんと「3%」です。日本の都市の中では沖縄市に次いで自転車分担率が低い。
沖縄はアメリカ占領時代でクルマ社会化が進み、また暑いし、日焼けするし、急に雨が降るし、平野が少ないし、坂道だらけやし、道も狭いし…で、そりゃ自転車分担率が低いのはわかりますが(そもそも沖縄県は自転車保有率が日本一低い。自転車を売ってるところが少ない)、その沖縄市に次いで低いのがいわき市というのは、これは、なかなか衝撃的な数字です。えらいところで時空散走始まったんやな…。ほんまに…。
逆に、日本でいっちゃんチャリに乗ってるのが大阪人ですw じつは世界に冠たる自転車国家のオランダ(27%)に匹敵するぐらい、大阪の自転車分担率(24%)は高いそうです。
実際、ほんまに大阪はチャリ天国ですから。どこもかしこもチャリだらけ。チャリどころかモペットにキックボードにシートボードに電動車イス(やたら爆走する老人とかいはる…)とが複雑怪奇に路上に入り乱れて24時間年中無休で狂い咲きサンダーロードなのが大阪の道路状況ですから。
自由。フリーダム。おおらか。いやぁ、大阪はええなぁ(ええのんか?)。
※画像は「自転車利用環境向上会議in名古屋」で発表された「自転車活用推進に向けた次期計画の策定について」(国土交通省道路局参事官・自転車活用推進本部事務局次長の土田宏道氏)の資料より拝借いたしましたm(_ _)m
https://www.jcc-nagoya.jp/
【自転車利用環境向上会議in名古屋】いわき時空散走は陸奥と寺澤が分科会に登壇して、いろいろとお話させていただいた(ほとんど寺澤事務局長)んですが、サイト上で補足資料も公開しております。
https://www.jcc-nagoya.jp/
画像は、その一部を抜粋してご紹介。
いわきは驚くほど「クルマ依存率が高い都市」です。中核市レベルではなんと「日本一のクルマ依存の都市」だったりします。逆にいうと日本で最も「自転車利用が低いまち」「自転車に乗っている人が少ない都市」のうちのひとつです。実際に国土交通省さんのデータでは「いわき市の自転車分担率は3パーセント」という衝撃の数字が今回の名古屋会議で示されてました。正直、のけぞりました…。
そんな「日本最下位レベルの自転車利用者が少ない都市」のいわきで実施されているいわき時空散走なんですが、これが毎回、春と秋のフェスでツアーを告知、募集開始すると、あっというまに予約申し込みが殺到して、全ツアーが満員御礼になるぐらい凄まじい人気です。キャンセル待ちがでたりする。
しかもツアーの参加する人の7割が「いわき市民」。「普段、自転車に乗っていない、自転車利用していない人が、なぜかいわき時空散走には参加する(自転車持ってないからレンタサイクルで参加する!)」という魔訶不思議な現象が起きているわけです。
要するにいわき時空散走のツアー参加者はサイクリストではない。いわき市民。いわきのまちの人たちが、コミュニティの人たちが、時空散走に参加して、自転車ツアーを楽しんでくれている。
そもそも僕はサイクリストではないし、「まち歩きのプロデューサー」をずっと、かれこれ20年ほどやってきた人間です。だから、まち歩き=コミュニティ・ツーリズムの方法論といいますか、それに関しては、それなりに過去のノウハウの実績や蓄積があるわけで、それをサイクル・ツーリズムに導入してみたわけです。そうすると、以上のような素晴らしい成果が出てきた。「自転車によるまちづくり」の新しい形、先駆、パイオニアになると、ぼく個人は思っています。
最近はいわき時空散走の参加者で「自転車に目覚める」という現象が起こってきてまして。「自転車を買いました!」「電動自転車を買いました!」という方も増えてきています。めちゃくちゃ嬉しい現象です。こうして、徐々に、自転車乗りが増えていってほしい。ぼくはいわきを日本有数の自転車のまちにしたいのですよ。いわきが自転車のまちになれたら、日本全国どこでも、自転車のまちになりますから。それは一種の人流の革命です。
現状は、いわきの自転車環境は、ほんまに大変なんですが、しかし逆転の発想といいますか、「自転車分担率が3%」ということは、ある意味「自転車の魅力に気づいていない人が、いわきには97%いる」ということです。この97%を掘り起こしていけばいい。
そのためには超・初心者用の、短くて、難しくなくて、簡単で、容易で、便利で、ラクで、楽しくて、おしゃべりして、食べて、お友達ができて、面白い、お喜楽なサイクル・ツーリズムが必要で、それがいわき時空散走だったということです。
この、いわき時空散走のスタイルは我々だけで占有しようとか、これっぽっちも思っていません。日本全国各地の自転車、まちづくり、観光、行政関係のみなさんに知ってもらいたいし、ぜひともパクってもらいたいと思っていますw
それで、どうしたらやれるのか?という方のために、作られたのが「時空散走憲章」です。コミュニティ・サイクル・ツーリズム、時空散走の仲間に、ぜひともなってください。一緒に盛り上げていきましょう。