久しぶりのウィングフィールドでした。コロナ以後初ちゃうかな?作品はウイングフィールド30周年記念事業でMODEさんの『見よ、飛行機の高く飛べるを』。永井愛氏の脚本はクオリティが高いので安心してみてられますな。学生たちが熱演していて、よかった。
https://note.com/mode1989/n/n66f9eaf40d84
劇中、一瞬だけだが「大阪の城東練兵場で飛行機が飛んだ」というエピソードがでてくる。
明治44年(1911)にアメリカのボールドウィン飛行団がカーチス式複葉機で空を飛んだのが大阪初、関西初の飛行機ショーといわれている。大部分の大阪人にとって、この飛行ショーこそが初めて人間が大空を飛ぶ光景を目撃した瞬間だったのではないだろうか。空を飛ぶというのは人類有史以来の夢であり、悲願であり、その実現の衝撃はいかばかりであったか…と思う。飛行機こそは人類の知性、理性の勝利であり、陶酔であったろう。
しかし、その人類の夢と悲願は、飛行ショーから数年後の第1次世界大戦(1914~1918)で、すでに悪夢のもの、恐怖のものとなる。飛行機は敵陣地を把握する偵察機として利用され、やがて空から爆弾を投下するという爆撃機の登場で、あっさりと大量殺人を可能とする戦争の道具へと成り下がった。
飛行ショー(1911)で人類の夢の実現を目撃し、歓喜した大阪の人々の、わずか30数年後(1945)に、B29の100機以上が大来襲するのだから人類の愚かさというか、歴史の皮肉、残酷さったらない。大阪は徹底した爆撃で焼け野原となり、焦土と化し、阿鼻叫喚の地獄をみた。
それは、でも、最初の飛行ショーから予告されていたことでもあった。陸軍の「城東練兵場」で飛行ショーが行われた…という事実が、それを予告している。なぜ陸軍が、城東練兵場で、飛行機のお披露目を行ったのか?それは当然、軍事利用、軍事目的のための演習という意味が込められていた。
作品のはじまり当初は女子師範学校の青春グラフィティっぽい描写だが、後半になると運動会(運動会はもちろん戦争の代理です)や「君が代」の中で見つめあう男女、憲兵に捕まると脅される先生など戦争の影がどんどんと、ひしひしと押し迫ってくる。
「女子だって飛ばなくっちゃならんのです!」とは劇中のセリフ。男たちは確かに飛んだが、その先に何があったか?
ラストシーン、飛行機のプロペラ音が大音量で流れ、消えていく。あれはどこに向かう飛行機なのだろうか?
いろいろと考えさせられる作品でした。永井愛作品はいいなぁ。
まちを歩いていて音楽が流れてきて「うわあ、ええ曲やな」と思いつつ、曲名やミュージシャンがわからない。タワレコの試聴CDで聴いたりして調べるが、わからない。
そんな曲のこともすっかり忘れてしまい、日常を送っていたら、しかし、ひょんなことで曲名やミュージシャンのことが判明したりする。時には数年越しの再会だったりする。こういう時の喜びったらない。感動で打ち震える。
遠回りするから楽しい、遠回りしたから嬉しいというのがある。「能率よく出会う」「効率よく知る」では見えてこない、わからない世界。
また「あのレコードかな?」「このミュージシャンかな?」と思いつつの音楽探し、レコード追求の時間が、その右往左往、紆余曲折、試行錯誤が、新しい音楽や曲、ミュージシャンとの出逢いとなり、豊かさに繋がったりもする。
今みたいに「音楽検索アプリ」などもない時代の話。タワレコとかもういかんもんなあ。試聴CDというのも聴かなくなった。
こういうフラフラすることを「逍遥」という。逍遥がない時代。逍遥の価値がわからない時代。若者よ、フラフラせよ。フラフラせなあきません。フラフラすることに関していえば自信がある。我が人生、フラフラしまくってますからなw
浄土真宗本願寺派僧侶養成部からのご依頼で今年も去年に引き続き、布教使過程全寮制コースにて講師を務めることになりました。中平さんとご一緒です。
中平さんはわかりますが、僕みたいな霊●会カルト3世の成れの果てに講師をお願いしていいんでしょうか?僭越というか恐悦至極というか浄土真宗本願寺派僧侶養成部の懐が深すぎます。深淵か。
とりあえず全力を尽くす所存であります!
南無阿弥陀仏
【三重県】鈴鹿大学にてまわしよみ新聞が発行されました!大学院の授業「観光調査の技法」の一環でした。ありがとうございます!^^
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【大学院】最終授業は「まわしよみ新聞」
https://www.suzuka.ac.jp/topics/2022/07/29/16181/
大学院の授業「観光調査の技法」の最終回は、「まわしよみ新聞」。「まわしよみ新聞」は、興味のある新聞記事を切り抜いて、グループディスカッションしながら、壁新聞をつくるワークショップです。
参加者は、中国と台湾からの留学生。中国語が飛び交う中、楽しくワークショップが進みました。日本の紙の新聞はあまり読んだことがないそうですが、それぞれの視点でおもしろいものができあがりました。
【カリグラシマガジン うち まち だんち】UR都市機構西日本支社が発信するウェブマガジン「カリグラシマガジン うち まち だんち」にて「陸奥賢さんと 梅田のまち歩き辞典をつくろう!」の連載をやっています。編集は竹内厚さん。その第6弾がオープンになりました!
梅田界隈のまちネタ(5本)をちょこちょこお披露目しております。今回は「暁鐘成の墓」「キタの九階」「ゴモク山の妖怪」「線路小屋のタアヤン」「手塚太郎と大阪控訴院」。
第1回から第5回も我ながら結構、それなりにマニアックですw 以下で見れます。読めます。ぜひとも!^^
https://karigurashi.net/article/umeda-jiten-6/
土居 浩先生よりご報告!『四国民俗』33号にて収録の大西英利さんの「関西を中心とした七墓参りの事例」が閲覧可能になっているとか!ご興味ある方はぜひとも!
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イベント当日にお伝えすべきだったこと、遅ればせながらコメントします。大西英利2000「関西を中心とした七墓参りの事例」『四国民俗』33号が、国会図書館デジタルコレクションの個人向けデジタル化資料送信サービスで閲覧可能になっています(要申請&ログイン)。今回のイベントでも特段に言及されなかったので、紹介しました。すでにご存知であれば、ご放念ください。
西成区玉出。会津屋。ご存知、たこ焼き発祥の店。
昭和の始め頃に今里界隈でラヂヲ焼(牛のスジ肉が入っている)の屋台をやっていた時に明石の男性客が「なんや大阪はギュウかいな。明石はタコ入れとるで」と呟き、それを聞いた店主がナルホドとラヂヲ焼にギュウの代わりにタコを入れてみたら大ヒット。たこ焼きが誕生した。
問題は「わざわざ今里に、なんで明石の男が来とるんや?」というところ。
じつは昭和初期の今里は新地が開発されて大阪最先端の芸妓のまち、花街であった。わざわざ明石の男が今里に足を運んだのはそういう理由ではなかろうか?
話のネタに冷やかしで夜の花街をウロウロして、結局、気後れして芸妓さんとは遊ばずに屋台を練り歩いて何気なくラヂヲ焼を食べて帰った明石の男。その何気ない一言。呟きが歴史となり、文化となったか。
うむ。深い…。知らんけど!
#大阪まち歩き大学
【茨城新聞】ニュースパーク(日本新聞博物館)さんで実施された「全国まわしよみ新聞サミット」の記事です!澤畑さんが取材してくれました。ありがとうございます!^^
記事の中身は有料配信ですが以下で購入、購読できます。ぜひとも!m(_ _)m
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16583997336566